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素人による素人のための憲法論3 - [日本国憲法の問題3]

肥大し歪み拡散する「主権在民」そして民主主義と多数決

「あなたは日本という国(国民・歴史・風土)が好きですか」と問われたらどう思いますか?
「お前はどうなんだ」と言われると「好きな所もあるけれど嫌いな所もあるな」としか言いようがありません。でも、日本人である事は確かだし「嫌い」と言った時には日本的観点から「嫌い」だと言っているように感じます。
平成7年の阪神淡路大震災そして同23年の東日本大震災と、未曾有といってよい災害に見舞われましたが、被災した方々の他を慮る秩序ある振る舞いに世界が目を見張ったことは記憶に新しい。そのことで、良い日本、好きな日本、誇れる日本を実感した事は確かです。しかし、その一方、ことに最近になって、わが目を疑いたくなる事件・事象が相次いでいます。新型肺炎の感染が広がる中でマスクを買い占め高値で売り抜けようとする者たち、何ら根拠もなくマスクとトイレットペーパー・ティッシュペーパーは同一の素材で品不足になるとSNSに無責任投稿する者、それに同調して煽る者。甚だしきは分別のあるべき年配者のコロナ感染者が、コロナウィルスをまき散らしに行くと公言して憚らず行動する。勝手な人権を振りかざし他の迷惑は顧みない。これが憲法上に認められた主権者の姿だとすれば情けないばかりです。肥大化した「自分の都合と言い分」からなる勝手な人権がネットを通じて拡散し世論はさらに歪んでいく。ネット・リテラシー(情報選択能力)を持たぬ多くの人達が、フェイク(意図的な嘘)や勘違いに基づくネット情報に踊らされるようになり、現実世界を歪んだものにしてしまっているような気がしてなりません。
先にも上げましたが日本人の美徳として「惻隠の情=相手を思いやる」「謙譲・謙遜」を上げることができます。私なんかでもここから外れる人や事象は「嫌」に映ります。ネット・リテラシーといった時にこうした日本的心性が分別の基にあってよいように思います。
憲法とはその国なりの心性、それを形づくった歴史・風土・言語性を組み込むことで国民の生活の基底となるべき筈のモノだと思うのですが、日本国憲法は世界的理想というグローバリズムが中心であり、過半であることが問題に思えるのです。

日本国憲法 第3章「国民の権利及び義務」

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。
続いて、第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。となっています。しかし、我々の脳裏には「主権在民=主権者は我、そして人権は我にあり」の身勝手な解釈がまかり通ってしまっているような気がしてなりません。これも我々が「国民の権利及び義務」に関して、心底望み勝ち取ったものでは無いからなのかも知れません。とは、言うもの、12条は言葉を変えれば「個人の幸せは個々人が皆の幸せを考慮する中で機能する」と言うことであり、我々に「惻隠」と「謙譲」の気持があればそれは成されるということではないでしょうか。

整理してみます、日本国憲法の問題3はどこにあるのか。日本国憲法は世界的理想で構成されており、日本としての伝統・精神に対する顧慮が無いということです。他方、第一次世界大戦に敗戦したドイツで君主制が廃止され、新たにワイマール憲法が制定されました。同憲法には人権保障規定の斬新さがあり現代憲法への転換がなされ、その後に制定された諸外国の憲法の模範となりました。当時は世界で最も民主的な憲法とされ、第1条では国民主権を規定しています。しかし、それを衆愚政治と捉えたヒトラーの奇策により、ナチスの台頭を許した事も事実だと考えます。民主主義の限界は「一人一人が自分だけの都合を優先する利己主義であるとすれば、その多数決もまた利己的であり多数者の福祉には繋がらない」ということです。そしてそれは衆愚政治に落ちてしまいます。その国の歴史・精神性を無視した理想論の中に何か危うさを感じてしまいます。
我々本来の持つ優れて自然的な精神性を取り入れることが出来れば、憲法はもっと身近で活き活きとした大きな生活規範としても機能するのではないかと考えます。如何ですか。

次回は「日本国憲法」の問題4

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