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【初投稿】 「我−汝」と「我−それ」

メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。
これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうに違いない。
このことは、わたしが〈なんじ〉と呼ぶひとの場合にもあてはまる。
わたしはそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。
しかし、そのひとはもはや〈なんじ〉ではなくなってしまう。

『一日一文 英知のことば』木田 元編 『我と汝・対話』植田重雄訳、岩波文庫、一九七九年 

『我と汝』


Wikipediaから引用:マルティン・ブーバー

マルティン・ブーバーとは?

1878年、ウィーン生まれのユダヤ系哲学者。この『我と汝』を書いた人。
3歳に母が突然の失踪し、大地主の祖父母の家に預けられる。祖父は偉大なユダヤ系の学者で、祖母共々に高潔な存在として、地域の存在を集めていた。独特な教育方針があり、10歳まで学校には行かせず家庭教師によって教育を受けていた。それによって、11種類の言語を話せるようになったという。その後はレンベルク(当時はオーストリア領)に転居し、イマニュエル、カント、ニーチェ、キュルケゴールなどに親しむうちに哲学に勤しんだ。
当時盛んだったシオニズム運動(イスラエルをユダヤ人の手によって取り戻そうという運動)に参加するものの、ハシディズム(ユダヤ教の中でも最も敬虔な考え方をする人たちで、黒い帽子、黒いスーツ、長い髭が特徴)に興味を持ち、その研究に没頭する。その最中で『我と汝』を上梓する。

『我と汝』って?

マルティン・ブーバーは世界を「我−汝」、「我−それ」という二つの世界(関係性)に分けました。
・「我−それ」
まず、人は〈わたし〉という起点があって世界を捉えています。
〈わたし〉とそれ以外のヒトやモノがある、という関係です。
例えば、〈わたし〉と〈友達〉、〈わたし〉と〈恋人〉、〈わたし〉と〈学校〉、〈わたし〉と〈仕事〉などだと思う。
しかし、マルティン・ブーバーはこのような世界観(関係性)に疑問を投げかけました。〈わたし〉が起点から始まる世界観(関係性)を「我−それ」と呼び、〈わたし〉と〈それ〉にはどこまでも別々のものじゃないかと。
・「我−汝」
一方で、「我−汝」というのは〈わたし〉と〈あなた〉という世界(関係性)で成り立っている。
例えば、〈自分の名前〉と〈その人の名前〉、〈自分の名前〉と〈無数にあるモノの中から今目の前にあるモノ〉などだと思う。
〈〉の中に名前を当てはめてみたが、つまり自分自身そのものとあなた自身(モノなら今目の前にあるモノ自身)の関係。
これらの関係は、出会い、呼びかけ合い、話し合うことで成立できるもの。
「我−それ」では、ゲームの世界のようにあらかじめ設定された世界、組織、人のように、〈わたし〉起点だと受け身で都合の良い部分だけを選んでしまう危険性があるのかもしれない。
だから、「我−汝」=〈わたし〉と〈あなた〉という世界観(関係性)では、〈わたし〉というのは、今までの境遇で得た考え方、容姿などで存在している。〈あなた〉も同じように様々な要素で成り立っていて、今目の前にいる。
様々な要素を「対話」という形で、〈あなた〉に〈わたし〉の世界を、〈わたし〉に〈あなた〉の世界を知っていくことが、この世界(現実)を理解していける手段なのではないか、と言っているんだと思う。(たぶん)

最後に

僕は一人暮らしを始めてから一年ほど経ちました。人見知りの性格から、最初は一人で自由に生活できることに快適に感じていました。
人間関係も、人との関係というのは自分で都合の良い関係だけを選んでいるように思えました。例えば、リモートワークで同期、先輩、クライアントに会わずに仕事をする、無人レジを使用して会話をしない、など。
自分の都合の良い関係って確かに悪いものじゃないのだけれど、このままいけば、どこか冷たい世界で終わってしまうんじゃないかと思ってしまいました。
自分のことを相手に伝える、相手が何を思っているのかを知る。「対話」というのは、正直怖いし、めんどくさいけど、それから目をはぐらかせないで向き合えば、暖かい世界(未来)が築けていけるんじゃないか、と思いました。

noteに何を書けばいいか分からないなか、選んだネタが難しすぎました。
軽い感じで調べたマルティン・ブーバーという方は、「ちょっとした」では収まりきれないほどの偉人だったことにも驚きました。
浅はかな知識で調べたものですので、解釈違いとかがありましたらすみません。ですが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

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