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素人による素人のための憲法論4 - [日本国憲法の問題4]

その国の歴史と憲法そして「死者との民主主義」

我々国民すなわち大衆目線で見る限り、民主主義に勝る政体は無いように思います。
理想的に言えば「一人は皆のために、皆は一人のために」と言うことです。これは孤独には生きていけない人間にとっては欠くべからざることです。「俺は一人で生きることに嫌は無い」とおっしゃる方がいても、それは社会の中にあって「孤独を選んだ」ということに過ぎないでしょう。人にとって社会(インフラも含む)無しに生きることはとても困難なことに思えます。
立憲民主主義という言い方には実は矛盾があります。民主主義とはいまを生きている人達の多数決で物事が決定するシステムであり、立憲主義とは多数決とは関わらず「してはいけない」を規定している可能性もあるからです。

日本国憲法の始めに「われらとわれらの子孫のために」という一文があり、第3章国民の権利及び義務の第11条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」とあります。
傍線の部分は憲法では現在を生きる我々のみではなく未来の国民に対しても保証しているのであり、それは「過去を生きた者たち(死者)の思考を取り込みつつ現在と未来を考え行動せよ」と言っているように聞こえます。

スペインの哲学者オルテガは主著「大衆の反逆」の中で「大衆が社会的中枢に躍り出た時代」にあって民主制(民主主義)が暴走するという状況を強く危惧しています。民主主義の前提とは「自己決定権を持った主体」すなわち個々人が自己決定権を持ち行動すべきという近代ヨーロッパ的な考え方であって、それこそが自由(他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること)ということでありとても大切なことのように思えます。しかし、何事もない平時であればともかく、今回の新型コロナ肺炎でのパンディミックに至る有事ともいうべき状況下で何が起きたのか言えば、我々個々が自由勝手に振る舞いさらなる状況の悪化を招来しているということです。

小池都知事が「ロックダウン」に言及した途端にスーパーの棚から食品・日常品が消えていく、それを見た人はさらなる不安に襲われ我も我もと買いあさる。結果的には必要な所に必要なモノが回らなくなり社会的な機能が損なわれることになるわけです。F・ルーズベルトの言葉ですが「我々が恐れるべきは我々自身の恐怖」であり、それに促される身勝手な行動ではないでしょうか。
自己決定権の対局にパターナリスティック(国家が個人の利益を保護するために課す、自己決定権に関する制約)があります。語源的には「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている」いわば親父・おふくろの小言のようなものかも知れません。憲法という崇高なテーマに対してお前は何という言い草か! とお叱りを受けそうですが憲法を私のような大衆レベルに落としてみない事には「憲法は私たちのものだ」とは言えなくなってしまうと考えます。

再び、オルテガに戻ります。現在は過去の人々の失敗と成功の体験を通じて構築されたものです。我々、日本人は日本の歴史に立脚して日本人的であり、決して欧米人でもなく地球人でも無いと思うのです。グローバル化とは世界を均一化することではなく、世界の中で見た日本の立ち位置や文化の相対価値を明確にして、世界と対等に対峙していくことです。グローバル化を我がものと捉えようとするとき、日本人的に把握していく必要がありそこにこそ新たな可能性があり革新性のある視点が得られるのでは無いでしょうか。ですから、オルテガの言う「過去から受け継がれてきた、生活に根付いた人間の知」いわば、我々の父祖の思いを繰り込んだ憲法のあり様を考えて見たいと言うことです。
さて、現「日本国憲法」の問題4とは現憲法は世界的理想という観点で欧米思考と英語で草案が成されてり、日本語としての読みづらさがあること、日本の歴史・文化・伝統的視点・思考が織り込まれていない事だと考えています。
如何でしょう。ご意見・ご叱責を賜れば幸いです。

次回は「日本国憲法」の問題5

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