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ほっこり授業~「自己の存在」を他者の中に見いだす!

個別最適な学びは「自己の存在」にフォーカスすべき!
筆者は、個別最適な学びと「ほっこり授業」は同じ学びととらえています。
その前に、「個別最適な学び」前身ともいえる「個に応じた指導」について思うことを述べます。

これまで(前学習指導要領時)は、「その子の身の丈に合った学習内容を提供することが『個に応じた指導』だ」のような意味合いが強かったように感じます。
例えば、算数科で「個に応じた指導」を謳ったとき、行政が予算をつける代わりに、現場に求めることは学力テストの平均値を上げることでした。(たぶん、今も同じと思います)もっといえば、予算請求するときに、「学力テストの点をあげてみせます」ということしか、客観的成果を数値で見せることができないジレンマもあったのではないかと思います。習熟度別学習などは、身の丈に合った学習を習得したら、100点のうち30点くらいは確実に取れるだろうという発想もあったと思います。確かに平均点は上がり、「成果がありました」と報告することができたのです。しかし、当たり前ですが、平均点は、ずっと上がっていきません。
この結果、始業前学習や教科書を離れた過去問学習で学習時間を増やしテスト対策の成功・不成功が、学力テストの結果を左右することになったようにも思います。点数が上がれば、子どもは「算数好き」と言ってくれるに違いないと信じてやってきた先生や行政は、全く異なる結果を得たのです。

自尊感情が低い・・という結果。

子どもにとって、自らの意思を尊重されたり、自己決定を認める環境が、テスト対策にはないのです。
子どもは、今のままの自分を受け入れてくれる場所・人を求めています。

ほっこり授業は、他者の中に「自己の存在」を見出す

これまでのブログでは、どう子ども同士をつなげ、個々の足りない部分をどう補うかという方法を述べてきました。
一見、非効率な授業に思えるかもしれませんが、先生から見える景色と先生には把握できていない景色(自己決定が許されるグループからの景色)のパラレルの構造をもっていれば、先生には把握できていない学びが、もう一方の世界に広がっており、この世界で「算数好き」を生み出していると思えば、価値ある世界といえるでしょう。
なぜならば、全ての子どもが、先生の中に「自己の存在」を見出すことはできないと思いますが、グループの中では、「今日は、僕の分からないをAさんが教えてくれた」というシーンは、容易に作り出せるからです。

では、ほっこり授業については次回に続きます。