『理化学研究所三代目所長, 大河内正敏とは何者か?』
理化学研究所は, アメリカで化学者として成功した高峰譲吉(アドレナリンの精製などで成果)が渋沢栄一らに「国民科学研究所」の構想を伝えるところから始まった. 1917年に多くの事業家や貴族からの寄付金などで設立に至った. 理化学研究所は純粋科学の追求のための研究所. いうなれば自由な発想ですすめられた『科学者の自由な楽園』(朝永振一郎)である.
高峰が参考にしたのがカイザー・ヴィルヘルム協会(マックス・プランク研究所の前身)とされており, この研究機関もまた自由な発想で科学ができる場所だったとされている (山嶋, 2001, pp. 138). アインシュタインも化学・物理学研究所長を務めている(在位期間: 1917-1933). しかし, その後アメリカに亡命し, プリンストン高等学術研究所の教授に就任している. 同時代の研究所などは以下で確認できる.
日本を代表する物理学者である朝永振一郎(1906 - 1979; 1965年ノーベル物理学賞受賞)をして「科学者の自由な楽園」と言わしめた理化学研究所の実態はどのようなものだったのだろうか?
それを知るために, 戦前の理化学研究所の経営について調べた. 特に3代目所長 大河内正敏 (1878-1952)が, 在任期間25年(1921-1946)と最長であり, 後世に強い影響を与えた, 歴史的にも興味深い人物であることがわかった.
経営方針や経営思想をともに解明することで, 我々は「科学者の自由な楽園」を改めて復活できるのかを考えなければならない.
重要な参考書として, 『大河内正敏―科学・技術に生涯をかけた男 (斎藤憲. 2009.』と『科学者の楽園」をつくった男:大河内正敏と理化学研究所 (宮田親平. 2014.)』を挙げている.
これらの書籍は, それを知るには重要な資料でありこのnoteでも主にこれらの書籍から引用をしている.
最後に, 研究所の経営というところで少し議論したい.
(追記:2021/03/24 ちょうど大河内正敏の理化学研究所の所長就任100周年だと今日気づいた.)
大河内正敏とは何者か?
大河内の祖先は, 松平信綱である. 松平家は, 元来大河内姓であり, 分家した上総大多喜(かずさおおたき)の生まれである大河内正敏は, 吉田の大河内家に養子となっている.
学習院で学び, 大正天皇とは学友であり, 宮中にも訪問している. 明治天皇のお膝に乗ることもあったという (宮田, 2014, pp. 86-87).
1900年に東京帝国大学工学部造兵学科に進学し, 1903年に首席卒業し, すぐさま専任講師となっている. この時造兵学科を選んだ理由として,
とされている. 専任講師になるあたりでドイツ留学をし, 兵器製造を専門とする造兵学を学び, 日本における造兵学の近代化を進める. その後, 20年間1925年に教授職を辞任するまで, 火砲構造理論, 砲外弾道学などを講じていたとされる.
1910年ごろには, 物理学者・随筆家である寺田寅彦(1878-1935)とも弾道飛行の実験を行ったともされており, 2人は旧知の仲だったようだ.
斎藤 (2009, pp.34-39)によれば, 大河内による造兵学への貢献は主に3つであるという.
1. 学会の創設 (火兵学会): 造兵学と火薬学の研究者を集めて設立したとされる.
2. 日本の造兵学の近代化: あるいは再現性のある科学として昇華させたと言っても良い. ドイツ留学はその契機となったのだろう.
3. 造兵学または工学への物理学の導入: 1918年には, 造兵学の学生に物理実験の履修を必須にしたとされており, 日本の近代的造兵学がようやくここで科学を基盤とした体制として成立したと考えるべきだろう.
これらにあるように, 大河内の造兵学への貢献は大きい.
さらに, 彼の興味は単なる造兵学の域を超え, 工業論にまで到達している. その例として, 造兵の最大の資源は工業であり, 戦争の結果は工業力で差で決まるとの見解も紹介されている(斎藤, 2009, pp. 39).
当時は戦争が頻繁に繰り返されており, 国の教育レベル, 工業レベルが全て問われる総力戦が求められる. その備えから今後は重化学工業を進めていかなければならないという大河内の思考の片鱗が見て取れる.
特に, 造兵学への物理学の導入を見てもわかるように, 大河内は科学をその基礎づけに最も必要なものだと理解したのだろう.
ちょうどこの時1914年に, アメリカで止血薬として有名なアドレナリンの精製等を成功し財をなした高峰譲吉(1854-1922)が渋沢栄一らとともに独創的工業を生み出すために自ら科学研究を追求する『国民科学研究所』が必要であると訴えている (ここの経緯については別に執筆予定). この国民科学研究所が1917年に, 財界人らの寄付を受け, 財団法人理化学研究所(本郷駒込, 戦後に和光に移転)として設立される.
重化学工業の発展を強く説いた大河内が, 不遇な状態にあった理化学研究所の所長に就任するのは, 1921年42歳のときである.
重工業の発展の基盤を理化学(=科学)に求めた大河内が任されたのは, ある意味必然だったのかもしれない.
大河内は, 理化学研究所の三代目の所長として登用され, 様々な改革を断行している. その一つに理化学研究所の特許を利用した子会社を次々と設立し, 理研コンツェルン(産業団)を作り, 研究資金源を確保している.
理研の快進撃はここから始まった.
大河内正敏の研究所経営
大河内は1921年の理事会で推薦され, 財政再建と研究体制の確立を任された.
最初の研究総会では, 事業費を毎年30万円に制限し, 10年間は研究を実施し業績を上げるという指針を出した.
しかし, 事業費計画は彼の打ち出した改革によって破られることになる.
大河内正敏が最初に断行した理化学研究所の改革は主に3つあるとされている.
1. 部門制の廃止
2. 主任研究員制度の導入
3. 研究テーマの自由化
である.
1. 部門制の廃止
物理部, 化学部と別れていた部門制は, 初期の予算の配分対立の原因だったとも言われている.
化学部が, 設立当初にドイツ王立式の研究環境を導入したため,物理部の長岡半太郎はトイレもない物理棟を建てたという逸話が残っている (宮田, 2014, pp. 68-69). 部門ごとに予算を決める方法は, 立場の対立を悪化させたのかもしれない.
2. 主任研究員制度の導入
部門制の廃止とともに, 人事や予算の決定権を主任研究員に持たせることを行ったのも大きな成果だったと言われている.
大河内は, 研究室ごとに予算を割り当て, 研究室の長となる主任研究員はこの予算内で研究員の給与と研究費を捻出する形になっている. 定員もないため, 自由裁量で研究室ごとに使い方が決められたとされている.
研究者に自己管理させることで, 必要なものを整え, 何人人員をもつかを決めさせることができる.
3. 研究テーマの自由化
また, 研究テーマも自由にさせたことも大きい. 研究室ごとのテーマは決めることはせず, どのようなテーマ(物理研究者が化学をやることも, 化学研究者が物理学を研究を研究することも)もよしとしたとされる (宮田, 2014, pp. 68-69).
お金がかかる研究に対しても資金供給を惜しまなかったとされており, 予算が赤字になることの多かった研究室にも多くの資金が投入された. たとえば, 日本の近代物理学の礎を築いた仁科芳雄研究室は, のちに朝永振一郎博士や湯川秀樹博士などを輩出しており, 研究の最先端だったということがわかる.
研究が早く進むための整備にはお金を惜しまず, 一度テーマが決まったら常にベストな方法を探求させたという. これは発想は自由だが, 運営は放漫ではないということを示している.
これが, ノーベル賞受賞者である朝永振一郎をして, 『科学者の自由な楽園』として言わしめた経営である.
これらの自由な予算編成のため, 1923年には, 予算が90万円として事前の予定の3倍になってしまったとされている (宮田, 2014, pp. 100).
この財政状況の最初の救いになったのは, ビタミンAの精製の成功と言われている. のちに理研ビタミンとして売られることになる製品は, オリザニン(ビタミンB1)の発見をした鈴木梅太郎研究室の高橋克己 研究員がタラの肝油からのビタミンAの抽出を担当した.
高橋研究員は, 1922年には抽出に成功しており, これが結核に効くという触れ込みで高い需要があったようである.
大河内は生産体制を強化するために工業化を鈴木研究室に担当させることにした. 当初, 鈴木梅太郎は三共にやらせたいと考えていたようだが, 量産体制には3年かかるということでは遅すぎたのだろう. 実際に工業化は4ヶ月で完了し, 高価格(36錠入り2円, 90錠入り5円)で販売を行った. 純利益で, 30万円ほど売れ, 1924年には理化学研究所の作業収入の8割が理研ビタミンだったようである.
その後も, 研究成果の特許をもとに, 次々と事業を起こし理研コンツェルンができていく.
ここで紹介した理研ビタミンは株式会社として分離され, 現在でも上場企業として残っている.
特許と最盛期の経営状態
ここでは, 具体的に経営状態について記していく. 本当はここがこのblogにおける最も重要な部分と考えている.
いくつかの情報を見ていこう.
まずは特許件数である (表3-1 理化学研究所特許権累計数(斎藤, 2009, pp. 69)の数値を元に図を作成). 1921年以降研究所が整備され, 太平洋戦争に突入する以前には, 500件を超える特許を保有していることになる.
1922年の定期評議会の議事録では, 特許権を第三者に譲渡する際の取り決めについて発明者と理化学研究所の関係性示すものがあり, 初期の段階で特許権の譲渡に関する規程し, 工業化の足固を進めているところがある (斎藤, 2009, pp. 77-83).
理化学コンツェルンの開始は, 理化学興業 (現在のリケン)ではなく東洋瓦斯(がす)試験所(1925-1927)にあると斎藤は指摘している (2009, pp.89-91).
同所は, 工業化試験を実施する試験場であり, そこで生まれた乾燥剤・除湿剤「アドソール」によって黒字に転換し, 同所は理化学興業設立に伴い事業継承が行われた. この背景として, 公益を目的とした財団法人としての実体を守るために理化学興業設立は重要だっとされている. その後, 理化学興業は工業試験が成功していたった製品をもとに子会社化し, その持株会社としての色を強くしていく. これが理研コンツェルンの形成の始まりである.
全てを網羅することは主旨ではないので, 工業化されていった一部を紹介する. 航空機に使用するための金属マグネシウム の工業化, エンジンが効率よく動くために必要なピストンリングの工業化などが代表例である (これらは山本五十六からの要請があったようである. (斎藤, 2009, pp. 105)).
理化学興業を中核として,1939年には63社と言われる一大企業集団(理研コンツェルン)が形成された.
斎藤 (2009, pp.109-165)が詳しく述べているが, 徐々に企業数が増えるに従って, 発明の工業化以外の側面を強くした会社も出てくる.
富国工業(1936年設立)と呼ばれる会社は, 理研コンツェルン諸会社の持株の売買の援助を担当している. 理研各社の販売・購買機関になったのは, 『浪速機械商会』, 『浪速機械三河島製作所』,『浪速機械京城製作所』の3社であったが, 資本金(20万円)もあまり大きくなく, その役割は十分に果たせなかった.
他にも, 宣伝機関として『科学主義工業社』と『理研科学映画』などもあり, 理化学研究所を下支えする科学主義を広める広告機関として機能を目的としていた. 『科学の殿堂』は, 1942年に制作された映画である.
このような文化と産業団を作り上げた大河内正敏は, この頃には科学主義工業論を根幹にした思想を作り上げていた. その内容は科学的検証を基盤にした工業の発展である.
科学に立脚した工業論を唱えた大河内正敏だが, その目的は戦時下での大量消費を支える工業力を身につけるためであり, 最終的には利益を度外視することも厭わない姿勢があった. これが, 採算のつかない事業もいくつも作り上げてしまった側面はあるだろう. また彼自身も造兵学者という経歴から軍との関係性が強く, 積極的に戦争を支援していった節がある.
最後にこれらの理化学研究所の収入(表3-2と表6-1 理化学研究所特許権累計数(斎藤, 2009, pp. 82 & pp. 174)の数値を元に図を作成)を見ていこう.
作業収入繰越が急激に上昇するのは, 1923年からであり, 理研ビタミンの影響と言われている. 1926年に作業収入繰越が最大を迎えるが, 理研興業の影響のためかその後は徐々に減っている. そして, 理化学研究所自体の収入ではなく, 理研コンツェルンの特許権実施による報酬が1935年以降大きくなっていく. この大幅な収入は理研コンツェルン諸会社からの上納金である. また, 長い間国からの支援は25万円で一定であり, 100万を超える収入の中にあってはそれほど高くはない.
斎藤 (2009, pp. 162-165)が指摘している理研コンツェルンの脆弱な体質には2つのポイントがあった. 特許料等報奨契約と高配当政策である.
研究費を賄うために, 理研コンツェルン諸会社から多額の特許料を吸い上げていることと, 配当金の率も高く諸会社が拡大するための余力を奪ってしまうことにも繋がったとしている. 1940年には配当の比率を8%にすることが決められ, 理研コンツェルン諸会社の株価は大幅に下落したとされている. このような体質ゆえ軍からの受注に頼らざるを得ない状況にもつながっていく. しかし, 1941年以降については記録がなく実態がどのようなものだったかは窺い知れない.
栄華を極めた理化学研究所もこれらの産業団も戦争の只中にあって, 徐々に軍からの受注が増えた. 国家のために工業力を充実させる目論見があった造兵学者大河内正敏の思想が軍産業の拡大と共鳴し急激な産業団の拡大がなされることになる.
研究所の実態は「自由な楽園」から徐々に外れてしまう.
戦前の理化学研究所の終わり
簡単にしか触れないが, 日中戦争を経て理化学研究所は戦争への参画を強いられることになる. 特に, 1942年ごろから「原子核物理の兵器応用」に関して海軍から諮問を受け, ウラン爆弾の作成に関する二号研究が開始することになる (宮田, 2014, pp. 301). 結果, 原子爆弾は未完成に終わった.
そして, 1945年原子爆弾が広島, 長崎に投下された.
仁科はその爆弾が原子爆弾なのかどうかを確かめるために長崎, 広島に赴いたようである. 終戦後, GHQにより, 混乱の定中にも仁科が大事にしていたイオン加速器であるサイクロトロンは海に投げ捨てられたとされている.
さらに, 大河内は戦争の戦犯として拘留されることになる. そして, 理化学研究所は, 財閥解体の一環として過度経済力集中排除法に触れるということで解体されることになった. 理研産業団の株式を集中的に管理する持株会社として見做されたからである. また, 戦争を産業の側から支援したとGHQにみなされたということはあるだろう.
これにより大打撃を受けた理化学研究所は, 産業団の後ろ盾なく再建を余儀なくされた. 理化学研究所の再建に尽力したのが仁科博士だとされている.
資金の後ろ盾なく困り果てていた仁科に, GHQ経済科学局科学技術部長のケリー博士は高く同情されて, 第二会社を作るように進めたとされている. 1948年には株式会社 科学研究所が発足し, 財団法人理化学研究所は消失した.
その後もケリー博士との親交は続き, アイソトープのアメリカからの輸入に協力されたとも言われている. そして, 遺骨も仁科の墓に分骨されている.
その後, 仁科はペニシリン販売で乗り切るために奔走し, 生産に漕ぎ着けている. 莫大な販売高をあげたとされている. 残念にも1951年に仁科は肝臓ガンで亡くなってしまったが, 生前から結核治療薬のストレプトマイシンに注目しており, 1950年には量産を開始したとされる. この頃, 残された研究者たちは資金集めに奔走するが, 結局研究員の給料や研究費の負担増をカバーしきれず経営破綻にまで陥る. ここで『科学者自ら稼ぐ科学者の自由な楽園』は, 純粋な研究機関として再出発することになる.
1958年には「理化学研究所法」が制定され、特殊法人「理化学研究所」として新たに発足. 初代理事は物理学者長岡半太郎の息子であり, 三井物産の重役である長岡治男が引き継いだ.
この"ベンチャーの源流を探る"ではその経緯が描かれている.
2003年には独立行政法人化, 2015年には国立研究開発法人となり現在に至る.
議論
大河内正敏の経営思想あったのは, 国家を支える重工業の開発とその補強であった. 一方で彼が行った研究経営は, 現代における管理型方の経営とは異なり「自由」な方法であった.
研究においてはこの自由な方式こそが, 最善だと考えていたのだろう. また, 「自由であるからこそ, これまでの方式の枠から外れた方法をみつけてくる」という思惑があった.
つまり, 「自由な研究の運営」は, 放漫ではなく経営の戦略であったと言える.
国を支える知識の資源を独自に開拓する研究所として十分その機能を果たしたと言えそうである.
しかし, 研究所を支えるために理研コンツェルンが過度な資金提供を行い, 理研コンツェルンの各支社が疲弊していったところも見逃せないポイントである. 私は彼自身の造兵学者としての出自がそうさせているが, 研究所を支えるために事業拡大を行いすぎた(=スケールする)ことで, その軋轢が他のところに露出してしまったと考えるべきであろう. 彼の科学主義工業論が, 軍産拡大の論理と共鳴しすぎた結果ではないだろうか.
我々が学ぶべきレッスンとして, 研究所の経営には, 事業形態によって最適な規模感がある可能性があると思っている. 大きくしすぎないことも重要な経営的な判断である. 理研コンツェルンの場合は, 戦争への参加のためにやむなく事業を拡大したという節があるが, 事業拡大が良かったのかどうかは再度検討されたい.
別の機会で詳述したいが, アメリカの大富豪カーネギーやロックフェラー、スタンフォードなどがそれぞれ大学や研究機関を設立し, 国の産業を大きくしていった中で, 高峰譲吉は日本で国民科学研究所の設立に奔走したが, その経営規模に関して我々が批判的に再検討する時代になっていると思う.
例えば, アメリカの基礎科学研究所で有名なプリンストン高等研究所 (Institute for Advanced Study (IAS), デパート事業で財を成したバンバーグ兄弟によって1930年に設立)は設立以来, 大規模な増築はされおらず小規模を維持し続けている. これがなせるのは, 彼らが小規模で運営するために資産運用を長期で行っているからではないかと考えているが今後の課題としたい.
また指摘しておかなければならないところとして, 理化学研究所は, その生まれから, 国を支える知識の資源を独自に開拓する研究所として設立された. 似たような構造をもつ研究所として, イスラエルのワイツマン研究所 (1932設立; 初代大統領であり所長であるワイツマン自身も化学者である)がある. ワイツマン研究所では, 技術移転機関 (Technology Licensing Organization, TLO)としてyeda という組織を抱えており, 特許管理を少人数(20名弱)で運営している. イスラエルは, 研究所以外の外に起業を促進するための環境を作り上げており, 技術移転に積極的な集団を作り上げている.
これに関連して, 大河内正敏は, "日本においては特許を売却してもそれで事業を起こせる人がおらず無駄になるため, 自分たちで事業化する"というような趣旨の言葉を残していた. この部分は現代にも通用するような言葉だと思っている.
日本における企業連携がうまくいっていないという指摘も多々あり, それは共同研究契約を少額で請け負ってしまうというところにもある (『搾取される研究者たち』に詳しい, 50万円で請け負うところもあるようだ. アメリカでは最低1000万円で譲らないというところも多いと聞く). 実際にTLOで働いている方かも同じような指摘を伺った. ここら辺の経営感覚を磨くのも重要である.
高峰がそうしたように, 研究者はそれぞれの方法で自衛(自営)していくことが必要な時代である. それが今後試されるのではないかと思っている. 何人かの科学者はもう一度事業家である精神をもって, 自分の研究を世に問うということも増えていく必要がある. 徐々にそのような機運が出ていると思うがまだまだ足りないと思っている.
このような方法を成立させるための具体策を今後自分なりに社会に提案したい. だが, 一つである必要はないと思っている. それぞれがそれぞれの方法で提案して欲しい.
現実的には高額寄付をベースにした公益財団法人で機関設立がありうると思っている. 私もうまくいくという確信があるわけではない.
他にも経営と研究所という裏テーマで書いている, 以下のnoteも注目していただけるとありがたい.
科学者の楽園を再び日本に再建できるかは科学者自身の手の中にある.
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