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行動主義と認知主義

1 「費用対効果」と学校教育

高度消費社会が訪れ、国民の行動原理が変わったと言われる。大人も子どもも、いつでもどこでも「消費者」として行動するようになったと言われる。結果、大人はクレームばかり言うようになり、子どもは勉強しなくなった。物事が「費用対効果」で計られるようになり、費やした金額に見合わないと感じられればクレームを言い、学歴や資格はできるだけ労力を費やさずに得られるほうが良いと感じられるようになった。

確かに1,000円出したのにそれに見合わない味と量の食事が出てきたり、それなりの金額を支払った商品がすぐに故障して、メンテナンスに時間と労力と金がかかるのではクレームもつけたくなる。最小限の努力で資格が得られ、その資格で同じような職に就けたり同じような収入を得られるのであれば、確かにそれにかける努力は少ないほうが良いのかもしれない。自由な時間、つまりは遊んだり趣味に興じたりする時間がよけいに得られるのだから。
しかし、教育効果が消費の対象とされ、消費社会の行動原理で被教育者及びその保護者が行動し、高度消費社会の費用対効果の基準で評価されることによって、学校教育が失ったものはとてつもなく大きいと言わざるを得ない。

2 「頭」と「躰」

かつて、教育心理学の学習理論は「行動主義」から「認知主義」に大きく転換した。転換したというよりも、主流がシフトしたと言った方が適切かもしれない。経験することによって比較的長期的に行動が変容することと捉えられていた「学習」が、既成の認知構造に矛盾する新たな知識が導入されることによって、認知構造がバージョンアップされていくことが「学習」と捉えられるようになった。

この転換が学校教育に与えた影響は大きい。

ごくごく簡単に言うなら、この転換によって、「経験」が軽視されるようになった。ここで言う「経験」は学校生活のなかで日常的に存在する、些細で些末な経験のことである。例えば、毎日遅刻せずに学校に行く、毎日先生の話を黙って聞く、毎日分担して掃除をする、毎日好き嫌いをなくすよう努力する、そんな学校生活ではあたりまえとされる、ほんの些細な経験のことだ。

学校教育は近代化の流れにおいて、子どもたちに「産業的身体」を身につけさせるために生まれた。それまでおしゃべりしながら気ままに働いていた農作業中心の世の中から、定められた時間内に効率的に物を生産する世の中へと産業形態が移行し、それに対応できる身体習慣をつくるために学校教育が生まれたわけだ。近代化の初期、この国は工場で労働している人たちがおしゃべりしながら働いたり、時間意識をもたずに働いたりしたために生産性が著しく低かったと言う。それが学校教育が定着し、「遅刻は許されない」「時間割に基づいて行動すべし」という経験を重ねた子どもたちが労働力として定着するに及び、反対に工場の生産性が著しく高まったと言う。要するに、労働時間は黙って集中して働くことが当然という意識を浸透させ、それに耐え得るような身体性を学校教育がつくったわけだ。

経験によってある程度長期的に行動を変容させるという「行動主義」の学習理論は、このように人間の「意識」だけでなく、「身体性」にまで、「学習」の適用範囲が想定されていたのだと言える。

しかし、「認知主義」が学習理論の主流になるとともに、「学習」は「身体性」の問題ではなく、「認知構造」の問題として捉えられるようになった。それまである意味強制的に「行動」させられることによって、「まあ、そんなものかな…」と「身体性」を身につけていた子どもたちが、「認知構造」が変われば「行動」も変わるという順番で捉えられ、指導されるようになったわけだ。つまり、教育の対象が「躰重視」から「頭重視」に移行したのだと言える。これはある意味、教育の大転換である。

もちろん、私はこの転換を悪いことだと言うつもりはない。むしろ、これは必要な転換であり、この国の近代化が完成され、ポスト近代へと移行していくための時代に即した転換であったと考えている。

しかし、当の学校教育は、実はまだまだ「産業的身体」をつくるためのシステムを中心に運営されている。遅刻はいけない。時間を守れ。黙って聞け。私語は禁止。集中して取り組め。早く、効率的に仕上げろ。そうした思想に彩られたシステムが目白押しなのだ。つまり、「頭」で学習しろと言う割には、それを成立させるためにはかつての「産業的身体」が前提として必要とされる、そうしたズレが生じているわけである。

おそらく、昨今の学校教育において問題とされているさまざまな事象のほとんどが、このズレに起因しているように私には見える。もしも、「学習理論」において、「躰」を直接的な対象とせずに「頭」の問題として規定し、頭の中が変われば「行動」も変わり、それに従って「頭」で「躰」をコントロールするということへと転換させるならば、学校教育のシステムもそれに馴染むように本気でシステム転換しなければならなかったはずだ。しかし、文教政策も学校教育の本質的な転換は求めず、教師の側も口ではああだこうだと言いながら、やはり学校システムに馴染むような「身体性」をもっている子どもたちを高く評価するという状態が続いている。このズレが学校現場にさまざまな問題を生じさせている。古くは校内暴力から、不登校問題、いじめ問題、最近では発達障がいの子どもたちが問題傾向と認知され排除される問題に至るまで、この「頭」と「躰」のズレ、理論的な学習の捉えと学校システムとのズレという構造問題と決して無縁ではない。

3 「消費者」と「生産者」

21世紀になって、「総合的な学習の時間」が創設されるに及び、「キャリア教育」の一環として職業体験活動が多くの学校のカリキュラムに位置づけられるようになった。

中には三日間から一週間の体験をさせる学校もあるけれど、多くの学校では一日の体験活動である。しかしこれが、中学校教師の私が知る限り、生徒たちにすこぶる人気がない。いや、職業体験に向けてその職業を小グループで調べたり、インタビューする内容を考えたりといった段階ではそれなりに楽しみながら取り組んでいるように見える。しかし、職業体験当日の朝になって、けっこうな数の欠席者が出るのである。職員室では、その学年の教師たちが体験させてくれる施設に電話をし、多数の欠席連絡をしている。それが毎年の恒例になっている感がある。正直なところ、「総合的な学習の時間」の評価はそれほど高校入試に直結するような評価がなされるわけではない。その意味で、保護者も職業体験くらいなら休ませてもいいかな……程度の認識に立っている印象もある。要するに、欠席へのハードルが親子揃って低いわけだ。

私はこれも、子どもたちや保護者が想定している職業と、学校が職業体験の場として設定している職業とのズレが招いていると感じている。

いや、学校ばかりではない。「キャリア教育」が学校教育のある種の主軸として機能するようになって以来、多くの地方公共団体の行政機関が地域のさまざまな企業と連携して、児童生徒に職業体験の場を斡旋する動きが活発化している。しかし、これが地域の中小企業と連携していることが多く、家電用品店やスーパーマーケットといった地元の小売店、小中規模の飲食店、自動車整備工場や中古車販売業、保育施設や介護施設といったものになる。地元の花屋さんや菓子店、ホテルといった体験施設はそれなりに人気があるものの、その他になると「自動車が好き」「バイクが好き」「料理が好き」といったごく一部の子どもたちしか興味を抱かない。そうした施設が中心なのだ。

ちなみに「13歳のハローワーク」公式サイトによる人気職業ランキング(二○一六年十一月/http://www.13hw.com/jobapps/ranking.html)のトップテンは「パティシエ」「プロスポーツ選手」「金融業」「ゲーム・クリエイター」「ファッション・デザイナー」「編集者」「臨床心理士」「保育士」「医師」「薬剤師」である。地元の菓子店とパティシエに若干の重なりがあり、地元の保育園体験と保育士が重なっている以外には、子どもたちの職業イメージと学校が体験施設として用意したそれとはほとんど重ならない。そして、保護者が我が子に就かせたいと感じている職業とも重ならないのだろう。

そしてここにはおそらく、無意識的に、子ども・保護者の職業イメージと学校が用意する職業イメージが異なるということ以上に、子どもたちがもつ職業観と学校教育のそれとの大きなズレがあるように思われるのだ。先に挙げた「13歳のハローワーク」の人気職業トップテンは、どれもが「産業的身体」を必要としないイメージをもつ職業である。もちろん、ほんとうはそんなことはなく、それどころか大人(普通の職業人)から見れば、時間と態度さえ守っていればそれなりに評価される「産業的身体」を必要とされる職業以上に、寝食を忘れて不断の努力をしなければ成功しえない職業が並んでいる印象がある。

しかし、おそらく子どもたちのなかには「自分にはその不断の努力ができる」という意識がある。なぜかと言えば、それが「好きなこと」であるからだ。好きなことなら浸食を忘れて打ち込むことができる……それが現在の子どもたち(おそらくは若者たち)の職業観の前提なのである。とすれば、好きではないこと、しかも「産業的身体」を前提とするような職業ばかりの職業体験活動にそれほどの価値を抱けないという心象もわからないではない。
だが、問題の本質はそこにあるわけではない。誤解を怖れずに言えば、学校の職業体験くらい欠席したところで、人生にそれほどの影響があるわけではない。私がいま中学生でも、親が良いといえば欠席するかもしれないとさえ思う。しかし、そうではなく、問題は、子どもたちの職業観が「自分の好きなこと」で「それなりの収入を得られる」という「消費者マインド」で形成されている点にこそあるのだ。職業に就くということは、「消費者」から「生産者」になることである。或いは「サービスの享受者」から「サービスの提供者」になることである。それは言うまでもなく、自分本位から相手本位に発想を転換しなければならないことを意味する。その「職業に就く」ということの本質的な発想転換の必要性を体験によって感受することが職業体験の目的であるというのに、そうした必要性を勘案することなく、自らの「消費者マインド」に合わないからと言ってそれを避けているのだとすれば、「職業体験の欠席」という本来なら小さな問題であるはずのものも、大きな問題として捉えざるを得なくなる。

4 「自分探し」の流行と「脱社会生徒」の登場

読者の皆さんは、九十年代に「自分探し」という概念が流行したことを覚えておいでだろうか。バブルの崩壊とともに空前の就職難が到来し、フリーターの増大、非正規社員の増大(労働者派遣法の施行は一九八六年)とともに、「どこかにほんとうの自分があるはずだ」「どこかにほんとうに自分に適した職業があるはずだ」という感覚を持ちながら、キャリアを積み重ねるのではなく、「ほんとうの自分を探す」ことに重きを置きながら生きていく在り方を是とすることになった流行概念である。必ずしも希望した職業ではなかったけれど、就職してその仕事に打ち込んでいるうちに生き甲斐を見出し、その職業を天職と感じるようになっていくというそれまでの一般的な在り方とは反対に、自らが納得する職業、自らに合致した職業でなければ就職する価値がない、人生を賭ける価値がないというある種の強迫観念にも似た感覚に支えられた流行概念であったとも言える。

同時期、学校教育では、「脱社会生徒」という概念が流行し始める。学校システムに反抗する「反社会生徒」でもなく、学校システムに馴染めない「非社会生徒」でもない。毎日学校には来るし、それなりに学校生活を楽しんでいるように見える。しかし、授業を普通に受けていることに耐えられない。清掃当番をしていても、すぐにおしゃべりに興じてしまい、叱られても悪気がないから始末に負えない。指導されるとそのときには神妙に従うものの、こたえていないし響いていない。そんな社会性から逸脱した生徒たちの登場である。現在(いま)となってはあまりに多すぎて、というより多かれ少なかれそうした気質をもつ子どもたちばかりになってしまって、さしたる珍しさもなくなってしまったけれど、当時は学校教育において驚きをもって迎えられたものである。

おそらく、「自分探し」の流行にしても「脱社会生徒」の登場にしても、「頭」の中を変えれば次第に「行動」が変わり、「身体性」も身につけていくのだという教育がもたらした帰結だったのではないか。私はそう主張したいわけだ。「自分探し」にしても「脱社会生徒」にしても、職業に就くことの大切さや当番活動を自分の役割として果たさなければならないことをわかっていないわけではない。ただ、躰が、心がついていかないのだ。自分を戒め、コントロールするという感覚に欠けるのだ。そしてこうした「頭」と「躰」のズレが、「産業的身体」を前提とするような学校生活や、「産業的身体」を前提とするような職業から逃避したり脱落したりさせているのではないか。それが「高度消費社会」の著しく発達した「消費者マインド」と相まって、学校教育を困難にし、就職活動を困難にし、更には就業し続けることさえをも困難にしているのではないか。そんなふうに感じるのである。

さて、こうした時代に、学校教育はどのようなシステム転換を図れるだろう。時間は不可逆である。「産業的身体」をつくるための行動主義的な「学習理論」の時代に帰るというわけにもいかない。そもそも、「産業的身体」の形成が前提とした「大量生産・大量消費」の時代は既に終わっていると言って良い。

学校教育は、ほんとうは二十年くらい前にシステム転換を、質的転換を図らねばならなかったのだろう。でも、遅きに失したと嘆いていても始まらない。いまからでも、少しでも早く、質的転換は図られなければならないのだ。もうほんとうに間に合わないと、国民を挙げて嘆くようなことになってしまう、その前に。

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