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今日のこの苦しみから逃れるために

鷲田清一さんに『「待つ」ということ』(角川選書・平成一八年八月)という名著があります。

激しい苦痛は、ひとを「いま」に閉じ込める。激痛に見舞われているとき、わたしは激痛が消えたあとのことを思って、気を紛らす余裕がない。過ぎ去った昔の思い出に安らかに浸ることもできない。二、三分後、二、三分前のことすら考えることもできない。文字どおり、ひとは「いま」に貼りつけられる。

頭の痛み、歯の痛み、背中の痛み、膝の痛み……。ここでは「躰」の痛みが例に挙げられていますが、実は「心」の痛みも同じです。ひとたびネガティヴな心象に捕らわれてしまうと、人間は「現在(いま)」に縛り付けられてしまいます。「いまというこの瞬間」が過去とも未来とも繋がっている動的なものであることを忘れてしまいます。

大きく深い悩み事があるとき、毎日が苦しいとき、日々かつらいとき、人は、比喩的に言えば、「今日」に縛られます。どんなに明晰な人でさえ、せいぜい考えられるのは「明日」のこと止まりです。今日はこんなにつらかった。明日もつらいに違いない。ネガティヴな心象に捕らわれたとき、「今日」を考えたって「明日」を考えたって、このネガティヴな状況から脱することができるなんてなかなか思えないものです。それは仕方のないことであり、いわば当たり前のことです。

だれもがそうなのです。決してあなただけではありません。

私は主宰している研究会で先生方の悩み事相談会のようなことを行うことがあります。先生方からは実に様々な悩み事が出されますが、最近は仕事が苦しい、学級がうまくいかない、職員室の人間関係に苦労している、というような相談が多い現状があります。しかし、どのような悩み事に対しても、私の答えはたった一つです。

私はいつも次のように答えることにしています。

まず、五年後の自分を考えてみましょう。仮に五年後も教員として働いているとします。いまの自分よりは、教師として少しだけ成長しています。そんな五年後の自分を想定してみるのです。

さあ、その五年後の自分は、いまの自分の苦しみについてどう感じているでしょうか。きっとやんちゃな子をもったあの苦しみは、保護者の執拗なクレームに悩まされたあの月日は、同僚と上手くいかなくて「やってらんねえよ」と感じたあの一年は、いまの自分にとって必要な経験だった、そう感じているのではないでしょうか。

これまでだって、いくつも、「人生の危機」はあったのです。ママに叱られたとき、あの娘に振られたとき、大学や教採に落ちたとき、祖父母が亡くなったとき、確かに世界は絶望的に暗く見えました。でも、ちゃんと乗り切ってきたのです。いま現在のこの出来事も絶望的だなんて思わないで、五年後の自分が振り返るときの良い経験にしてみようではありませんか。そう考えて、もう少しだけ頑張ってみませんか。

それでもダメだ、絶望的だというのであれば、逃げればいいだけです。こだわりを捨てて流されてみる、恥も外聞も捨てて逃げてみる、そういうことだって、長い目で見れば経験です。だれだって究極的には他人よりも自分が大事ですから、精神を病んでまで、死にたいと思ってまで、他人に迷惑をかけないことを優先する必要はありません。

精神を病みそうならば休めばいい。死にたいなんて考えるようになったら絶対に退職したほうがいい。教職は確かに尊い仕事ですが、精神を病んだり、命を賭けてまでしがみつくべき仕事ではありません。

私はこれを「明後日(あさつて)の思想」と呼んでいます。「今日」に縛られている自分、せいぜい「明日」のことしか考えられない自分、そんな自分を、仮に「明後日の自分」を想定してみて、その視点・視座から「いまの自分」を眺めてみるのです。考えるうえでの時間軸をちょっとだけ、「長期間」に据えてみる。いま現在の痛みに縛られている自分を、「過去の自分」と「未来の自分」との連続性の中で捉えなおしてみる。そんな試みです。

いま現在の痛みにちょっとだけ距離を置いて見てみる。いま現在の苦しみをちょっとだけ相対化してみる。いま現在のつらさをちょっとだけメタ認知してみる。そう言い換えてもいいかもしれません。

もちろん、そんなことをしたって、いまのこの痛みや苦しみやつらさが劇的に緩和されるわけではありません。痛みも苦しみもつらさも、やはり痛いし苦しいしつらい。しかしそれでも、ただ「いま」に縛られ、ただ「いま」に貼りつけられているよりはずいぶん視野が広がるはずです。痛みや苦しみやつらさに縛られ貼りつけられているのでは、絶対にポジティヴな考えは生まれません。胸に手を当てて考えてみましょう。あなただって本当は、ポジティヴに生きたいはずなのです。

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