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ボロくて、恥ずかしくて、大好きだった家

大学卒業まで住んだ名古屋の実家がこの春、取り壊された。

幼い頃は、ボロい借家に住んでいるのが恥ずかしかった。
思春期を過ぎ、大人になると、「いつかまた、ここに住みたい」と思った。

半世紀の家族の記憶

両親は私が産まれて間もない1970年代前半に、この木造2階建ての借家に移り住んだ。
いきさつがあり、父が、一緒に事業をはじめた兄(私の叔父)から、看板・内外装を手掛ける零細企業と自宅兼仕事場を引き継いだ。

両親はそれから半世紀をそこで過ごした。

父にとっては、倒産を含めて数十年の浮き沈みが染みついた家だった。
母にとっては、父の仕事を手伝いながら家事を一手に引き受け、万年金欠のなかで三人の男子を育て上げた家だった。
三兄弟にとっては、子ども時代を一緒に過ごした家だった。

ボロ借家と何度も書くのは気が滅入るので、ここからは父の営んでいた看板屋の社名「造形社」と書く。

仕事場は危険な遊戯場

造形社の1階は大部分が仕事場で、その主役は「傾斜盤」だった。
玄関のガラス戸を開けてすぐの位置に、テーブル型の大型電動のこぎりが鎮座していた。

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(解体前の搬出作業)

傾斜盤は父専用だった。
特別扱いだったのは、父自身が若い頃、指を欠損するほどの大怪我をしたからだろう。

傾斜盤を操作する父は、なかなかかっこ良かった。
ハンドルを回して丸ノコの歯の出具合を調整する。
スイッチを入れると、モーターの轟音が鳴り響く。
アクリル板やベニヤ板、木材が、次々と寸法通りに切り出される。
保育園のころ、友だちが何人か見に来て、「すげえ!」と大騒ぎした。
あの瞬間だけは自慢のオヤジだった。

仕事場にはノコギリやトンカチ、ドライバー類はもちろんのこと、ドリルやサンダー、はつり機など、各種電動工具がそろっていた。
壁には多種多様なビス・クギ類、留め具・金具を分類整理したケース、ペンキ、シンナー、ニスの容器やスプレー缶がずらりと並んでいた。
収納棚にぎっしり詰まったアクリル板や合板、木材など材料はいくらでもあった。三兄弟は遊び道具やちょっとした棚は自作した。

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危険物満載の空間は、子どもの遊び場でもあった。
三兄弟はメンコやコマ、チャンバラ、ベニヤ板を使った即製台での卓球などなど、仕事場で騒ぎ、遊んだ。
一斗缶で端材を焼く玄関先の焚火も「遊び」のひとつとして楽しんだ。

ある日、小さかった私が仕事場の奥の風呂釜近くにボールを追いかけていき、手を伸ばした拍子に倒れこみ、左ももに今も跡が残る大火傷を負った。
私の記憶は「次兄に後ろから突き飛ばされた」。
次兄の記憶は「危ないから引っ張ってとめようとした」。
いまだ論争が続く小さな未解決事件だ。

カオスな仕事場は「おもちゃ戦争」の最高の舞台だった。妄想キッズの脳内で、ミクロマンやライディーンの超合金、ロボダッチのプラモデル、ミニカー、キン肉マン消しゴムたちが日々、戦いを繰り広げた。

傾斜盤と並ぶ主役、「切り文字」用の大型電動糸ノコは母の持ち場だった。

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カッティングシートが普及するまで、アクリルの「抜き文字」は看板の主役だった。母と一緒にアクリルとカルプ(発砲ウレタン樹脂)を貼り合わせた板をぐるぐる回し、パズルを解くように大きな文字を切り出した。

仕事場の作業台も傾斜盤と同じように父の聖域だった。
アクリル板を接着する薬液用の注射器や、父以外は使用禁止のノミなど、特別な道具が並んでいた。
かんなとノミの刃を砥石でとぐ作業も、父の専売特許だった。

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楽しい思い出もあるけれど、三兄弟にとって仕事場には「面倒くさい」という感情が染みついていた。
現場仕事ほど肉体的に辛くはなかったが、父から指令が下れば拒否権はなく、手伝いはひたすら面倒だった。

トタン看板の組み立て、砥の粉(とのこ、下地材)やニス塗り、大量の木材やアクリル板の仕分け等々、絶え間ない発注に本当にうんざりした。
どんなに面倒な作業でも淡々と続ける父の背中から、「金を稼ぐのは甘くない」「やるべきことを黙ってやるしかない」と学んだ。
今思えば、家業の手伝いは自分の仕事観の背骨となっている。

テレビが見える風呂

仕事場の奥の十畳ほどの部屋は「お茶の間兼台所兼風呂場兼脱衣所兼麻雀部屋」だった。
コタツ、テレビ、冷蔵庫、食器棚、タンス、事務机を詰め込んだ狭い部屋は、冬にストーブを出すとどうしようもなく狭く、家族五人で肩を寄せるよう晩飯をたべた。猫までこの部屋で一緒にエサを食べていた。

小さかったころ、この部屋には大きな水槽があった。父の自作で、循環ポンプと濾過槽がある本格的なものだった。
ボロ借家の片隅でコバルトブルーやエンゼルフィッシュ、タツノオトシゴたちが遊泳していた。

ある日、保育園から帰ったら、水浸しの床にチョウチョウウオが跳ねていた。水圧に耐えられず、水槽が崩壊したのだった。
それ以来、水槽は姿を消した。そんな余裕はなくなったのだろう。
三兄弟が巣立ちはじめたころ、父は水槽造りを再開し、仕事場の一角を魚たちが占めるようになった。

おそろしく狭い台所で、母は男衆の食欲を十二分に満たすご馳走を毎日用意してくれた。
コンロはふたつだけ、まな板を置いたらいっぱいの流し台から、魔法のように、すべての料理が「いただきます」の瞬間にアツアツで出てきた。

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男衆は炊事をまったく手伝わず、そろって早食いで、瞬く間に料理を腹に収めていった。片付けと洗い物も母がひとりでやっていた。
「男は現場、母ちゃんは飯」という分業は、「力仕事で汗をかいて、空っぽの胃にうまいものを詰め込んですぐさまひっくり返る」という至福の時間をあたえてくれた。

食事の満足度では、頭脳労働者は肉体労働者に到底かなわない。
抜群にうまい母の手料理は、高井家の平和と幸福の礎だった。

小学生低学年のころまで、私はいつもこの部屋の冷蔵庫の前で本を読んでいた。
座布団にすわり、ひんやりする冷蔵庫の扉に背中をあずけて、図書館で借りた乱歩の少年物やホームズ、ルパン、金田一耕助を読み漁った。
本に没頭すると何も聞こえなくなり、冷蔵庫を開けようとする母に小突かれるまで気づかなかった。

この「なんでもアリ」の部屋は、風呂場と直結していた。

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強引に後付けした風呂の浴槽からはテレビが見えた。
湯につかりながら、「8時だよ!全員集合!」や「ザ・ベストテン」、深夜放送の映画を見た。

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個室も机もなかった私は、高校受験も大学受験もコタツ机で乗り切った。
昼間はガラス戸一枚隔てて仕事場から轟音が響く。
生活の場なので、「勉強部屋」を独占できるのは夜中だけだった。
そんな調子でも、なぜか受験はなんとかなった。

小三で牌を握って以来、この部屋で数えきれないほど家族麻雀の卓を囲んだ。歴戦の雀士だった父は家庭内で無敵の強さを誇った。
麻雀は、仕事の手伝いと並んで、浮世の厳しさを教えてくれた。

兄弟喧嘩で揺れる二階

二階にあがる階段は傾斜版の脇にあった。
ほとんど梯子のような急傾斜なうえ、造りが悪く、何度か踏みぬき事件がおきた。

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慣れないお客さんたちがそろり、そろりと降りる階段を、三兄弟は飛ぶように駆けおりた。
大人になって帰省したら、自分も「そろり派」になっていた。

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二階は間仕切りもない三間続きだった。
祖母の生前は兄二人が真ん中の部屋の二段ベッドを使い、私は奥の部屋で父、母と一緒に寝た。両親の寝る部屋には神棚があった。
祖母が亡くなると、長兄が通りに面した仏壇の部屋を引き継ぎ、三兄弟でただひとり「机をもつ男」になった。

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三兄弟は晩飯が済むと二階で過ごすことが多かった。
狭い空間に男子を押し込めば、喧嘩が始まる。
取っ組み合いになると、ちょっとした地震並みの振動が起きた。
大型の台風が来れば、家全体がミシミシと音をたてて揺れ続けた。

壁には雨漏りの跡や子どもの落書きがあり、天井は少し跳べば頭を打つほど低く、薄い板ごしにネズミが走り回る足音が響いた。

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通りに面した窓から、昔は名古屋城が見えた。
いつからか、周囲に建物が増え、お城は見えなくなった。

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奥の間の窮屈な窓はベランダに通じていた。
普段は洗濯物、季節には梅の実と紫蘇を天日にさらす場所だった。紫蘇もみは、一番良い色が出る「手があう」私の仕事だった。

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造形社の内外装はほぼ自前だった。
何年かに一度、大工さんや職人さんの手を借りて、父と三兄弟で壁や天井を張り替えて改修を重ねた。
この木製のベランダも例外ではなかった。小五の夏休みには父の指揮のもと、私がベランダを取り壊して作り直した。

ベランダからは瓦屋根によじ登れた。

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軒を接する隣近所を屋根伝いで散歩し、夏には「矢田川の花火」を屋根の上から見物した。
遠くに小さな花火があがり、音は遅れて聞こえてくる。
「光はすぐ届くけど、音が届くには時間がかかる」と長兄が教えてくれた。
兄は、夕涼みで夜空を見あげていたとき、「何万年も前の光がいま、ようやく地球に届いたのを、俺たちは見ているんだ」とも話してくれた。

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「明るい借金生活」

ボロくて、狭くて、隙間風が吹き込む造形社は、快適とは言い難い住まいだった。友だちの家に行くと、我が家との差に愕然とした。

それでも、三兄弟が育った造形社には、疑いなく、幸せな時間が流れていた。

倒産で大きな借金を抱え、大飯喰らいの男子を三人も育てた両親の苦労は、並大抵ではなかっただろう。
自分が親になった今、同じ立場に置かれたらと想像すると身が縮む。

夜逃げ寸前の状況で、五人が幸せに暮らせた一番の理由は、家族仲が良かったからだろう。
父は各方面でアレコレやらかし、母は四六時中、愚痴っていた。
でも、夫婦喧嘩のような騒動はほぼ記憶にない。
三兄弟も、まるで違う性格なのに、仲は良かった。

家族の結束を支えたのは、ある種の開き直りだったと今にして思う。

「明るい借金生活」。長兄がひねり出した高井家の合言葉だ。

零細企業は日々、資金繰りに追われる。貯金などないから、暇になればすぐ干上がる。食卓から肉が消え、子どももそれと気づく。

金がないのは、切ないものだ。
衣食住から進学先の選択まで、不自由を挙げたらきりがない。
両親が苦労する姿を見ては、「もうちょっとだけでいいから、金があったらなぁ」と何度も思った。

それでも、造形社は笑いが絶えない家だった。

「ほんと、金、ないな」と言いながら、くだらない話題でケラケラと笑い、笑っている自分たちを「明るい借金生活!」とネタにして、またケラケラと笑った。

お金がなくたって、多少おかずが貧しくたって、飯になんとかありつけて、家族一緒に笑ってすごせれば、何とかなる。
それで、ちゃんと幸せな日々が送れる。

お金の多寡と幸福は、別物だ。

頭ではなく、体でそれを知っているのは、私の財産だと思う。

「自宅に呼ぶのは親友だけ」

そんな風に考えられるのは、私がもう大人になったからだ。
思春期までは、ボロ借家に住んでいるのが恥ずかしかった。

十歳くらいから、私は自宅に友だちを呼ぶのを避けるようになった。
早熟で、勉強、運動、遊び、なんでもござれの小さな猿山のボス猿は、住んでいる家だけは集団の最下層に近かった。
浅はかな猿は、それを弱み、隠すべき欠点だと感じていた。
自宅に呼ぶときには「お前は親友だから」と身構える気分があった。

そんな気後れは、大学生になったころから少しずつ消えていった。
就職で上京し、たまに帰省するようになると、あれほど「ここから抜け出したい」と思った造形社に愛着を感じるようになった。

帰省すると、私以外の家族は近所の兄の家に世話になり、私だけが造形社で寝泊まりした。
二階で重い煎餅布団に包まれると、いくらでも寝られた十代のころのように、熟睡できた。造形社の薄暗く狭い部屋は、自分の皮膚のようにしっくりきた。
「老後は名古屋に引っ込んで、この家に住めないかな」と夢想するほど、居心地が良かった。

父、帰る

父と母が造形社からの退去を決めたのは、父が自動車の自損事故を起こしたのがきっかけだった。
リハビリで回復しつつあるが、後遺症を考えると急な階段がある一軒家で暮らすのは難しいだろうと、入院中に母と三兄弟で相談して転居を決めた。

父は住み慣れた家から引っ越すのに激しく抵抗した。

引退済みで、仕事場はただの物置になっていたが、「俺の命」とまで言う傾斜盤を手放すのを受け入れられないようだった。

結局、最後には現実の前に父が折れ、引っ越しが決まった。

退去後に造形社はすぐ取り壊されると聞き、私は1月のある週末、名古屋に帰った。
最後に、自分の目で「我が家」を見ておきたかった。
感染対策のため、入院中の父には会えず、兄や母と食事すらしない弾丸帰省だった。この投稿の写真のほとんどはその時に撮ったものだ。

造形社は、記憶の中のまま、木くずとシンナーのにおいがうっすらと漂い、壁や天井や床は変色して薄暗く、狭かった。
そして、一歩足を踏み入れた瞬間、タイムマシンに乗ったような感覚に包まれた。
強行軍だったが、もう一度、あの空間に身を置けてよかった。

その十日ほど後、父が退院した。
解体前に何とか間に合った。

傾斜盤や工具・家具の類はすべて撤去済みだったが、最後に父が自分の仕事場に戻れてよかった。

間もなく取り壊しがはじまり、ものの数日で造形社はあとかたもなく姿を消した。

消える故郷

帰省するたび、私は実家周辺を歩き回る。

年々、少しずつ、町は変わっていく。

古い店や町工場、友だちが住んでいた安アパートは姿を消し、虫食いのように駐車場が増えていく。
そうかと思えば、借家や長屋が高齢化で空き家になり、数軒分の跡地に大きな一軒家や小奇麗なアパート、マンションが建っていく。

朝昼夕とサイレンを鳴らした紡績工場がショッピングモールに変わってもう20年以上経つ。
中高と通学で毎日渡った庄内通りは、拡張で食堂や布団屋、パン屋などが立ち退き、高速道路の高架が空を覆って周辺の風景は一変した。

私が育った町は、もう半ば失われてしまった。

この投稿に書いた高層団地も、近く解体されると聞く。

上の「チキンラン」の投稿の最後に、私はこう書いた。

老朽化した又穂団地は数年内に取り壊される予定で、今は退去が進んでいる。
私が人生で最も死に接近した場所、今の私の一部を形作った場所は、もうすぐ失われる。

そのことにまったく感傷を覚えないと言えば嘘になる。
今は全く無縁と言えるような場所でも、それが物理的に消えることには、自分自身の一部が葬られるような喪失感がある。

だが、こうも思う。
それは「又穂の屋上」だけに当てはまることではないのだろう、と。
過去も、未来も、ときにはその中のかけがえのないように見えるものでさえ、自分から遠ざかっていくことはあるのだから。

「ここを抜け出したい」と願い、「いつかここに帰りたい」とも思った、汚くて狭かった造形社。
あの家ほど、自分の一部と感じられる場所は、私にはなかった。

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ご愛読ありがとうございます。
この原稿を書き始めたのは実家が解体された直後の2月はじめ、半年以上も前でした。ようやく、ひとまず残しておいても良いと思えるものになりました。


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