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ハプニングはできるだけ排除すべき?

論理的思考ほど実生活の役に立たないものはない。その証拠にだれもが論理的にものを考えようとするけれど、だれもが論理的にものを考えることができない。実生活においてだれもが論理的に考えて動くことができないのだとしたら、論理的に考えて対策を講じようとしても無駄骨に終わるだけだ。論理で動かない世の中に論理で対抗しようとしても虚しいだけである。 

教師は教室からできるだけハプニングを排除しようと努める。指導案通りに進めようとする授業然り。教師の思い通りにコントロールしようとする学級経営然り。自分のイメージ通りに完成させようとする行事指導然り。どれもこれも論理で動かないものを論理のなかに押し込めようとするからうまくいかない。それこそが背理であると気づかない。

八○年代から九○年代にかけて、教育界は教育技術の時代だった。教育技術は子どもたちをできるだけコントロールするための方策として考案された。しかし、それらを開発したり紹介したりした人たちは、教育技術がすべでてはないし、教育技術が子どもたちをコントロールし切ることなどあり得ないことをちゃんと前提としていた。だからみんなが受け入れた。でも、二十一世紀になって、教育技術の存在が当然となり前提となった時代、教育技術が子どもたちをコントロールし切ることなどあり得ない、教育技術は方向性を提示しているに過ぎないという前提が忘れ去れらた。無意識のうちに教育技術至上主義に陥ってしまった。技術を身につければなんとかなるという幻想が産まれた。その幻想がずいぶんと学校教育を窮屈なものにしてしまった。

教室とは、ハプニングが起こることにこそ本質があるのだ。

僕は声を大にして言いたい。ハプニングの起こらない営みは人間の営みではない。それをコントロールし、しかもコントロールし切ろうなどという教育理論はあり得ない。すべての教育理論も、教育技術も、こうすればこうなる傾向が高いですよという大体論に過ぎない。こうすればこうなるの論理で短絡的に技術を使おうとすると、教育はファッショに陥る。

技術が万能でないことを意識して技術を用いると、万能でない技術の万能でなさに目が向く。どんなところが万能でないのかと、起こり得るハプニングを分析するようになる。遂にはハプニングが起こるのを心待ちにするようにさえなる。ああ、こういう予想外のことがあり得たかと愉しみにさえなる。教育技術はこうした構えをもったとき、真に機能する段階に入る。

論理的思考も同様である。論理的思考が万能ではなく、論理的思考に治まりきらない事象がたくさんあることを意識していると、どんな例外があるのかとハプニングを愉しめるようになる。こうして、ハプニングの起こらない教室など面白みのない、子どもたちの自然を排した人工的な営みに過ぎないという新たな段階の論理が創り出される。この段階に入って、論理的思考が真に機能する段階に入る。

技術も、論理も、それを「超えるもの」が想定されたとき、初めて機能し始める。

ハプニングを愉しめるようになると、教師の精神に余裕が生まれ、ゆとりが生まれ、奥行きが生まれる。教師に懐の深さが生まれる。こうなればしめたものである。教室がフィールドになり、仕事がフィールドワークになる。仕事がフィールドワークになったとき、新たな教育技術が開発される。新たな教育理論ができ上がる。要するに、創造のサイクルができ上がる。

一つ一つのハプニングが創造のにつながると実感されるようになると、教師はハプニングを起こす子どもたちを愛しく思うようになる。やんちゃも、弱虫も、神経質も、いじめっ子も、いじめられっ子も、不登校も、特別な支援を要する子も、みんなみんな愛しく思えてくる。自分を成長させてくれるかけがえのない子どもたちに思われてくる。こうした段階に入ると、技術も、論理も、更に機能し始める。自分なりの個性的な技術が生まれ、自分なり独創的な論理が生まれ始める。

本で学んだり先達から伝授されたりした技術や論理だけを是として子どもたちに接する者が大成した前例はない。本で学んだり先達から伝授されたりした技術や論理を試し、それと同じくらい目の前の子どもたちの反応から学んだ者だけが新たな手法を開発するようになる。日々の授業や日々の子どもたちのかかわりから学ぶことの大切さをだれもが説くのはそういうことだ。

凝り固まった論理的思考ほど実生活の役に立たないものはない。役立たないどころか、それは時に害悪となる。固定観念で用いられる教育技術ほど機能しないものはない。機能しないどころか、それは時に子どもたちの成長にとって妨げとなる。

教室に起こるハプニングこそが、実は教師を成長させる。

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