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若者は指導の対象?

僕はかなりの大規模校に勤めているので、三月になると毎年のように定年退職者をみんなで送り出している。いわゆる「団塊の世代」のほぼ全員が職員室から姿を消し、これからかつて「新人類」と呼ばれた世代を見送ろうとしている。さまざまな軋轢もあったけれど、いざ彼らを見送るとなるとあまりに寂しい。いまから十年ほど経つと、次は僕らの世代になる。そんなに遠い話ではない。

ある世代が社会から退場していく。それをすぐ下の世代、もう一つ下の世代くらいまでがしみじみとした思いで見送る。ある一定の年齢になると、だれもが経験する心象だ。おそらく人類創成から続いた人間社会の普遍なのだと思う。

ある世代が社会から退場していくということは、実は新しい世代が社会に入場してきていることを意味するはずだ。ところが、入場してくる世代はほとんど意識されることがない。ただダメだダメだと言われて足蹴にされる。そう。「最近の若い者は……」という決まり文句だ。たれもが新しい世代を半人前だと感じ、指導の対象にすることはあれ、新世代のもつ特性を社会に活かそう、彼らの感性を活かせればチャンスが広がるかもしれない、などという発想はだれも抱かない。年長者の奢りを指摘したいわけではない。僕もいい年だからその気持ちがわからなくはない。ただ、若い感性を顕在化させない構造を社会自体がもってしまっていることを「もったいな」と思っているだけである。かつて女性のニーズを徹底的に無視し続けたこの国のもったいなさと構造的には同じである。ああ、もったいない……。

学校教育の世界にはまだまだ若い人が入ってきている。バブルの頃のようにとんどん入場してくる時代ではないけれけど、それでも僕の勤める大規模校には毎年、二、三人の若者たちが入場してくる。彼らの感覚は確かに教師としては「まだまだ」だ。しかし、子どもたちとの心のつなぎ方、子どもたちとの感性の質の共有度については、僕らの世代は足許にも及ばない。それも、かつてのように若者は子どもたちと年齢が近いから感覚的にも共通するのだというのとは違う、何か決定的な差異があるように思う。それは青春期から携帯電話がありインターネットがありという世代だからかもしれないし、ユニクロに代表される軽薄短小にしてお洒落といった消費を当然とする世代だからかもしれないし、物心ついたときからただの一度も好景気を体験したことのない世代だからかもしれないし……上の世代によって勝手な想像がなされるだけで、ほんとうのところはだれにもわからない。でも、確かに違う。

ビジネス界では、こうした新世代をターゲットとした商品開発が次々に行われている。新世代が創出するヴェンチャービジネスも話題に上る。もちろんすべてが成功しているわけではないし、玉石混交であることも確かだ。でも、少なくとも新世代の感性を想定し、それをビジネスチャンスと捉える動きがちゃんとある。ところが、学校教育の世界はあまりにも旧態依然だ。いま各教委や各学校を動かしているのは僕らの世代である。しかも、「団塊」へのルサンチマンと、「いよいよオレたちの時代だ」という慢心と、最近入場してきた新世代の新たな感性に気づかぬ鈍感さとで動く、救いようのない状態が続いている。おそらく絶望的にも、今後もこの状態は続いていくに違いない。

いままでだってそうだったんだからそんなに悲観する必要はないよ。これまでと同じように歴史はなんとなく調整機能を働かせながら動いていくものだ。そんな声が聞こえてきそうである。果たしてそうだろうか。これまでの時間の流れとは比べるべくもない速さで時代は動いていないだろうか。三十年前なら55歳と25歳くらいの間であった感覚の差がいまは35歳と25歳の差くらいに縮まってはいないだろうか。現在の55歳と25歳の感覚の差異は、こと情報に関する限り、三十年前の25歳と江戸時代の庶民くらいの差になってはいないか。

さあ、学校教育に話を戻そう。例えば現在の中学生を考えてみる。三十年前の15歳の中学生と55歳の先生との間にあった感覚差は、現在の15歳と25歳の先生の差くらいに縮まっている可能性はないか。五十代教師の言が中学生からみると江戸時代みたいなことを前提にした戯言みたいに捉えられてしまっている可能性はないだろうか。

こんな意識を抱いてみると、退場していく世代をしんみり見送るだけでなく、新たに入場してくる新世代たちの生態にも興味が湧いてくるというものである。いま、僕の学年には二十代の若者が六人もいる。彼ら彼女らと呑みながらわいわいがやがや話していると、けっこうな発見があるのを感じている。

新世代を指導の対象としてだけではなく、学びの対象にもしてみることをお薦めしたい。

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