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卒ロン(バイバイ、住宅ローン)

JR横須賀線を逗子駅で下車。駅前ロータリーの2番乗り場からバスに乗り換えて葉山芸術祭に行ってきた。神奈川県・葉山町に暮らす人々が作品や居住スペースなど、持てる「アートな資源」を一斉に公開する年に1度の機会。四半世紀前に初めて訪ねて以来、毎年この時期がやって来るとなんだか心踊る(といいながらも、芸術祭会期中に葉山を訪問できたのはこれがやっとの3回目)。

長かったコロナ禍下でも、芸術祭はやり方を工夫しながら中断することをしなかった。が、フルスペックでの開催は、久しぶりのことではあるまいか。森山神社の青空アート市に集う人々の表情も心なしか華やいで、交わす挨拶も弾む。

20代の独身の頃から、葉山はクルマで割とよく来た。これといった目的はない。一色海岸や森戸海岸をぶらぶらして、カフェやファミレスでひと息つくと、「さあ、帰るか」とカーステレオのカセットをサザンからユーミンに入れ替え、元来た道を東京に引き返すだけ。僅かな飲食代の他に若干のガソリン代と高速代で全部。なんとお手軽かつ効果的な即席現実逃避だったことだろう。

結婚後、ほどなくして傾斜地に建つ、眺望良好の建売住宅を一度買いかけた……というか、契約を交わし手付を打ったので、確かに[葉山に家を買った」のだ。ただ、後ろめたさもあり、水面下で進めた葉山移住計画は、やがて小金井に住む妻の両親の知るところとなり、天地がひっくり返らんばかりの大問題に。嫌な予感が的中した恰好だ。

幼な子二人が海と山とに囲まれた葉山町で育つ効能をとうとうと訴えてはみたものの、

「君が僕たちから逃げたいというのなら、こちらにも考えがある」

妻の父の最後通牒に震え上がり白旗降参。野望が完全についえた瞬間だった。戻ってこない手付金云百万円は義父が半分補填することで手打ちとなった。

眼下の青々とした木々の先に控えめながらもなんとか相模湾を遠望できるほぼ理想の我が家……に思えたが、惜しむらくは、リビングの広さがせめてあの倍あればな、と。その後すぐに札幌の大学に職を得たことも含めて、あのときすんでで住宅ローンを回避できて本当に良かった、といまなら思える。良い夢を見た(義父にとっては「高い夢に付き合わされた」?)と、その後しばらくは取ってあった物件のチラシなどの青春のリグレットも、コロナで巣篭もりしていた時分に、えいやー!と断捨離してしまったのだった。

インドには行けるカルマの人と行けないカルマの人がいる、とは三島由紀夫。もっとも、三島のこの言葉は、むしろこれをことあるごとに引用した若き日の横尾忠則の文章として記憶するもので、僕の理解が正鵠を射ているかは甚だ疑わしい。

三島に倣えば、どうやら僕は葉山に住めるカルマは待ち合わせていないのかも。事実、「手付金折半事件」から20年近く経った一時期、葉山移住に再チャレンジしてみるも、このときは「物件の神様」がついぞ降りては来なかった。

その後、緑内障を悪くして、運転免許を失効させてしまったいまの僕には、カルマどころか葉山におもむくクルマもなし。まさにトホホな状況にある。

ただ、いわば人生決算書を俯瞰してみたとき、収入曲線がすっかりピークアウトしたいま、最低限住む場所に係る負債がゼロ、すなわち、借金から解き放たれていることの意味は大きい(トホホどころかウッホホというもの)。

ここで肝心なのは、人生ここからは「家を持つ」といったストック思考に囚われ過ぎないこと。そうでなくとも、これまでの人生、マンションと戸建を合わせて5.5軒もの「我が家」を買ったり売ったりして来たではないか。

※0.5は手付を流した葉山の例の物件

考えてみれば、そもそもは家は買う派より借りる派だったのだ。住宅35年ローンの桎梏からは一切自由でいたい、とうそぶいていたものだった。

それが、最初に買った札幌のマンションがたまさか高値で売れて、ローン残高との相殺で1千万円もの売却益が手許に残った(とはいえ、それなりの頭金を入れたり、月々の返済に加えて、年に2回どかんどかんとボーナス払いをやってきたわけで、全然儲かりはしてないが、ならば住宅ローンを組まずしてそれだけ貯められたかといえば、答えはノーだ)。

「売却益」にも増してマズかったのは、

「なーんだ、家のローンは返し切らなくてもいいんだ。途中で売り抜けられさえすれば次もイケるんだ」

という能天気な自信を持ってしまったこと。すなわち、住宅ローン残高にすっかり耐性がついてしまったこと。ただ、幸か不幸か、もはや「35年ローン」の組めないお年頃である。ストック思考は捨てて、これからはフロー思考にますます磨きをかけよう。

ここからは、人との繋がりや一本路地を入ったお店の発見など、いわばフローな出会いを大切にしながら、葉山に限らず、色々な街角を(クルマもノルマもなしに)歩く速度で巡りたい。

さはさりながら、逗子駅前商店街の不動産屋さんの店頭でふと足が止まり、何気なく物件掲示板を見やるワタシ。いま一度、「カルマもなしクルマもなし」を肝に銘じよう。

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