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正直に言おう

正直に言おう。僕は小学校教師というものにある種の怖ろしさを感じている。こんなことを言っては小学校の先生方に申し訳ないのだが、自分には絶対にできないな……と思う。

僕は中学校の国語教師だから、担任をもっても僕が担任学級に入るのは最大で八時間だ。国語の授業で四時間、道徳が一時間、学活が一時間、総合が二時間の八時間である。授業は週に二九コマだから、他の二一時間はほかの先生が入ることになる。もちろん、朝学活や帰り学活、給食時間も学級に入ることになるから、そうした時間を含めればけっこうな時間を自分の担任学級で過ごすことにはなる。しかし、それでも小学校教師の比ではない。

担任をもつと、「自分とは合わないなあ」「ほかの先生の学級に行ったほうがこの子は幸せだろうなあ」と感じる生徒と出会うことがある。そんな生徒が必ず何人かはいる。人は自らの見たい者しか見ないという原理に従えば、僕が認識しているのが何人かなだけで、潜在的にはもっともっといるに違いない。僕はそれを怖ろしいことだと思う。

もちろん、生徒たちは実際にはそんなことを意識したりはしない。僕の学級でそれなりに楽しみながら学校生活を送り、最終的には「担任が堀先生で良かった」と言ってくれる。でも、長年中学校教師をしていて、数千人の生徒たちとかかわってきた僕にはわかってしまう。「おまえは気づいていないけれど、おまえはオレよりあの先生のほうがおまえをより育ててくれたよ」と。僕はそう思いながら、その子にとても申しわけなく思う。自分が担任であったがために、そうと気づかないままに居心地の悪い思いをしたり、持てる力を開花させてもらえなかったりするのである。教職にある身として、これを怖ろしいと言わずして何を怖ろしいと言えようか。そんな心持ちがする。

それでも、僕がそうした生徒たちを担任してもなんとか自分を納得させられるのは、担任している学級の生徒たちといえども、彼らが関わる教師が僕だけではないからだ。僕の学級の生徒たちは週二一時間にわたって僕以外の教師の指導を受ける。僕以外の教師にも褒められ、僕以外の教師にも叱られる。部活動では顧問とある種の師弟関係を結び、担任である僕なんかよりもずっと深い人間関係を結ぶ。彼ら彼女らは僕の影響だけを受けながら学校生活を送るわけではない。そうした思いが僕の恐怖心を緩和させる。逆に言えば、他の学級に、担任教師とはウマが合わないけれど僕とは合うという生徒がいれば、僕もその子に積極的に関わっていくことになる。中学校の担任というものは、自分の学級の生徒に自分以上に関わりの深い教師がいたとしても、寂しさを感じることもないし、嫉妬しもしない。そんなことはあらかじめ前提とされている。だから中学校には、学年教師全員で学年生徒の全員をチームで育てているという意識がある。

でも、小学校は違う。自分の担任する学級の子どもたちと一日中一緒に過ごす。良きにつけ悪しきにつけ、その影響力は甚大だ。それが僕には怖ろしい。そんな仕事をすること、そんな仕事を機能させることは人間業ではない、とさえ感じる。

加えて、僕を恐怖させるのは、全教科の授業をしなければならないことだ。僕は中学校の国語教師だが、少なくとも僕は国語の授業をするとき、「僕に国語を習うよりあの先生に習った方がこの子には合っていたな……」とは絶対に思わない。だれにもたれるよりも僕にもたれたほうが良いのだと思って授業をしている。実際にそうかどうかはさて措くとして、そのくらいの自信をもって生徒たちの前に立っている。道徳においても学活においても総合においても、それなりに教材研究をして臨み、基本的には同じような感覚で生徒に授業をしている。ついでに言えば、学校行事に取り組む場合にも、僕は学校祭にしても合唱コンクールにしても体育的行事にしても、それなりにスキルを身につけている。若い頃から、これらの行事がある以上、そのスキルは身につけなければならないと感じて、自分なりに研鑽を重ねてきた。実際に機能しているかどうかはさて措くとして、そのくらいの自信をもって生徒たちの前に立っているのだ。

しかし、全教科を担当するとなると、そうは行かないはずだ。僕は自分が図工を教えたり理科を教えたりということが想像できない。少なくとも僕が自信をもって子どもたちに図工や理科の授業をすることは僕には考えられない。自信をもっていない教科の授業なのに子どもたちの前に立てる、そのメンタリティさえ想像することができない。実は僕は、著述活動や研究活動においても、自分がよく知らないことについては発言しないことを信条としているタイプである。安易な発言は、それを真剣に考えている人やそれに関わって生きている人に申しわけないと思うからだ。なかにはそういう専門外のことに関しても、堀先生ならどう考えるのかと発言を求める人がいるけれど、僕は「それに関しては考えたこともないですから勘弁してください」と断ることにしている。僕にとって、小学校教師の授業は専門外についても安易に発言してしまうこととイメージが重なる。

僕は小学校教師を批判しているのではない。ただ僕にはできないと言っているのだ。そしておそらく、こうした違いにこそ、小学校の教師と中学校以上の教師との質の違い、教育観の違いがあるのだろうと感じている。おそらく小学校教師には、僕が大切にしているもの以上に大切にすべきもの、優先順位の高いものがあるのだ。多くの小学校教師にとっては腹立たしく思われることも多く書いたと思うが、小学校教師にとっても、少なくとも中学校教師から見たら自分の仕事がこう見えるのだということは、知っておいて損はないように思う。

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