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信号を守るとき 守らないとき

今夏に引っ越して、最寄り駅が押上になり、毎朝、スカイツリーを仰ぎ見て通勤するという妙な人生になっている。
行き帰り、駅に1番近い信号で、毎度のように違和感を感じている。こんなT字路だ。

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撮った瞬間は少々ビジーに見えるが、幹線道路の流れからは離れた通りで、バスでも通らない限り、車通りは少ない。道幅もそれほど広くない。
私はここの信号を度々、無視する。車が来なければ、ですよ、当然(笑)
どう考えても安全なシチュエーションでも、多くの人が歩行者側が赤なら、渡らない。
感覚的には、9割以上が信号遵守派だ。
「欧米ではこういうとき信号守らないんですよね、日本人は権威主義で従順だ」なんて話はよく聞くし、そんなことを言いたいわけじゃない。
ちなみに、観光スポットなので海外の人も多いのだけど、地元民につられてなのか、割と信号を守っている人が多い。無視派と半々くらいだろうか。
旅先だから、郷に入っては郷に従え、という発想と、スーツケース引っ張ってて機動力が落ちてるから、だろうと推察する。

閑話休題。
私の信号無視主義は、若い頃、というか、子どもの頃からの癖だ。せっかちな合理主義者歴40年です。
子連れの時もスイスイやらかして、娘に「信号守らないと!」と叱られ、「子どもだけの時は信号守れ」と言い返したりしていて、ダメなお父さんだったな、と思う。

なのだが。
今朝、件の信号を例のごとく無視して渡っている時に、ふと学生時代に友人と交わした会話が蘇った。
その友人は、夜中に車を運転していて、赤信号に出くわしても、他の車も歩行者もいないと100%確信できるときには、信号を無視している、と話した。
私はそれに激しく反対した。
車を運転している時は、絶対に信号を守るべきだ、見晴らしがどんなに良くても、リスクがゼロでも、とにかく守れ、と。
超合理主義者の友人は、それはおかしい、思考停止だ、みたいな反論をしてきた。
私は、車という危なっかしい装置を使うときには人間は謙虚にならなきゃいかん、合理主義的な判断のもっと手前で、その時々の判断が不要なレベルで、自らを律しておかないと、いつか判断ミスで取り返しのつかないことになる、と力説した。友人は納得がいかない様子だった。

今でもこの、「信号を守るとき、守らないとき」の基準は、自分の中では変わらない。
自分の中ではそれなりに整合性があるのだが、合理主義的かと言われれば、そうでもない。
ただの気分でしかないような気がする。その方が気が楽で、賢いような気がする、という程度の話だ。

普段、赤信号を渡らない人を不思議な気持ちで見ていたけど、自分だって、そんなに違いはない。
人間なんて習慣の奴隷だ。
と性急な結論にすっ飛んだのは、もうオフィスの最寄駅に着いてしまったからです(笑)

通勤投稿シリーズ、第6弾(のはず)でした。

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