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〈エッセイ〉俺は孤独なのだろうか?

「友達がいない中高年男性問題」が今プチバズっているみたいだ。

私には友達がいない訳じゃないし、電話やLINEをすればすぐに一緒に飲みに出てくれる友人だっている。でも、コロナ禍にあってそうした機会がめっきり減ったのは事実だ。

会社勤めをしていた時にはかなりの頻度で夜の街に繰り出し、仕事の同僚と飲んで歌って楽しんだけれども、今ではそんな会社の同僚と一緒に過ごす機会は皆無だ。これはわかり切っていたことであって、退職後も近しい関係を維持して行ける人間はごく僅かだろうと思っていたから、特に寂しさは感じないし、これで良いと思っている。

大学時代には「親友」と呼べる存在がいた。
彼とは今でもやり取りをしているが、遠く離れているために一緒に時間を過ごすことはここ三十年くらいない。折に触れてやり取りするのは家族の悩みや不如意な健康の事柄ぐらいで昔のように骨をごつごつとぶつけ合うような深いやり取りはない。もちろん彼と直にあったら、きっと夜明近くまでむさぼるように話をするのだろうという予感はある。そんな意味では、心を許せる彼はいまだに親友なのだと思う。

SNSでつながっている「友だち」は300人近くいるが、それはあくまでもSNS上の知人であって本来の意味での「友だち」ではない。そうした繋がっている知人の中で、何かを投稿すると「いいね」や「超いいね」を押してくれる人は常時20人から30人くらいなもので、それで「俺には友だちが多い」などとは露とも思わない。しかもその中で日常的に会って話をするのは数名にとどまる。そうした側面から見れば、私には本当の意味での友だちは少ないのかもしれない。

ここでやはり「俺は孤独なのだろうか?」
という疑問が頭をもたげてくる。寂しさに似た気持ちがないと言えばうそになるが、果たしてその気持ちが本当の意味での寂しさなのか定かではない。
昔は毎週のように飲みに出掛けていたことだけに焦点を当てて、それを孤独の値を計測する指標にするのは間違っている。

そもそも孤独とはどんな状態をいうのだろうか。
家族や親友がいても孤独を感じる人もいるだろうし、独り身で友人の数がめっきり少なくても孤独を感じずに前向きに生きている人だっているだろう。
「孤独死」といわれる状態で発見される人は本当に孤独だったのだろうか。寂しかったのだろうか。今わの際で本当に孤独を感じ、震えあがるような悲しみのもと命を落としたのだろうか。私は何となくだが、そういう状態ではないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

要するに孤独という概念は人それぞれなのだろうと思うが、じゃあ、私は孤独なのだろうか、寂しいのだろうかと考えるとこれがよくわからない。

私には家族がある。妻がいて三人の子供がおり、皆それぞれが独立した。
「幸せそうな家族ですね」とよく言われるし、自分でも幸せだと思う。だから自分が孤独かどうかなんて考えるのはお門違いなのだとも思う。

世の中にはまだまだ孤独で辛くて悲しい状態の人は大勢いるのはわかっているし、今ある環境に感謝しこそすれ、「寂しい」とかなど言ってはいけないのだろうという事も重々承知している。

しかし、である。
やはりずっと以前から自分の奥深くのまん中あたりに冷たくて青く光る玉のようなものがあり、それが私を悲しくさせるのだ。それは寂しさにも似ているし、それを孤独感というのであれば当たっているような気もする。原因は何かわからないが、ここ30年以上、そうしたものをいつも心の奥にしまったまま生きてきた。そしてそれが時折、何の予告もなく私の表面に出てきてしまう。それは車を運転している時だったり、会議中だったり、家事をしている時だったり、眠ろうと布団に入った時だったりする。それが定義的に「孤独」なのかどうかは判断はできない。

そんな時は涙が出そうになり、溜息と共に「ああ、もういいや」と思ってしまう。そしてしばらくは肩と背中が妙に重く、ぐったりとなるのである。
きっとおそらく私は死ぬまでその感覚を持ち続けて行くのだろうと思っている。

俺は孤独なのだろうか?という疑問を自分に突き付けてみれば、「孤独ではない」と答えるかもしれない。しかし、きっとまた、あの冷たい悲しい感覚がやってくるのは間違いなさそうだ。




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