ゴミ袋いっぱいのゴミ出し
札幌での火曜日の朝、日の出早々に起きてゴミ袋いっぱいの「燃えるゴミ」をゴミ置き場に出しました。
あ、いや、もしかしたら、この「ゴミ袋いっぱいのゴミ出し」は、コンマリの「ときめかないなら捨てる」に匹敵するくらいの、断捨離の新たな極意足り得るのでは? すなわち、ゴミが出たから捨てるのではなく、例えば、「火曜日は燃えるゴミの日」という所与の事実の前に、10ℓなら10ℓ、20ℓなら20ℓ、その日使うと決めたゴミ袋の容量いっぱいいっぱいのゴミを家中のどこからか新たに発見、発掘してでも捨てる、という態度、決意のことです。
2年前に札幌の大学を退職していますので、円山動物園裏のこのマンションは家計ポートフォリオ的にはいまや贅沢施設になり果てていまして、早晩、売るか貸すか……決断のときが迫っているわけです。
それでもなかなかすんなりと処分できないでいるのは、窓を開け放ったまま眠ってしまった朝などに(まさに今朝!)、網戸越しに流れ込む静謐な自然の冷気にふくらはぎや太ももなどを撫でられ、思わずブルっと身震いしながら掛け布団を顎まで引き上げるあの気持ち良さは、夏の終わりの、この時期の札幌ならではの贅沢でして、おいそれとは手放すことができないでいるのでした。
事実、この周辺には、そんな東京に舞い戻っても諦めの悪い札幌勤務経験者たちがそのまま残していったマンションや戸建住宅がそこここにあると聞いたことがあります。
とはいえ、限りある先の資金のことを考えると、決断のときは刻一刻と近づいているわけでして。いつなんどきその日を迎えても良いように、不断の断捨離が欠かせません。それには、捨てるとなれば「ゴミ袋いっぱいのゴミ出し」がとても有効だということ、日々確信が深まるばかりです。
例えば、若い頃から好きでコンスタントに買ってきたPaul Smithの小花模様のシャツが札幌のクローゼットに5枚あったとします(事実、ついこないだまでありました)。これをコンマリ式に「ときめくなら残す」「ときめかないなら捨てる」とやると、もはや流行的には、あるいは体型的にはアウトでも、買ったときの思い入れや、コレクターズアイテムとしての現存価値的には捨て難いとして——すなわち、「いまだときめく」として——どうしてもグレーゾーンが現出してしまいます。
そこでコンマリ式に代わって……というか、コンマリ式に加えて有用なのが、この「ゴミ袋いっぱいのゴミ出し」方式。やってみれば分かりますが、開始直後はバンバン捨てられたゴミも、やがて時が経ち、断捨離が進むと捨てるべきものは意外や意外、底を打った感か早晩訪れます。
例えば、札幌のうちの辺りは、「燃えるゴミ」は有料の黄色い専用ゴミ袋に入れて火曜日か金曜日の朝に出すことになっているのですが、台所から出た生ゴミなどを「基礎ゴミ」にして、あまったスペースに引き出しやクローゼットから努めて発見する「発掘ゴミ」で埋めることとなります。
それでも、通販で間違ってポチったり、他人からいただきながら一度も袖を通さなかったような服が沢山あるうちは余裕なのですが、いよいよ「Paul Smithの小花シャツ5枚だけ」となったような場合、ここからが勝負です。
一方で、買ったときはいずれも2万近くしたこと、使われているリバティープリント生地は作家性が高く同じテイストのものは2度とは手に入らないかもしれないことなどを知っています(=いまだときめく!)。他方で、客観性のみならず主観に照らしてももはやいまの自分には似合わないこと、事実、件の5枚はほぼ通年で着ることがない事実が厳然とそこにあります。
ここまでくると、ゴミ袋いっぱいのゴミ候補として加えていくに、5枚中1枚なのか2枚なのか、という冷徹な判断だけです。で、いざ入れてみると、2枚どころか3枚は余裕でイケる。しかも、4枚目も入れて入らないこともない。こうなったら、究極的にどの1枚を残すか、だけです。結果、札幌のクローゼットには、黒を基調とした半袖の小花模様が1枚だけ残されているのですが、これとて、またなんどき「ゴミ袋いっぱいのゴミ出し」候補として仕分けされないとも限りません。
アメリカ映画を観ていると、ある日、突然会社を解雇された主人公が、段ボール箱一つに私物をまとめてオフィスを後にする、なんとも残酷で、でもどこか滑稽なシーンがよく出てきて、そのたびに泣き笑いしてしまいます。戦後長く表向きは「終身雇用」を前提としてきた日本ではそこまで露骨な光景にはなかなかお目にかかれませんが、しかし、これだけ職場のフリーアドレス化が進んで「日々、終業時には私物をまとめてロッカーにしまって帰る」が進んだのもその下地ならしという穿った見方もできましょう。家庭のみならず職場でも捨てるとなれば「ゴミ袋いっぱいのゴミ出し」を励行しておけば、その日が突然やってきても「段ボール箱いっぱいの私物」を小脇に抱え、職場を颯爽と去れるではないですか。
もっとも断捨離にもゆり戻しがあって、目下、いわば断捨無(断じて捨て無い!)派の巻き返しが起きているようですが、僕にはやはり不断の断捨離に理があるとしか思えません。
明日は「ビン・缶・ペットボトル」の日。「悪い子はいねがー」のナマハゲではないですが、「いらんモノは捨てねばー」の強迫観念ぎみ精神をもって、明日の朝も早起きしたら、またいったん東京に引っ込もうと思います。
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