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「おカネの教室」ができるまで④三人組誕生

命名の憂鬱

誰だったか思い出せないのだが、どこかである小説家が「小説の登場人物の名前を考えるのが苦痛だ」と書いていたのを覚えている。小説という虚構のなかでも、人物の名前は特に虚構の度合いが高く、自分で白けてしまうといった趣旨だったように記憶する。
私にも、この小説家と同じような気分がある。だからこそ、登場人物たちの名前はできるだけ肩の力をぬいてあっさり決めたかった。ちなみにペンネームもこの調子で安易に決めている。

「おカネの教室」は、語り手を少年の「僕」とする一人称小説の形式にすることは早々に決めていた。うん、まずはコイツから片付けよう。
社内を見渡すと、たまたま「城戸」という同僚の名前が目に留まった。一文字変えて「木戸」として、下の名前は甥っ子の「隼人」にした。単純に、長女が「あ、隼人くんが出てきた」と面白がると思ったからだ。
これで良し、と冒頭の自己紹介のシーンを書き出してみると、「木戸隼人」という字面に引っかかるものがあった。少し考え、あ、苗字が長州を、隼人が薩摩を連想させるからか、と気づいた。

それで「僕」のニックネームを「サッチョウさん」とするアイデアが浮かんだ。芋づる式で顧問は「カイシュウ先生」、女の子は「ビャッコさん」と幕末絡みの呼び名がつくよう、名前を決めていった。「乙女」だけちょっと苦労した。幕末期の女性の有名人はあまり多くないからだ。お登勢(寺田屋の女将)は古臭すぎ、和宮とするわけにもいかないし、「お龍」では任侠物のようになってしまう。「福島なら『八重』だろう」と思う方もいるかもしれないが、連載開始は大河ドラマ(2013年)の前だし、「ど真ん中」すぎる。

コードネームの効能

要は偶然と思い付きの産物なわけだが、3人にカタカナ表記のちょっと変わった呼び名、いわばコードネームを持たせることは決めていた。

まず「音」で覚えやすい。私は音読を前提にリズム重視の文章を書くクセがあるので、これは書きやすさにもつながる。
コードネームで呼び合うと非日常感が出て、3人の間に秘密結社のメンバーのような結束感が出てくると考えた。読者=長女にも、そのほうが親しみを持ってもらえるだろう。
「ビジュアル」としても、文中から人名が浮き上がり、文面が「白く」なる効果を期待した。

主人公は平凡な少年と決めていたので、少女は大富豪の令嬢として、コントラストと多様性から物語や経済の論点を広げやすい配役にした。
顧問の先生を2メートルの長身としたのは登場シーンを書いていたときのただの思い付き。アタマがドアの枠からはみ出るようなオジサンに主人公がびっくりする、という変な登場シーンで興味を引こうという、いわば「つかみ」のためのキャラ作りだった。極端な容姿の方が教室内の講義という地味な設定に変化が生じるという計算はあった。
そのとき浮かんだのがジョージ・マイカンという黎明期のプロバスケの名選手だったので、後々、外国人かハーフってことに話が展開するだろうと漠然とイメージした程度だった。

「筆任せ」のキング方式

こんな調子で、登場人物たちの設定は筆に任せてその場その場で決めていった。書く前にあったのは、教室の風景、「僕」は希望のクラブに落ちてうんざりしていること、そこにバカでかい顧問の先生がやってくる、という冒頭シーンの設定のみだった。「そろばん勘定クラブ」というネーミングさえ、カイシュウ先生が「そろばんクラブ」と板書してから思いついた。

こうした書き方をしたのは、スティーブン・キングの「書くことについて」という本の影響が大きい。

書くことについて Amazon

「小説作法」というタイトルだった単行本のときから何度も読み返している愛読書だ。原題はOn Writing。少し引用してみよう。

最初に状況設定がある。そのあとにはまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。

キングはこの小説指南書のなかで、ストーリーとキャラクターの動きを縛るプロットを「粗暴で、無個性で、反創造的」な削岩機にたとえている。キングにとってストーリーテリングは、地中に埋もれた化石を掘り出すような繊細な作業だという。
キングによれば、小説に必要なのは、

1 物語を一歩ずつ進める叙述
2 リアリティを保つ描写
3 登場人物に生命を吹き込む会話

の3つの要素であって、プロットは無用の長物と切り捨てる。それは登場人物を書き割りのようなものにしてしまう、という考え方だ。

無論、「これが正解だ」というつもりはない。だが、前述した家庭内連載第1号の童話「ポドモド」でキング方式を試したところ、ぐんぐん書き進められるだけでなく、書いている自分自身が先が読めないという面白さを実感した。

「おカネの教室」でも期待通り、いや期待以上に、キャラクターたちは自由に動き出し、ストーリーは思いもよらない方向へと進んでいった

今回はこの辺りで。次回は「勝手な人々」です。

おまけに、「書くことについて」から、大好きな個所を引用しておきます。
6歳になったキングは、自宅にあった戦記物のコミックを模倣して読み物を書き出す。それを見せると、母はこれまで見たこともないような驚いた表情をみせたあとで、「これはオリジナルなのか」と聞く。キングが模倣だと認めると、母は言う。
「スティーヴィー、お前ならもっといいものが書けるはずよ。自分で書きなさい」

私は覚えている。母の言葉に無限の可能性を感じたことを。豪壮な邸宅に通されて、どのドアをあけてもいいという許可を与えられたようなものだ。そこにあるドアの数はひとが一生かかってもあけられないほど多い。そのときも、いまも、私はそう思っている。

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