授業における「機能」
インターネットで「道徳」「指導案」と検索してみる。数限りない指導案がヒットする。それを一つ一つ開いて導入を見てみる。「友達に親切にしてあげた経験はありますか?」という問いに対して、「係の仕事を手伝ってあげた」「勉強を教えてあげた」「順番を譲ってあげた」という三つが子どもの反応として想定されている。そして生徒作文の資料を読み始める。「誠実な人ってどんな人でしょうか?」という問いに対して、「まじめに生きている人」「うそをつかない人」「自分に正直に生きている人」という三つが想定されている。そして吉田松陰の資料を読む。世の道徳の指導案において「導入」と言われるものはこんなのばかりです。時間は決まって五分。指導上の留意点には「一人一人の意見を大切にする雰囲気をつくる」などと、取って付けたような文句が添えられます。
しかし、私は思うのです。たった五分で「一人一人の意見を大切にする雰囲気」などというものをつくれるものでしょうか。そもそもそれ以前に、ここで提示された子どもたちの「係の仕事を手伝ってあげた」や「まじめに生きている人」は、ほんとうに「子どもたちの意見」と言うほどのものなのでしょうか。教師の問いに対して、「先生はこういうふうに答えて欲しいんだろうな……」と忖度した上っ面の言葉なのではないでしょうか。「係の仕事を手伝ってあげた」はいかにも学校で起こりうる一般的な親切に過ぎませんし、「まじめに生きている人」は「誠実な人」の言い換えに過ぎません。こんなやりとりをするために一時間の授業のうちの五分を使ってしまうことに、私はもったいなささえ感じてしまいます。これは「導入」という名の慣習が生んだ「無駄の代表」なのではないか。
こうした導入のやりとりには、おそらくはこれから子どもたちに資料を読ませるにあたって、導入においてその資料内容や内容項目に子どもたちを近づけようとする意図があります。子どもたちの経験を想起させることによって、それらの経験と資料内容とを関連づけて考えさせたい、教師のそうした意図がこのやりとりをさせるわけです。しかもそこには、「先生は一人一人の意見を尊重するよ」「何を言っても構わないんだよ」という自由空間をつくる意図までもっているというのです。
しかし、もしも本気で導入段階にそのような機能をもたせようとするのであれば、最低でも①経験を箇条書きで列挙する、②列挙された経験に優先順位をつける、③グループ交流によって発想を広げる、④改めて経験を想起し直す程度の段階が必要なのではないでしょうか。或いは六~八人グループをつくり、ブレイン・ストーミングする手もあるかもしれません。私の実感からすれば、いずれにしても二十分から三十分くらいの活動にならざるを得ません。このくらいの手立てを講じなければ、経験の想起と自由空間の醸成などできるはずがない。私にはそう思えるのです。
一般に、道徳授業では指導段階として「導入」「展開」「終末」という三段階が用いられます。授業としては展開部・終末部が中心活動となりますから、導入にはどうしても最低限の時間しかかけられない。しかし、それでも授業への方向づけ(=オリエンテーション)として形を整えなければならないとの思いが、このような機能しない、ありきたりの、子どもの忖度を引き出すことしかできない導入として定着してきたのだろうと思います。 道徳の授業に限りませんが、授業には必ず〈山場〉があるものです。その一時間の授業で最も子どもたちに広く深い思考を促したい場面です。多くの場合、そこでは某かの〈活動〉が組まれますが、それは多くの場合、「展開部」の後半に来ます。私はこの中心活動に至るまでの「導入」部から「展開」部前半までのすべてが、「授業のフレームづくり」だと捉えています。そして授業とは、「フレームづくり」+「中心活動」でできていると考えているのです。
「授業のフレームづくり」とは、子どもたちに「思考のフレーム」「感受のフレーム」を形成することです。私はそこに授業開始から少なくとも一五分、長ければ三十分程度をかけます。三五分間で「フレーム」をつくり、その後は本教材である5分のビデオをそのフレームを用いて視聴し、最後の五分で感想を書くだけ、そんな授業さえあります。実は授業段階を「導入・展開・終末」と捉える在り方は、授業を「現象」として捉えた授業段階です。確かに現象として捉えた方が授業を参観する側からは見やすいし捉えやすい。学習指導案で盛んにこれらの授業段階が用いられるのはそのせいでしょう。
しかし、授業は「現象」ではなく「機能」で考えるべきなのです。どんなに現象的に活発な授業だったとしても、子どもたちの中に深い思考がなく思いつきをしゃべっている程度なのだとすれば、それは機能していない「失敗授業」です。逆に、子どもたちに現象的活発さは見られなくても、与えられた課題に戸惑い、「自分なんかにあれこれ言う資格はない。いったいどうすりゃいいんだ」「私にはわからない。判断できない……」と当事者意識をもって考えることができていたとすれば、それはその課題が子どもたちに大きく「機能した」ことを示すでしょう。それは現象的には「沈黙」であったとしても、機能的には「生産的沈黙」とでも言えるべきものであり、授業としては「成功」の名に値するのです。
授業を「機能」させるためには、中心活動で子どもたちが広く深く考えることが必要です。しかし、中心活動が機能するためには、中心活動に当事者意識をもって望めるようなフレームづくりが欠かせないのです。授業は「フレームづくり」+「中心活動」という構造をもっているのです。
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