【も】 もりそば
僕は今マレーシアのイポーというところに住んでいて、滞在歴は6年ちょっとになる。45歳のときに来たからもう51歳になっている。
こんなご時世なので日本への一時帰国ができないから、もう一年以上も日本の美味しい蕎麦を食べていない。
母親が蕎麦好きだったせいで、ずいぶん小さなときから蕎麦を食べていた気がする。手間があんまりかからないということもあったんだろうけれど、土曜日や日曜日の自宅での昼ごはんは、よく母親が蕎麦を茹でて出してくれた。
もちろん市販の乾麺を茹でて、めんつゆを水で薄めて食べていたんだけれど、夏休みの暑い時期に、午前中汗だくになって遊んだ後に冷たい蕎麦をすするのは、子供ながらになんともいえない涼味があってよく覚えている。
小学生までは冷房のない家に住んでいたので(当時は普通のことで、あまり家庭に冷房は普及していなかった)扇風機の風を浴びながら蕎麦をすするのはたまらない夏の楽しみでもあった。
そんな感じで蕎麦に馴染んでいったからか、大人になっても蕎麦屋に行くとだいたいもりそばを頼む。温かい蕎麦を頼むことは稀で、やっぱり冷たい蕎麦の喉越しを楽しみたいという欲求に耐えられなくなってしまうのだ。
天ざるの意味がよくわからないままこの歳になってしまった。
最近は蕎麦つゆと天ぷらのつゆが別々になっている蕎麦屋も多いが、ちょっと前までは蕎麦も天ぷらも同じ蕎麦つゆを使って食べていた。これもちょっと意味がわからないままだ。
温かい蕎麦に天ぷらが入っていて、油とだし汁が合わさってなんともコクのある美味しさが味わえるというのはすごくよくわかるし、僕も大好きだ。
でも天ぷらと冷たい蕎麦を食べるというのはどういう気持なんだろうか。蕎麦はご飯ではないので、天ぷらをおかずにして食べているわけではないだろう。蕎麦と天ぷらとを別々に食べているということなので、なんというか、パスタとハンバーグを食べているような気がする。冷たいつけ汁に天ぷらを浸したところで、温かい蕎麦のような化学反応は起きにくいし、だったら天ぷらとご飯と蕎麦を食べた方が理にかなっている気がする。まあ、天ぷら定食の蕎麦セットみたいなやつなんだけど。
しかし立ち食いそばの世界になると話が全く違ってくる。(この場合、そばを平仮名にします)
立ち食いそばの名店というのはそこらじゅうにあって、それぞれ独自の工夫を凝らして我々の舌を楽しませてくれる。
かき揚げはもちろん、ごぼ天、春菊天、イカ天、ちくわ天など種物も豊富で、冷やしたぬきなどは立ち食いそばのジャンルから生まれた名作メニューだろう。おにぎりやいなり寿司などのサイドメニューも豊富で、僕はこのシステムが持つ自由度と、自身のおなかの空き具合と財布の中身、そして味のバランスを考慮しながらメニューを組み立てるというクリエイティビティは、日本が世界に誇れる食文化なのではないかと強く思う。
僕はコロッケそばを偏愛していて、揚げたての天ぷらが準備されたタイミングに遭遇したとしても、ついついコロッケそばを注文してしまうことがよくある。このコロッケというのは協調性がないやつで、温かいそばのなかに溶けるように馴染んで独特の美味さを引き出すくせに、コロッケ+天ぷらというのは受け付けない。パン粉と小麦粉との差だろうか。コロッケの主張が強いせいか、天ぷらの味がしなくなってしまう。またこのコロッケは普通のコロッケに限る。神奈川県以外の人には馴染みがないかもしれないが、箱根そばというチェーン店にもコロッケそばがあるが、これがまさかのカレー味である。僕はコロッケそばの次にカレーそばを偏愛しているのだが、カレーコロッケそばはいけない。ちゃんとマッシュされた白色のじゃがいもが茶色いつゆに溶け出す瞬間が至福なのであって、これが黄色でスパイシーだったりすると興ざめだし、味もどこに向かっているのかよくわからない。万が一箱根そばの偉い人がこの記事を見てくれたら、ぜひ強く再考を促したい。と同時に、なぜカレーコロッケにしているのか、意図を聞いてみたいと思う。
前述したが、カレーそばというのも独特の味わいがあって、大好きだ。僕はカレーうどんとカレーそばだったらカレーそばのほうが好きだ。もちろんカレーうどんも美味しいけれど、なんとなく料理としての完成度が高すぎる気がする。2000年台前半に日本のG1レースを勝ちまくったフランス人ジョッキーのオリビエ・ペリエがカレーうどんが大好きで、早朝から始まる調教のあとに毎日食べていて、フランスにも紹介したいと言っていたというのはカレーうどんにまつわる有名なエピソードだが、フランス人の舌を満足させるのは間違いなくカレーうどんで、カレーそばはもうちょっと上級者向けな気がする。蕎麦好きが最後にたどり着く亜流の域というか、いろんなことを許容する深い懐と先入観を持たないしなやかな感性が必要で、カレーそばの意味がわからないという人がいるのも頷ける話だ。わからない人にはわかなくていいという孤高感がカレーそばの魅力でもある。
有楽町にある名店「泰明庵」では、カレーそばの麺を冷やしてあつあつのカレー出汁をかけてくれ、という通の極みとも言えるメニューがある。カレー蕎麦マニアは一度は訪れなければならない聖地である。
カレーそばは、やはり泰明庵よろしくカレーとだし汁を予め混ぜて、カレーそば専用の出汁で提供されるべきだと思う。前述した箱根そばにもカレーそばがあるが、普通のかけそばの上からカレーをかけただけという極めて雑と思わざるを得ないメニューだ。新潟の三条で有名なカレーラーメンを初めて食べたときに、普通のラーメンに家のカレーがかかっただけで出てきたときの衝撃と、普通のラーメンに家のカレーがかかっただけの味しかしなかった残念感に通じるものがある。これも強く再考を促したいのと同時に、なぜこのスタイルにしているのかも聞いてみたいと思う。
もりそばのタイトルからはだいぶ脱線してしまったが、昼時の混雑している時間を避けて、2時ぐらいから蕎麦屋で板わさや蕎麦味噌を肴にのんびり一杯やって締めにもりそばを食べるという贅沢は、こんなご時世なので、海外に住んでいる身としては、いつ叶えられるのかわからない夢のような話になってしまった。
池波正太郎が愛した長野県上田の刀屋の歯ごたえがあって量がたっぷりのもりそば(タイトル画面)、銀座の山形田の冷やし地鶏そば、自宅近くにあるひのやの三段もりそばや鴨刻みせいろなどなど、思い出しただけで涎が出そうな蕎麦を出す名店が日本にはいくつもある。
以前のようにまた自由に日本に帰国できることになったときに、これらの名店の数々が健在でいることを心から願うばかりだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?