〈エッセイ〉原風景•利尻岳
誰にでも自分の人生において忘れられない景色、所謂「原風景」というものが存在するのならば、僕にとってのそれは北海道の北西海上に浮かぶ山、利尻岳である。
六歳から九歳にかけて、天塩郡遠別町に居住していたのだが、家の近くの砂浜からも、丘の上にあった小学校の木造校舎の窓からも、水平線の向こうにぽっかりと、底辺の広い見事な三角錐の独立峰が見えていた。晩秋から春にかけては、真っ白な山容が青い海と見事なコントラストを醸し出し、夏には墨絵のようなシルエットとなって、水平線から少しだけ宙に浮かんで見えていたのである。
まだまだ幼く、首も細く華奢な身体つきをしていたであろう僕の遠別町での三年間には、未だに忘れられない出来事が複数ある。そしてその思い出の風景には、どこか演劇の舞台のホリゾントに固定された絵の如く、いつも利尻岳が存在していたのだ。
遠別小学校に転校してすぐに仲良くなったのは、野尻隆君と一戸俊一君であった。隆君の父親は遠別町の漁師で、俊一君は営林署職員の一人息子だった。
ある風の強い日、三人で学校からの坂道を歩いていると、道路脇の多くの民家という民家から続々と女や年寄り達が出てきて、皆蒼ざめた顔で港の方向へ歩いて行くのを見た。
「なんだべ、行ってみるか」
僕たち三人は興味津々で大人たちの後をついて行った。港に着くと、消防車やパトカー、救急車が数台停まっており、岸壁は多くの人々でごった返していた。皆で沖を見つめながら不安げに何か話している。中には岸壁に膝を落とし、「お父さあん。お父さあん」と泣き叫んでいる女性もいる。僕は自分が来てはいけない場所に来てしまったような恐怖感を覚え、友人の顔を見ると隆君も俊一君も一様に硬い表情をしていた。その時だった。
「たかし!」
横の方から隆君の名を呼び近寄って来たエプロン姿の女性がいた。彼の母親だった。
「あんた、叔父さんの船、転覆したとさ!」
「ええ?」
母親の言葉に隆君はみるみる蒼白になり、直後にお母さんのお腹に顔を付けて泣き始めた。お母さんは彼の頭を抱きしめ、「大丈夫だ、大丈夫だよきっと」と声を掛けるが、その目にも涙が滲んでいた。
転覆事故は隆君の叔父が所有する漁船で、スケソウダラを獲っている最中に強風と大波を受けて転覆したもので、乗組員四人全員が帰らぬ人となった。人々の不安気な様子と、びゅうびゅうと吹く風、白波を立ててうねる海の向こうに、まだ多くの雪を残した利尻岳の姿がくっきりと見えた。大好きだった叔父を失くした隆君は、その後三、四日学校を休んだ。
性の目覚めの予兆、あるいは蕾みたいなものを経験したのも、水平線に蒼い三角形の利尻岳が浮かぶ夏のただ中であった。
僕たち三人は、級友の千佳ちゃん、そして加代ちゃんと共に五人で砂浜に繰り出した。大きな潮だまりの向こうに、中洲の様に別の砂浜が露出しており、そこに二人の男性の姿が見え、さっきから「ドーン、ドーン」と空に向かってライフルを撃っている。
「かっこいい。行ってみるべ」と俊一君が言い、「おっかない、やめよう」という女の子たちの言葉も聞かずに僕たちはその潮だまりを渡り始めた。深さはたぶん六十センチ程だったと思うが、小学二年生の子供らには結構な深さだ。僕らは半ズボンをたくし上げ、水圧を掻き分けて前に進んだ。その時、仕方なくついてきた千佳ちゃんと加代ちゃんも、スカートをたくし上げ、中の下着さえも鷲摑みにし、恐る恐る潮だまりを進んでいる。丁度水面がその股間の真下にあり、手で釣り上げられた下着の脇から、千佳ちゃんと加代ちゃんのふっくらとした股間の丘陵が目に飛び込んできたのだった。
一瞬で僕は自分の身体の異変に気がついた。
おちんちんが固く大きくなっていたのだ。それは生まれて初めての勃起の体験であった。自分の身体だけに起こったであろう異変を、その日僕はひた隠しにした。
砂浜についた僕達にはお構いなく、大人の男性二人は空に向かってライフルを撃っていた。ドーンという音の度に薬莢が砂の上に落ちる。俊一君がその薬莢を拾い上げようとしたが、男性の一人が、「すぐに触ったら火傷すっぞ!」と言った。銃を撃つ男達のすぐそばに子供が五人いる。今ならすぐに警察沙汰だが、時代はおおらかであった。冷めてから拾い上げた薬莢は、鼻をつく火薬の匂いがした。
翌日、三人で学校へ向かう坂道を歩いていた時、隆君がぽつりと言った。
「俺さあ、昨日千佳ちゃんと加代ちゃんのあそこを見た時、ちんちんがでかくなってびっくりしたさあ」
僕は驚いて隆君の顔を見た。俊一君も同じだった。そして僕と俊一君は同時に声を上げた。
「俺も!」
三人は坂の途中で死ぬほど笑い転げた。自分たちの身体に同時に起こった変化が、すごく不思議で、そしてあまりにも可笑しく思えたのだ。
他にも利尻岳を背景にした舞台上で見たものに、高校生の決闘がある。学生服を着た高校生男子二人が殴り合い、蹴り合う喧嘩を目撃したのだ。「パチン」という顔を殴る音、うずくまった相手の顔面を蹴り上げ、「グワッ」と唸り声をあげてもんどり打つその顔から鼻血が飛び散る様を、僕たち三人は膝を抱えて震えながら見ていた。ただ不思議だったのは、顔面血だらけになったその二人が、最後には砂浜に座り込み、お互いの肩に腕をまわし、一緒に海を眺めている後姿であった。今思えばまるで三文青春小説の様でもあるが、大人の世界がなんだか怖く、同時にすごく不可解に思えたのである。
三年生の三月、父は北見市への転勤が決まり、我家は引っ越しの準備に追われた。転校して行く僕の為に担任の先生がお別れ会を開いてくれて、クラス全員で僕に寄書きを渡してくれた。今でも覚えているのは、引っ越しの朝、先生がクラスメート全員を連れて遠別駅のホームまで見送りに来てくれた事だ。銀行員だった父を見送る背広姿の人々よりも、子供達で狭い遠別駅がいっぱいになった。ホームからいよいよ列車が動き始めた時、開けた窓の向こうを隆君と俊一君が「洋人ちゃあん、洋人ちゃあん」と叫びながら列車を追いかけて来る。見ると俊一君の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃであった。ホームの端まで走って来た彼らはやがて諦め、その姿がだんだんと小さくなって行った。その時も彼らの背後には、早春の海と空の青色の狭間に、あの利尻岳の真っ白な姿が浮かんでいたのだ。
あれから五十数年が経ち、記憶も薄れた。皆がくれた寄書きは何処へ行ってしまったのだろう。人生の折り返し地点はとうに過ぎ、初老の年代に入ってしまった今、小さな漁師町、遠別での出来事を何故こんなに新鮮に思い出すのだろうか。単なるノスタルジーではない何か不思議な引力を感じるのである。人にとっての原風景とは何なのか、そしてどんな意味を持つのであろうか。今年の夏休みこそ、必ずあの砂浜と水平線の利尻岳に会いに行こうと考えているのである。
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