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コスパ

二〇一〇年代の半ばくらいからでしょうか、SNS上で若い教師が教職の大変さを愚痴るようになり始めました。時代の気運は「働き方改革」真っ盛り。そんな情勢の中、それらの投稿には「残業が多い」「土日も出勤しなければならない」「部活動指導が大変だ」「授業準備の時間がない」「子どもが言うことを聞かない」「保護者からクレームを受けた」「何も教えてもらえないまま担任をもたされる」といった内容が多いようです。

教師には残業が多い。総体的に見て、これは事実だろうと思います。とはいえ、教師の残業の多くは、自らすすんで残業している人が多いのであって、残業しなければ解決し得ない多くの仕事があるというのとはちょっと違うように感じています。一般企業の営業職のようにノルマがあるわけでもありませんし、明確な数値目標を掲げられてプレッシャーに押しつぶされそうになるというわけでもありません。夜遅くや休日に得意先に急に呼び出されて逆らえないなんてこともありません。教師の多くは「よりよい授業にするには」「よりよい教室環境にするには」「よりよい行事にするには」と、いわば「〈最低限〉の仕事量」を超えて取り組んでいるうちに退勤が遅くなってしまう。そうした理由で残業しているように思います。

そんな状態ですから、若い教師がそんな中に投げ込まれると、「こんなにも残業しなければならないのか」というプレッシャーとして機能してしまいます。しかも先輩教師たちは〈+α〉を求めて残業しているわけですから、何が〈最低限〉で何が〈+α〉なのかが理解されていない若手教師にとっては、「みんなこんなに残業してまで何をやっているかわからない」になるわけです。結果、多くの若手教師が学級担任をもつことに対して、「何も教えてもらえないままに子ども・保護者の前にほっぽり出される」と叫ぶことになります。その裏にあるのは「教えてくれればできるのに、教えてくれないからできない」という感覚です。もっと言うなら、「教えてもらってそのとおりに取り組む方が効率的だ」「教えられることもなくただ野に放たれて試行錯誤の中で学べというのは非効率だ」といった感覚なのだろうと思います。いわゆる〈コスパ感覚〉です。

確かに教師という職業は、四月一日に着任してその数日後、六日か七日あたりには担任学級をもって具体的に動かなければならないという特殊性をもっています。しかも相手は予想外に激しく、具体的に動き回る子どもたちです。動き方も背景も異なる子どもたちを数十人、いきなり任されるわけです。それは研修を一切受けずに介護の現場で要介護の方々に対応しろと言われたり、OJTなしにいきなり一人で営業に行かされるのに近いかもしれません。そうした意味では、こうした叫びにも一理あると言えるでしょう。

ただし、教師に限らず、介護や看護、営業もおそらくそうだと思いますが、人間相手の、「コミュニケーション力」を基盤とする職種においては、研修でこれを学べば十分という「マニュアル」は存在しないということだけは意識すべきかもしれません。
 確かに、教師の仕事、子どもに対応する仕方においても、「これだけは言える」という基礎的な構えのようなものはあります。よりスムーズに子どもたちに対応するための「最大公約数的な方向性」といったものです。そしてそれらは、実は中堅やベテランと呼ばれる教師でも身についていない場合が多いのが現実なのです。また、確かに身につけ、使いこなしてもいるのですが、それらはあくまで経験的に身につけられたものであって、当人の中でも「意識されていない」「整理されていない」ということも少なくありません。

新卒教師から見れば、ベテラン教師は〈スキル〉を用いて的確に子どもたちに接しているように見えるかもしれませんが、当のベテラン教師はそれらを〈スキル〉だと思って使っているのではなく、試行錯誤によって培った〈感覚〉によって子どもたちに対応しているだけ、と考えている場合が決して少なくないのです。当然ながら、意識されていないことを他人に分かち伝えることは不可能です。

こう考えてみましょう。一般企業において、百%大当たりする企画、必ずバカ売れする商品開発の仕方を教えてくれないから自分にはできない、という理屈が成り立つでしょうか。大当たりした企画、バカ売れした商品を開発した先輩社員がいるとして、その企画や商品開発の仕方をその先輩が後輩に理路整然と分かち伝えるということが考えられるでしょうか。おそらくその先輩社員は、さまざまな試行錯誤の中でその企画を立案し、新商品を開発してきたのではないでしょうか。おそらくは〈コスパ感覚〉とは無縁の試行錯誤を繰り返すことによって。

〈コスパ〉とは、実は〈消費者〉が抱く感覚なのです。お金を支払って商品を購入する場合には、確かにその商品がその金額に見合うかどうかが検討されます。しかし、〈生産者〉の側は試行錯誤を繰り返す中で、「よりよい商品」「よりよいサービス」を開発していく立場なのです。そうした営みには、一見無駄と思われるような時間や労力をかけることも決して少なくないはずです。実は、教師の仕事も同じなのです。先輩教師たちは〈コスパ〉を度外視して、「よりよい授業」「よりよい教室環境」「よりよい行事」にするために残業しているのです。

この、〈消費者〉感覚から〈生産者〉感覚に移行できるか、そこに教師の力量形成の最初のハードルがあると言えます。

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