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シンプル・イズ・ベスト?

先達の言葉はいたってシンプルだ。

公開研究会の飛び込み授業なんかを参観すると、授業が始まるまではまるで年老いた鳩のように枯れて見える先達が、子どもたちの前に立った途端にえさをもらう飼い犬のように生き生きとした表情を見せる。その躍動感は自らのシンプルな到達点への確信が支えているように見える。

若いときには、その姿が「ああ、この人はほんとうに子どもが好きなのだなあ」というふうに見えてしまう。しかし、年齢を重ねてくると、決してそれが間違いではないけれど、それだけではないなということに気づき始める。彼らは自分が人生を賭けて追い求めてきたシンプルな到達点を披露するステージに立っている。彼らのもつ歴史性が子どもたちの前に立った瞬間に輝き始める。子どもたちにもそれが伝わる。だから自分たちのおじいちゃんよりも更に上のおじいちゃんの授業にも食いついていく。そんな、おじいちゃん先生と無垢な子どもたちとの間に紡がれる無数の糸が醸し出す雰囲気を見るのが好きである。

少し前のことだ。正木孝昌先生が僕の勤務校にいらしたことがある。体育館での公開授業には百人以上の参観者があふれ、小学校四年生の子どもたちと正木孝昌先生との間に無数の糸が紡がれているのを目にした。決して、驚くような授業技術や驚くような授業展開があるわけではない。若い先生から見れば、もしかしたらおじいちゃんと子どもたちが和気藹々しているだけの時間に見えたかもしれない。しかし、初めて会った子どもたちに一瞬にしてあの空気をつくり、あの空間を創り上げてしまうことは、間違いなく正木先生の長年の研究と実践の賜である。あの躍動感は複雑さを捨象することによってのみ生み出すことのできる、正木先生の人生の到達点が支えている。

若い頃には、先達の主張がシンプルに過ぎるように見えてしまう。子どもたちに起こっている現象はもっと複雑だと考える。自分はもっと本質に届きたいと思う。そうして思考を複雑化していく。しかし、先達のシンプルさはそうした複雑さを既に通った上でのシンプルさなのだ。若い教師はそれに気づかない。そんなことは想像することもなく、ただただ思考を複雑化させていく。先達のシンプルさが複雑さを通った上でのシンプルさだと気づき、「ああ、そうだったのか」と納得するまでに、そこからゆうに二十年はかかる。人間の歴史的営みとはそういうものである。

だから、若いときからそのシンプルさを学べばいいかというと決してそうではない。若いときは若いときなりに複雑な思考を自分に課した方が良い。複雑な思考を一度経験してからでないと、先達のシンプルな思考の凄みは実感できない。人の人生には「正しい廻り道」「歩むべき廻り道」のようなものが確かにある。合理的・効率的にのみ進もうとすることによって最後まで到達できない境地というものが確かに存在する。

最近、年金受給年齢の引き上げに伴って、教師の定年退職後の再任用制度が定着し始めた。僕の勤務校にも今年度(二○一四)は七人の再任用教員が配属されている。僕はうち五人と同じ学年を組んだことがあり、親しくお付き合いさせていただいている。

彼らと話していて気づくのは、彼らもまたいたってシンプルな思想のもとに教育活動を施しているという事実である。教師にできることは限られている。すべての子どもに自分の思いを具現することは不可能である。自分の思いばかりを先行させると気づけないことがある。彼らが決まって言うのはこうした自らの限界性である。しかし、決して自らに限界があるから手を抜くという発想ではない。彼らに見られるのは、自分に限界があるからこそ、自分のできることはやるという発想である。退職してなお仕事があるという喜びに包まれたとき、人はそういう境地に立つものであるらしい。いまの僕には想像はできても実感はできない。

彼らは僕らに「迷惑をかけないように」とも口を揃えて言う。あくまで一線で働いているのは僕らであり、自分は出しゃばっちゃいけないという謙虚な姿勢を崩さない。その謙虚さが、肩の力の抜けた温かさが、中学生の張り詰めた心をも次第に溶かしていくのを見るにつけ、僕は人間関係づくりの妙に思いを馳せる。

多賀一郎が言っていたことがある。

「五十代になって授業が変わった。これまでと比べものにならないほどに面白くなった。優秀な教師は五十代になるとみんな管理職になってしまって、この経験を味わわずに去ってしまっている。」

人はだれしも、いつしか社会から退場して行かざるを得ない。退場を意識してこそ到達する境地があるのだということを、「正しい廻り道」があることともに意識したい。

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