「日本国憲法第1章天皇」について「第3回」

日本国憲法と国の歴史と文化と国民と天皇制
こんな小話があります。世界各国の人々が乗った豪華客船が沈没しかかっています。しかし、乗客の数に比べて脱出ボートの数は足りません。船長は、何人かの乗客には海に飛び込んでもらう他ありません。そこで船長が乗船客に向けて言葉を発しました。
「ここで自ら海に飛び込めばそれが本物のヒーローだ」と言った瞬間、アメリカの男たちが一斉に海に飛び込みました。次いで、「ここで海に飛び込む奴が女にもてる男さ」と言うや否や飛び込み始めたのがフランスの男たち、ドイツ人に対しては「規則ですので海に飛び込んで下さい」で済む。そして、「皆が飛び込んでいます」の一言(!)で一斉に飛び込み始めたのは日本人。
 さて、この「皆」とは何だろう。「皆」では誰のことかも分からない。
 日本人の言う「皆」と「空気」は他の国の人には分からなことの一つではないでしょうか。
 しかし、我々日本人の多くが今回のコロナ感染における政府の緊急事態宣言に対して「皆」が自粛するのだから、自分もと思ったはずです。宣言の発令後は欧米のようなロックダウンや罰金・罰則も無いなかで、感染者数も死亡者数も他国に比べて際立って減少していきました。これは、社会(社会は皆により構成されている)に対しての日本人の特性として優れた道徳性を持っていたからだと思います。
 この極めて日本的と言ってよい「皆」という意識は日本の歴史・伝統に培われた文化性の一つと言ってもよいのではないかと思います。
 日本の歴史・伝統そしてそこから形づくられた文化を考えたとき天皇制という歴史を考慮しない訳には行かないと思います。
 日本書紀の記載を見れば初代は神武天皇であり今年2020年は皇紀で数えれば2680年になります。天皇制は日本神道とわかち難く結びついており、神道は典型的な「アニミズム」であり、自然界の全てに「神宿る」ということで、そこから八百万の神々という考え方が生まれたのではないでしょうか。天皇制の根幹にはこうした自然界の全て=「皆」に意識と気持を寄せるべきと言っているような気もするのです。皇室に伝わる三種の神器の一つに八咫鏡(やたのかがみ)があります。この鏡に皆(国民全員)が映るという言い伝えがあるのです。もちろん、三種の神器は誰も見たことは無いのですが。天皇と皆が日本的な華道、茶道、剣道といった様式美と正直、清明、道義的、闊達の道徳的精神を形づくったのだと考えたいのです。
 何が言いたいのかと言えば、天皇制は我々日本国民の規範であり国家としての統合の象徴に足るものであり、敗戦に伴う日本国の歴史・伝統・文化の否定の中にあっても決して崩れなかったことに日本人は安堵しているのです。
 敗戦の気持覚めやらぬ昭和22年、日本の哲学者和辻哲郎は佐々木惣一博士の所論に対する反論の中で新憲法下における天皇について「国家が分裂しても国民の統一は失われなかった」とし、天皇制について「かく考えれば天皇が日本国民の統一の象徴であるということは、日本の歴史を貫いて存する事実である。天皇は原始集団の生ける全体性の表現者であり、また政治的には無数の国に分裂していた日本のピープル(皆)の〚一全体としての統一〛の表現者であった。かかる集団あるいはピープル(皆)の全体性は、主体的な全体性であって、対象的に把握することのできないものである。だからこそそれは〚象徴〛によって表現するほかはない」としています。
 日本国憲法の草案策定にあたったケーディス大佐等の天皇は「Symbol(象徴)」であるとした見解は実に当を得ているという他ありません。そして、その象徴天皇こそが真理であるが故にそこにしかたどり着けなかったのかも知れません。
 私自身にとって第一章に「天皇」がある事は誇らしく感じています。しかし、昨今は日本人的美質が失われつつあると危惧させる場面も少なくありません。もう一度、国の政治と国民精神の基底とも言うべき憲法をそれこそ皆で読みそして考えてみたいですね。

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