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【ネタバレ】深読み『1917命をかけた伝令』 寓話的な反戦映画の傑作

今更ながら『1917 命をかけた伝令』を観た。

面白かった!
第一次世界大戦モノ、映画も小説も好物です。

なんですが。

ちょっと戸惑っています。
この映画って、「そういうこと」ですよね?

2時間ほどの映画でして、前半は「おおー」と感心しながら、後半は「ほう! 『そういうこと』ですか!」と、意外感をもって拝見しまして。

『そういうこと』って、まぁ、ありがちな気もするけど、ここまでやれば立派なもんだ」と感服しまして。

「さて、みんな、どんな感想を持ったのかな」とググったわけです。
ちなみに私、映画は予備知識ゼロで見る派です。

ところが、私が「そういうこと」だと思ってた解釈が、見当たらない。
皆無、ではない。検索すると、それらしいのが、ちょっと引っかかる。
でも、ズバリ、と書いたものがパッと出てこない。

てなわけで、この文章を書き始めました。
1回観ただけ(その後2回目を観たので、最後に追記を入れました)なので、記憶(と映画.comのフォトギャラリー)を頼りに書きます。あれこれ違ってたらごめんなさい。
(画像は映画.com、と公式ツイッターより)

★★★以下、ネタバレ全開!★★★

まずWikipediaを抜粋・整理して、映画の概要を。

『1917 命をかけた伝令』(原題:1917)
2019年制作のイギリス・アメリカ合衆国の戦争映画。第一次世界大戦に投入された2人の若きイギリス兵のある1日を全編ワンカットに見えるように密着して追い掛ける。
1917年4月、西部戦線のドイツ軍が後退をみせたが、それはアルベリッヒ作戦に基づく戦略的なもので、連合国軍をヒンデンブルク線にまで誘引しようとしたものだった。
イギリス陸軍はその事実を航空偵察で把握。エリンモア将軍は2人の兵士、トムとウィルを呼び出し、明朝に突撃予定のデヴォンシャー連隊第2大隊の壊滅的被害を避けるため、作戦中止の情報伝達を命じる。第2大隊には1,600名もの将兵が所属し、その中にトムの兄・ジョセフもいた。

トムとウィルは限られた時間でどこに敵が残るか分からぬ危険な戦場を進んでゆく。

この映画を、

「これから観たいな」

と思っている人は、

ここから先は、

読んじゃダメよ。

と、目分量でスマホ2画面分の「うっかり見ちゃったよ……」防止を挟んでの本題ですが、

…。

……。

………。

…………。

これ主人公、死んでますよね?


怒涛のワンカット(風)の映像が話題になったこの映画。
開始後ずっとキープされる「ずっと回してます」モードが、ジャスト1時間ほどで明確に切れます。
主人公ウィル・スコフィールドがドイツ兵に撃たれるところですね。
画面はかなり長時間、「ブラックアウト」します。

ここで、スコフィールド、死んでますよね?

有体に書くと、前半は現実で、後半は撃たれたスコフィールドが今際の際で見た幻想でしょう、これ。

「そうに違いない」と思って後半を楽しんで、終わってググったら、そういう解釈がほとんど無くてビックリした。

念のため。
検索が甘くて「そりゃそうよ」って話なのかもしれないです。
そうじゃなくても「オレは分かった!」と威張るつもりもない。そもそも解釈が間違ってるかも、ですし。

しかし、ですね。
壊れた橋で狙撃兵に遭遇したのが昼で、スコフィールドが意識を取り戻すと夜になっていて、そこからまた走り出す。
この「ブラックアウト」を挟んだ前半と後半で、映像の作り方や、ディテールの描写、話の運び方がガラッと変わってますよね?

たとえば、目覚めて廃墟の街を走り抜けるシーン。
いきなり敵の攻撃を受けるのも不自然。「そんなバカスカと、どこにいるの、ドイツ兵?」ってなりませんでした?

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さらに。
炎上する建造物(教会?)をスコフィールドが見上げていると、謎の黒い人影が寄ってくる。
なのに、相手もスコフィールドも、至近距離まで発砲しない。

そんなの、あり得ないでしょう。戦場ですよ?

私はこの場面の描写と、この画像のシルエットの十字架を見て、「もう死んだってこと、で後半は行くのか?」と考えはじめました。
黒い人影も死神の象徴なのかな、と。

で、なぜか単独行の追手が都合よく転んで、その隙に民家の床下にスコフィールドが逃げる。
そこには、これまたなぜか、赤子を連れた女性がいる。
ここで、前半にゲットしたミルク(この入手シーンもツッコミどころですよね)が役に立つわけです。
いやいや。
そんなリアリティーに欠ける「お使いゲーム」みたいなエピソードを強引に入れているのは「これは夢か幻想ですよ」というメッセージでしょう。

スコフィールドが歌ってみせる童謡のような謎めいた詩は、映画をみながらググってしまいました。
エドワード・リアという方の『ジャンブリーズ』の一部のようです。

ジャンブリーズ

(書影はAmazonより)

柴田元幸先生訳ですか。ちょっとほしいな、この絵本。
作者も作品もよく知らないのですが、
「奇妙な格好で、『ふるいの舟』にのって海を渡った奇妙な旅」
をうたったもののようです。第一次世界大戦で大陸に散った英国人の若者にはぴったりくる。
この辺、もっと深読みできるかも、ですが、セリフで引用された部分だけで比喩をくみ取れるようになってました。

この女性と赤子(孤児)との出会いは、とても印象的なシーンです。ここがあったから、「いい映画だなぁ」と思えるほど。
現実だとするとワケが分からない非現実的な場面だからこそ、名シーンなんだろう、と。

その後、廃墟の中で焚火しているドイツ兵2人と遭遇するシーンも不自然です。
スコフィールドは先に若いドイツ兵を見つけても撃たない。
そんな訳はない。
酔っぱらった兵隊も撃たず、逃げ出している。
そんな訳はない。
戦場ですから。
これは、「できれば殺し合いなんてしたくない」というスコフィールドの心情の表出かな、と。
ソンムの生き残りですからね。地獄からの生還者。
彼は、味方の兵士がドイツ兵を罵るシーンでも同調するのを避けていたように思います(1度しか見ていないので確信がないですが)。

で、その後、川に飛び込んで、ここでも何度も死にかけるわけです。
この辺りではもう「実際は撃たれたスコフィールドは死線をさまよって幻覚を見ている」という線で鑑賞していたので、それに沿った描写だと解釈していました。

流れ流れて岸にたどり着き、川面に桜の花びらが散っているシーンで「主人公死亡説」を確信しました
そう読み取らないと、前半の伏線回収にならない。
桜を死と再生、輪廻の象徴として相棒のトム・ブレイクが語った意味がない。日本にはもともと桜にそういうイメージがありますよね。

森で目指す連隊の後発組と出会うシーンも「現実」なら非常に奇妙。
だって、みんな、座って、歌(讃美歌?)を歌ってるんですよ。
そんな訳はない。
この後、突撃なんですから。
歌詞も、苦難から解放されて「ヨルダン川を超えてふるさとにかえろう」といった内容(だったはず)。
この歌詞は「川を超えてきた」スコフィールドが「ふるさと」に帰りつつあるという伏線になっている。

そして場面はかなり唐突に真新しい塹壕に変わるわけです。
「幻覚にしても、場面転換が急すぎるだろう」と思うほどの急展開だった印象。
そこから、ダメ押しのクライマックス。

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すでに突撃は始まり、スコフィールドは突撃する第一波の兵士たちを押し分け、カンバーバッチが演じる連隊長の大佐に攻撃中止命令を届けようとする。
いやいやいや。
ヘルメットも無しで、あり得ないでしょう。
しかも、この後が、これです。

画像4

指摘するまでもなく、非現実的すぎる疾走シーン。
でも、これは「自分の命を顧みない使命感」といった見せ場ではなくて、「『戦争』とは違うベクトルで、命がけで疾走する男」だと考えると、素晴らしいシーンじゃないでしょうか。

攻撃中止命令が伝わり、全軍突撃はギリギリで回避されます。
ここもスムーズすぎて不自然。
わざわざ前半に「大佐に命令を伝えても、そんなにスムーズに事は運ばないぞ」と警告されるシーンがあるのに、すんなり通る。
現実と非現実の差を浮き立たせる「逆伏線」ですね、あのセリフは。

この「すんなり中止」は、死の直前にスコフィールドが想い描いた願望だったのではないでしょうか。
Wikipediaによると、『1917』には「無謀な上層部の命令で多くの若者が犠牲になった第一次世界大戦の悲劇とは正反対のシナリオだ」という趣旨の批判があるそうです。
映画の描写が「現実」なら、一理あるかもしれない。
でも、スコフィールド自身も死に、その結果、攻撃中止命令も届かなかったのだとしたら?

最後。
死んだ戦友の兄を見つけ出し、心残りだった遺品の引き渡し、友人の母親に手紙を書くという約束にめどをつけて、スコフィールドは1人になります。
幹がほとんど枯れた奇妙な木(これも何かの象徴でしょう)の根元に腰を下ろし、写真を取り出す。
それまで何度も家族や故郷との繋がりを否定してきた男が、奥さんと子どもと思われる写真をみつめ、目を閉じたところで、映画は幕を閉じます。

このラストシーンが決定的。
まず、直前のカンバーバッチ演じる大佐のセリフが回収されている。

‘You know how this war will end? Last man standing’

無理に訳せば「最後の1人になるまで戦争は続く」といった意味でしょうが(字幕は忘れた)、木の根元に座り込んでしまったスコフィールドは Last man standing になれなかった、つまり生き残れなかったわけです。

そして「目を閉じた」ところで終わるのは、前半と後半の境目の「ブラックアウト」とつながっている。
撃たれた直後から、最後まで、スコフィールドは「目を閉じたまま」だった。

素晴らしい反戦映画

ややこしいのは、この映画、「一部、実話に基づく」みたいな位置づけになっていることでしょう。
ストーリーはフィクションで、登場人物も架空ですが、メンデス監督が従軍した祖父から聞いたエピソードが取り込まれているらしく、最後に祖父への謝辞も入ります。

ワンカット(風)のリアルな映像も手伝って、前述のような「美化している」とか、「史実と合わない」「設定や描写が非現実的」といった批判・ツッコミを受けているようです。

でも、「後半は主人公の幻覚」と解釈すると、見方や評価がかなり変わるんじゃないでしょうか。

穏便に「後半は」と書いてきましたけど、ぶっちゃけ、私は全編、寓話なのだろうと思っています。
「1600人の連隊が連絡できず、援護なしの独断でドイツ軍に総攻撃をかける」という設定。
その生死をたった2人の伝令に託すという筋書き。
ドイツ機の墜落と友人の死。
何より、「誰が搾ったんですか?」という新鮮な牛乳。

前半も、無理がありすぎる。

でも、いいんですよ。
映像はもちろん、解釈に含みを持たせる「ブラックアウト」を挟んだ構成、あちこちに埋め込まれた伏線や隠喩やシンボルなどなど、力こぶが入った良い反戦映画だと思います。

以上、なんだかずいぶん野暮な真似をしてしまった気がしてきましたが、大晦日に4000字以上も書いてしまったので、投稿してしまいます(笑)

自分の解釈を確かめたいので、近いうちにもう1回観ようかな。

追記(2021年1月2日)

結局、元旦にもう1回観ました。
自分の解釈を確信しました。あー、スッキリした。

勢いで書いた元の投稿はそのままに、確認できた点を追記します。

まず一番最初のシーン。
相棒のブレイクは草原に横たわって寝ていて、主人公スコフィールドは木に寄りかかっている。
これ、2人の「死」の場面と同じ。
ブレイクの死体、わざわざ草が生えた場所に運ぶ描写があります。スコフィールドはラストシーン。

ここも含めて、この作品は最初から最後まで、すべて寓話ですね。

命令を受けたスコフィールドが「我々2人だけで?」と問うと、上官が詩句を引用して「2人ではない、お前1人だ」と取れる言葉を漏らします(2回目なのに、セリフ、メモし損ねた……)。
初見では「?」となりましたが、これは「全部、寓話」とすればおかしくないというか、そう読むヒントになっている。

寓話として観ると、スコフィールドを中心にキリスト教の象徴や隠喩がこれでもかと重ねられている。

・最初にどこからともなくパンを取り出す(聖体拝領)
・塹壕を出るときに上官が洗礼のまねごとをする
・鉄条網で左手の手のひらをケガする(磔刑の象徴)
・直後に死体の心臓部に手を突っ込む(聖心、キリストの愛と救いの象徴)
・「価値のないブリキ」の勲章と交換したのがワイン(聖体拝領)
・ヘアオイルの笑い話(髪に油を塗る描写は聖書で頻出)

森で兵士たちが歌っていたのは、やはりゴスペル『深き川』でした。遠藤周作の『深い河』はこの曲が元だったのか。勉強になるなぁ。
リンク先の歌詞を引用しておきます。

Deep River
Deep river, my home is over Jordan.
Deep river, Lord, I want to cross over into camp ground.
Oh, don't you want to go to that gospel feast.
That promised land where all is peace.

深い川
深い川よ、私の故郷はヨルダンのかなたにある。
深い川よ、私はお前を越えて、仲間たちの元へと帰りたい。
おお、お前もあの福音の宴に行ってみたいとは思わないか?
そこでは、すべてのものが平和であることが約束されているという。

改めて、この「仲間たち」もみんな、死んでますね。

ちょっと戻りまして。
例の牛乳も、あれこれ再確認。
スコフィールドが牛乳をみつけるシーン、牛が一頭だけ生き残っているのが変な感じがするのですが、わざわざその直後、トラックで移動する場面でたくさんの牛の死体と、「食糧にさせないため殺すのさ」という会話がある。
発見時、スコフィールドが牛乳を飲んでいるのに、「食い物は?」「食い物は?」と繰り返していたブレイクが全く興味を示さない。

この辻褄の合わない描写も、「寓話です」のシグナル。

他に気付いた不自然なシーン。

▽前線を超えた直後の会話
爆発と崩落から逃れたところで、スコフィールドが「なぜ俺を選んだのだ」とブレイクを問い詰める。ブレイクは「帰りたければ帰れ」と言い出す。
非常に奇妙な会話。
実際、ブレイクがスコフィールドを選ぶ場面はあるのだが、そもそも、そこがおかしい。
重要な任務にあたる人選で、ブレイクにそんな権限などないはずだ。
これは「意に反して地獄のような戦場に引きずり込まれた若者たち」を代弁するセリフでしょう。

▽地下の女性の場面
スコフィールドはなぜか大量の食糧を持っている。
女性が抱き上げると、赤子が女の子とすぐ気づく。
これは最後のシーンの写真の女の子、つまり自分の娘が投射されているから。「誰の子か分からない」というセリフも、赤子の属性をニュートラルにして象徴性を高めている。
女性は妻の象徴で、スコフィールドが椅子に腰かけて目を瞑り、手当てを受ける描写は、刺されたブレイクの傷に布を当てる場面と呼応している。
急に思い出したように任務に戻ろうとするスコフィールドを女性が必死で止めるのは、妻の象徴だから。

▽銃を使わない
確認したら、やはり後半、スコフィールドは一度も発砲していない。
川に落ちてからは銃を失っている。
これは「非戦」の象徴。

▽最後の塹壕
すでに突撃第一波の兵士たちは続々と死んでいる。
塹壕内で泣き崩れそうな上官は「死者」であり、全滅を象徴している。

最後に、改めてみて、グッときたところ。

▽川から上がってむせび泣くスコフィールド
流れ着いた岸で、それまで泣き言ひとつ言わなかったスコフィールドが突然泣き出す。
直前に川岸の大量の死体を乗り越えている。
若くして散った人々(と自分自身)のために涙を流した直後に、「深き河」のメロディーがかすかに聞こえてきて、スコフィールドは兵士たちの輪に加わる。
第一次大戦の戦死者すべてに捧げるレクイエム。

▽2度、写真を取り出していた
生き埋めになりかけたドイツ軍の塹壕を抜けた直後、スコフィールドがごく短時間、懐から写真の入ったケースを取り出して無事を確認している。
これはラストシーンにつながる伏線。
一番大切なのは、勲章でもなく、家族だった。

うん、これくらいかな。
いい映画だった!

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ご愛読ありがとうございます。
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