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わたしの視点:河西英通(広島大学名誉教授・博士(文学))

「被爆建物」に認定されている広島市内の「旧陸軍被服支廠」がいま解体の危機に直面しています。広島県の解体方針の背景には、昨年の大阪北部地震で小学校のブロック塀が倒れ、登校中の小学生が亡くなったことを考慮した「安全対策」(県財産管理課課長)があります。今年の台風15号で千葉県のゴルフ場の鉄柱が隣接する住宅に倒れ込んだこともあり、「県民の命と財産を守る方針」(解体賛成県議)とも言われています。
年々大型の自然災害が増えている中、これらの見解は一見否定し難いように思えますが、「旧陸軍被服支廠」が「原爆被害の凄惨さなどを今に伝える物言わぬ証人(松井広島市長)、いわば「被爆舎」であることを考えますと、根本的に誤っていると思われます。

まず、そうした「県民の命と財産」を守る「安全対策」の必要性を、最近になってようやく気づいたとするならば、県行政の長期にわたる怠慢以外の何物でもないでしょう。原爆遺跡保存運動懇談会の副座長さんは、「以前から保存を求めてきたのに、県は放置してきた。倒壊の危機が迫ってから『安全対策には壊すしかない』というのは無責任だ」とのべています。正論でありましょう。手をこまねいてきた責任を「旧陸軍被服支廠」に求めるのは、行政の放棄にほかありません。


また、「被爆建物」である「旧陸軍被服支廠」はかつて広島市にあった「陸軍三廠」(他は糧秣支廠、兵器支廠)のうち唯一残っている建物です。それだけではありません。東京・大阪の被服廠が現存していない今や、全国的に唯一無二の残存建物なのです。広島の「旧陸軍被服支廠」は広島の近代史、いな日本の近代史を考えるうえで絶対保存しなければならない建物なのです。「旧陸軍被服支廠」を広島人が自らの手で解体することは、愚の骨頂であります。


さらに、「被爆建物」と隣接する民家の関係は、倒壊の恐れではなく、原爆の恐ろしさをいまあらためて教えてくれています。「旧陸軍被服支廠」には民家や学校が隣接しています。それゆえ、倒壊の恐れが問題となっているのですが、戦前そこはすべて被服支廠の広い敷地でした。民家や学校は戦後の平和な時代に登場したのです。その意味では近代の広島市が辿ってきた軍事都市から平和都市への変貌を考えるうえでは、きわめて重要で貴重な景観といえます。「旧陸軍被服支廠」を解体することは、そうした私たちが歩んできた歴史の姿を曖昧にすることにつながります。

そしてより引いて見ますれば、近代の広島市は戦争に連なる軍事施設と人々の日々の生活が背中合わせ、隣り合わせに存在していた街でした。その背中合わせ、隣り合わせの上に、1945年8月6日原爆が落とされたのです。「旧陸軍被服支廠」に隣接して暮らすみなさんに〈覚悟して住んでください〉というのではありません。行政は責任をもって倒壊の危険性を除去しなければなりません。それを避けるような行政は、広島の行政ではありません。


倒壊の恐れを金科玉条に「旧陸軍被服支廠」を解体し、私たちの記憶から消し去るならば、いつの日にか原爆は広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)だけを目標にしたと言われるかもしれません。これは決して杞憂ではありません。すでに「原爆が投下されたのが公園で良かったですね」という物語さえ生まれているではありませんか。原爆が広島市全体を、広島市民全員を攻撃目標にしていたことを忘却せぬために、「旧陸軍被服支廠」と民家・学校の背中合わせ、隣り合わせの景観を見続け、守り続けなければならないのです。
いまだこの世から核戦争の脅威が無くならない現在、このこと以上に行政として有効で大事な「安全対策」「命と財産を守る方針」がはたしてあるのでしょうか。

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