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お店の話

若かりし日に名古屋のお店でバイトをしていました。夕方開店して夜10時まではトルコ料理レストラン、10時を過ぎると音楽のボリュームを上げて、BGMもトルコ音楽や喜多郎からボブマリーなどのレゲエへ移行し、ライヴもあるレゲエバーになって深夜2時ごろまで営業していたキャラバンサライという伝説のお店でした。90年頃の「るるぶ」という雑誌に紹介されているページにはマスターのような顔をしておいらの写真が載っていました。

大学を卒業し、イタリア留学資金を貯めることにしていた1年間はキャラバンサライのビルの上階にある本格派スペイン料理エルティポで料理の修行をしました。このビルはスペイン風の建物でエルティポのオーナーが建てたビルでした。最上階が住居でドームになった屋根が付いていました。当時は名古屋でNo.1だったスペイン料理屋さん。

キャラバンサライのバイト時代も、お店のまかないはエルティポと一緒に食べるシステムになっていたので、週に3回キャラバンサライの料理、4回エルティポの料理みたいに交互で作っていたと記憶してます。そういうわけで、名古屋最後の1年だけエルティポに移籍したけれど、スタッフはみんな既によく知っていた人達で、向こうもおいらがどのくらい仕事ができるか知っていたので問題なく料理の腕を磨き、貯金をしてミラノに出てきたのです。でもこの1年もなかなかに密度の濃い時間でした。元々トルコ料理屋で働いていたのである程度料理も覚えていたのだけれど、料理を教えてもらったジミーさんはそのお店の前には喫茶店をしていた人で、料理は自己流だからちゃんと料理の修行をしたとはない人でした。それで、スペイン料理屋で改めてちゃんとシェフの下で勉強し直すのもいいかなと思っていたわけです。

そうして働き始めたときには日本人シェフとスペイン人シェフの2人が料理をし、おいらはパエリアを焼く専門の立場で、最初にパエリアの焼き方を教わりました。そしてお客さんの少ない時間に料理の仕込みをするので、その下準備で材料を切ったりすることを手伝っていたのですが、おいらが働き始めて数か月後にスペイン人シェフが仕事の後、お店のBARに残ってお酒を飲み過ぎたようで、何を思ったかその日の売り上げを持って消えてしまったのです。とはいっても、そう簡単に消えられるわけもなく、翌日にはどこにいるか連絡がついて、お店に戻って謝っておカネを返しました。でもこういうことがあったので警察沙汰にはしないけれど、解雇されてしまい、おいらは急きょセカンドのシェフに昇格になってお店のレシピを全て伝授され仕込みから営業中の料理まで全般任されることになりました。おかげで、今はシロートの家庭料理専門ですが、家庭内の料理はなんでも割と手際よくこなせるわけです。

さて、どうやって働きだしたかは別のところに書いているので省きますが、ミラノに出て来てからはデザイナーとして仕事を見付け、結果的に長く在住することになりました。でも、この若かりし日の経験でお店での料理やサービスの仕事に関してもいろいろと自分なりの価値判断基準があり、おいらの気に入るお店が必ずしもネットで評価が高いということもありません。だからネットの評価への信頼は絶対的ではなかったりします。

前置きが長くなっていまいましたが、お店で体験したちょっとしたエピソードを思い出すままにいくつか書いてみようと思い立ったわけです。

その昔、独立前に働いていたデザイン事務所時代、一人でランチタイムに時々食べに行く超大衆的な古いトラットリアがありました。そのお店はちょっと奥まっている場所にあるので、観光客が気まぐれに入ってくることもなさそうなお店です。

15年以上前だけれど、当時は週に1度は食べに行っていたお店なので、その日も小さいテーブルに案内され、日替わりメニューからパスタと2皿目のお肉料理と付け合わせの野菜を注文し、1/4リットルの赤ワインも頼んで食事を楽しんでいました。ワイン込みで10ユーロだったはず。さて、お肉料理も大体食べ終わった頃に隣の席でやはり一人で食べていたおじさんが話しかけてきます。

「どう、美味しいでしょ、ここ。ああ、そう、よく来るの?うん、ここはいい店だからね。安いのに出てくる料理はこんな感じの新鮮な素材を使った健康的な料理ばかりだからね。イタリアはこうやって簡単においしいものが食べれるからいいよ。」
「そうですね。食事がおいしいこともおいらがイタリアに住むことにした大きな要因の1つですから。」
「でしょう。ね、いや、ホントにイタリアはどこの地方に行っても何を食べてもおいしいんだよ。」

おじさんはイタリア料理がおいしいことを肯定する外国人と話をしながらイタリア料理愛が溢れています。お店の人を呼んでおじさんはお肉料理の後のデザートを頼んでいます。でもメニューを聞きもしないで自分が食べたいものを頼んでいる。

「すいません、ああ、あのポレンタある?そう、じゃあポレンタにゴルゴンゾーラのせて軽く温めてくれる?ちょっとでいいよ、ちょっとで。でなきゃ溶けちゃうから。」

こうしてポレンタにゴルゴンゾーラをのせた一皿を嬉しそうに食べます。

「これがね、やっぱりミラノにいるとね、食べたくなるでしょ。こういうのが簡単に食べれるのがね、イタリアのいいところなんですよ。これがね、ちょっと外国に行くと、ドイツなんか行くと、みんな芋とソーセージばかり食べている。料理を知らないんだよね、ドイツ人は。毎日ソーセージ食べてる。」

一人で大衆的なお店で食べていると、こうして話しかけられることもあるのだけれど、このおじさんも、どのくらいドイツを知っていたのかははなはだ疑問ですが、とにかくイタリア料理愛に溢れる人とイタリアの料理について話をするのは楽しいものです。イタリアでは他の国の料理を褒める人はかなり少数派なので、まあ、イタリア料理、イタリアの地方料理の話を聞いておけば平和て楽しい時間が過ごせます。

さて、月日は流れ、一人でランチしに行くことが多かった別のお店に、当時おいらの事務所に来ていたインターンの若い人を連れて行くこともありました。インターンも若い男の子と女の子が複数いるときはただ一緒に食事をしておしゃべりしてお終いなのですが、一度その日がインターン最後の日の女の子と、その後にインターンに来ることが決まった女の子とおいらの三人でその時々行っていた、知ってるお店でランチで注文するときに、おいらとその日がインターン最終日だった女の子は飲み物にビールを頼み、新しく来ることになっていたトルコ人の女の子は「おばあちゃんから食事中は飲み物を飲むなと言われているから、食後に何か飲むから今はいらない」というので何も頼みませんでした。そうしたら、ウェイターがビールを3杯持ってきます。

「なんで?2杯しか頼んでないから多いよ。」と言うと
「いや、一人だけ飲み物がなかったからもう1杯持ってきたよ。これで乾杯もできるでしょ。この1杯はレシートには付けないから心配しないで。」と言うから
「あれ、おいら一人で何度来てもビールサービスしてくれたことなんてないのに、金髪の女の子が二人いるとなんか扱いが違うんじゃない?」
「いやいや、いつも大事なお客さんにはいつも一番のサービスしてますよ。」

そうやってみんなで笑って、その子もグラスを持って乾杯だけしましたが、おばあちゃんの言いつけを守り食事中は何も飲まないので、その1杯もおいらの胃袋に収まったと記憶しています。

このトルコ人の女の子はおかしな子で、別の機会においらとこの子ともう一人ブラジル人の男の子と三人で出張に出かけ、出張先で夕食後にBARで一杯飲んでからホテルに帰ろうと、ホテルから近い広場に面した野外席があるお店で、おいらはいつものカクテル(ロングアイランドアイスティーです。「NY昔話」参照)を頼んでいたのだと思うけれど、そのトルコの女の子はウォッカをロックで注文するんですよね。「普段はお酒飲まないけれど、飲むときはウォッカの味が好きだからこれを飲む」と言いつつ、ピーチ風味のウォッカを飲んでいたのです。もう一人のブラジル人はビール飲んでたと思うけど、とにかくおしゃべりな若者だったので楽しくがやがやおしゃべりしているとハーゼル(トルコ人の女の子)が静かになっていることに気付きカエターノ(ブラジル人)と二人で顔を見合わせ「どうしよう」と困ってしまいました。

その日は移動した後に仕事をした夜だったので、疲れが出たようです。ちょっと声をかけて起こしてみても全然起きないので、確か30分ほどおいらとカエターノでおしゃべりして時間を潰してみてから再度起こすことに挑戦し、何とか目が覚めたようなのでホテルに戻った記憶があります。

この時の出張先はポルデノーネというヴェネチアとウディネの中間にある古い街で、おいらがミラノ以外で一番多く出張に行った街だと思います。だからホテルやその周りのお店も結構馴染みがあったんですね。

あと、ポルデノーネでは「Trattoria La Pace」という、おいらのためにあるような名前のトラットリアがあり、定宿から近いこともありよく夕飯を食べに行きました。地方都市ではミラノのように外国人が多くないので、おいらみたいなアジア人が一人でお店に入るととりあえず目立ちます。それで何度かお店に行く間に「なんの仕事でここに来るんですか?」とか聞かれ、お店の人と話をするようになり、当時は結構仲良くしてもらってました。そう、出張に行ってたテレビを作る会社が倒産して、もうポルデノーネにはいく機会がなくなっていまったので、足が遠のいてます。その内仕事関係なくまた行こうとは思ってるんだけれど。

お店の人と話をするようになると、そこのお店の息子がミラノの工科大学で建築を勉強してるとか教えられたり、ある日食べに行くとその息子が休みでミラノから帰って来てるからと挨拶されたり、ただ出張先で気に入ったから食べに行ってたお店の人と仲良くなるのもうれしい体験でしたね。

この出張に行っていた会社は倒産したけれど、そこの社長だった人はずっと友達なので、たまに電話で話をします。今はまた別の事業をしているらしいけれど、今の事業ではデザイナーに頼むような仕事はないらしい。まあ、面白い人なのでまた会いに行きたいですけれどね。

時間をグッと戻して、最初に書いた名古屋のキャラバンサライでバイトしていたときの話。

名古屋にジプシーキングスがライヴにやって来る前日、名古屋でメンバーが泊まるホテルを探し出したエルティポのママがホテルにスペインのスパークリングワインと手紙を届け、手紙にはスペイン語でエルティポの住所とともに「楽しい時間を過ごしましょう」とメッセージを添えていたそうです。

ライヴ前日に名古屋入りしたジプシーキングスのメンバーがエルティポに遊びに来たので、メンバーやエルティポのスペイン人スタッフ、エルティポにフラメンコを踊りに来るエンカルナも当日は来ていて、みんなでキャラバンサライに入って飲んで食べて極秘のパーティーとなりました。メンバーもギターを持ってそれこそシークレットギグで演奏し歌い、エンカルナとフラメンコを踊り、楽しい一夜を過ごしました。上機嫌のメンバーにキャラバンサライのマスターだったジミーさんがペンを渡し、壁にサインしてくれとお願いしています。そこでメンバーは気前よくサインしてくれました。

翌日の名古屋公演ではエルティポやキャラバンサライ関係者は最前列の席でライヴを観ました。おいらにそういう記憶があるので、最初から席を取っていたのかどうかは覚えてないけれど、また一晩ジプシーキングスの演奏を満喫しました。ライヴ前にメンバーがMCで「名古屋では昨夜も楽しい時間を過ごしました。ありがとう」と言ってましたね。

さて、後日バイトでキャラバンサライに入ると、ジミーさんが腕組みをしています。「なあ、ヒロシ君、あのジプシーキングスのサイン。渡したペンが細すぎて全然見えないから、このマジックで上なぞって見えるようにしてくれる?あんた器用だからできるでしょ」と言うではありませんか。そうです、90年代、本郷のキャラバンサライでジプシーキングスのサインを見た記憶がある人、あれは半分ヒロシのサインでした。ごめんなさい。

Peace & Love


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