上司に嫌われた理由

1週間前に嫌な上司の下でどう働くかというタイトルで文章を書いた。書いた理由はわたしの経験を通して読者になんらかのヒントになるのではないか。ヒントになったならそれでよし。ならない場合は仕方がない。それは読者の置かれた状況にもよる。

ただせっかく文章を読んでくれた読者が嫌な上司の下でがまんしながら働き続ける。それで病気になったらよくない。失職したら苦しい。転職ですらしてはいけない。上司を理由にするのはよくない。そんなことにならないための方法を提示したつもりだった。

ただこの文章を書いているうちにふと気になったことがあった。それはわたしが都合のいいように文章を組み立てているのではないか。ひとりよがりで自分にはあたかも非がないように考えを述べているだけではないか。一方的な見方で偏った見解を述べているだけではないのか。バランスがとれていない。上司の目線はあるのか。こういった批判もあろう。そこでもう一度振り返り嫌な上司の下でどう働くかを考え直してみたい。

一般的には嫌な上司というのは暴言をはいたり暴行を加えることをする。また陰鬱なことをいったりいじわるなことをして威嚇する。そういったことをして部下を押さえつける。もちろんそういう状況では部下は成果をあげることができない。

考え直す視点はいくつかある。ひとつには自分だけでなく周りの人に対してどうだったのか。自分だけだったのか。それともみんなに嫌われていたのかというのがある。次に上司はその上の上司にひどい目にあってきたのではないか。それにより日の浅い新人に対してつらくあたる。そういう傾向はなかったのか。最後に嫌な上司がいたというのは大半であってそれが組織文化のひとつではなかったか。そういったことも踏まえて自分が上司に嫌われた理由を書いてみたい。


銀行


スイス銀行でわたしのことを嫌っていた上司は2人いた。どう考えても私に対してつらく当たる人だった。当時はどう考えても合点がいかなかった。私のどこが悪いのか。そう考えるとますます深みにはまり仕事ができなくなったことを思い出す。

まず大阪のマネージャーF氏。組織上は彼は上司ではなかった。わたしに実力があれば彼と同じように仕事をしてもかまわなかった。しかし新卒採用で金融のことなどまったく知らない。実務経験がないわたしがいきなり仕事ができるわけはない。仕事もどこからも何もこなかった。であれば大阪でいっしょにできる人はFしかいなかった。

そこでやれることといったらなにか手伝うことはありませんか。わたしにできることはありませんか。そうなろう。しかしFにとってはわたしは邪魔な存在だった。彼は当時35歳であったし、わたしを雇ったわけではない。わたしを教育する係でもない。そのため、おれはおまえの上司じゃねえ。そう言い放ったのである。それはそれでしょうがない。組織図というものがなかったからだ。じゃあ勝手にしやがれともなる。

Fは出世に関してとてもこだわるところがあった。35歳であればだれでもそういうことはあろう。東京6大学のひとつを卒業して金融一筋、アメリカでMBAをとった。結婚もしており昇進とお金儲けをしたかったのであろう。そうなるとむき出しの競争心を見せていた。そしてFのボスであるスイス人。彼がわたしを雇った。スイス人にとってはFのような攻撃的な証券マンはうってつけだった。お金を稼いでくれるからである。

しばらくしてからわかったことだ。スイス人のボスのまた上のボス。彼はボスをとても嫌っていたことを話してくれた。というのはわたしを雇ってくれたボスは教養があり学歴も博士号という輝かしい経歴であった。しかし彼のボスは高卒であった。その高卒のスイス人がどうもつらく当たっていたようである。

わたしにとってはスイス人が高卒、大卒、大学院卒、それぞれどうなっているのかというはまったくわからなかった。しかし博士号をもつエリートが高卒の下で働くというのは屈辱以外のなにものでもなかった。そんなことがあるのか。ありえるのである。

当時スイス国籍の職員はとても少なかった。スイス銀行では東京と大阪と合わせて100人くらいの行員がいた。スイス人は5人以下だった。あのようなバブルのときでさえスイス人が日本に来ることはなかった。日本全国で大使館の職員と家族を含めてスイス人は200人くらいしか日本にいなかったそうだ。

そんなわけでスイス人は本国の方ばかり向いていた。その下にいた日本人のFはやりたい放題に暴れていたといえる。どのようにわたしが振舞ってもああなっていたに違いない。他の人はいなかったのだけれども同じようにつらく当たったということは想像できる。

ではFはボスであるスイス人からはつらい目にはあっていたか。そうではなかったはずである。むしろそんなことは気にしておらず早く東京支店にいってもっとお金を稼ぐことしか考えていなかった。組織としては文化というものもなくできたばかりの駐在員事務所。人事や総務などない。そういうところではやりたい放題だったのである。

さてそれからわたしは東京支店の方に異動した。そこでもどうも様子がおかしい。しばらくしてからかなりわたしにつらくあたる上司がいた。とても陰険だった。ではその上司L氏はどうなのか。あとからわかったことだ。わたしが他のアナリストの下で働くようになった。そこでLは新しく部下を得た。

ところがその部下はすぐ会社を辞めてしまった。そしてそのあとにきた部下もあっさりと会社を辞めてしまった。いっしょに仕事をすることが耐えられなかったようだ。ということはわたしにだけつらく当たったのではないことがいえる。

さてL氏の上司はどうだったか。わたしはよく知っている人だったがとても寛大で悪い人には見えない。誠実で証券のこともよく知っている。業界のことも詳しくやさしい家庭人であった。ということは上司には問題はないはずだった。

ところが調査部内だけで仕事が済むわけではない。そこには投資家からの圧力がありすぐれたレポートが要求された。その圧力は相当のものでLにとってはこのポジションでしっかりとした実績をあげなければならなかった。ということはわたしのように基礎的な資料をつくる段階でミスをしていることは耐えられない。三洋証券で使っていた独特の株式数の算出方法はわたしの理解を超えていた。

そうった圧力の中で仕事につまずいているわたしにはつらくあたったのであろう。

F氏とL氏。この二人にはほとほと参った。しかし彼らはわたしにだけつらくあたったのではない。同じように若い部下につらくあたっていた。彼らの上司にはなんら問題行動は観測されなかった。ということは組織の中でかなりの出世をしたかったのとお金をできうるかぎり稼ぎたかったということはいえる。そのためには新人であるわたしは足手まといだった。

外資系金融機関では新人では仕事ができない。足手まといになるため嫌われることが多い。それが上司に嫌われた理由だ。中途採用でないかぎり外資には入るべきではない。

飲料メーカー


アメリカから帰国して渋谷にある日本コカ・コーラに就職した。配属先は情報システム部だった。33歳になっていたにもかかわらず新人と変わらない。新しい分野での仕事だ。情報システム→マーケット調査→情報システムと異動した。3人の上司の下で4年間働いた。どの上司ともうまくいかなかった。わたしにどこか悪いところがあったのだろうか。特別にわたしのことが気に入らなかったか。だからあのように暴言をはいたのだろうか。たまにはあるにしても仕事はやりにくかった。

一人目はM氏だった。最初は親切に説明をしてくれた。ところが次第につらくあたるようになった。わたしにだけだろうか。いやどうもそうではないらしい。あとからきた社員からはとても難しい性格であることを聞いた。おそらくつらくあたったのはわたしだけではない。みなにつらくあたる性格の上司だった。では彼の上はどうだったか。

知る限りではそれほど問題はない。ところがその上の上司がとても評判が悪かった。彼は日本人であるにもかかわらずアメリカからやってきて権威を振るい徹底した権力体質を植え付けた。システム部というのはそういうところがあり年功序列のようなことがあって柔軟に仕事をするところではなかった。つまりMの上が相当つらいことを部下に強いてきたわけだ。

それならば新しく入った中途採用につらくあたるのも無理はない。マーケティングや製造部門とは違いシステム部は特殊部隊といわれていた。そういうところにはいったらしばらくはつらい。

異動した先のマーケット調査部ではどうだったか。B氏はだれにでもつらくあたった。それはこの調査部というのが新しくできたところでもありB氏はどう部下を指導していいのかわからなかった。その上は社長であった。まもなくしてB氏は香港に異動した。

わたしはシステム部にもどった。一度システム部を出ると二度と帰ることは許されない。帰ってくるのは掟破りとのことだった。わたしは35歳になっていた。新しい上司F氏がいた。このひとはだれにでもつらくあたるのかというとそうでもなかった。どちらかというとあたりは柔らかい方だった。しかしFの上があの権威主義の部門長であったことを考えるとああなってしまうのもしかたなかった。けっこうな嫌みをいわれた。

わたしはそれでも運がよかった。そのころからコカ・コーラはプロジェクト・ベースで仕事をするようになった。これにはなじみのない読者もいよう。プロジェクト編成で仕事をするというのはどういうことか。これは同じ部門のひとと一緒に仕事をするのではない。

上司といっしょに仕事をしないため上司の顔色を見る必要はない。顔色伺いをして命令に忠実に仕事をするというものではない。組織横断的にプロジェクト体制を組む。そこには多少の上下関係が存在する。

しかし部門の壁を越えて仕事をする。しかも組織の外の経営コンサルタントがはいってくる。そういうひとたちといっしょに仕事をする。彼らの仕事ぶりを見ながら仕事をする。この仕事のやりかたはメリットが大きい。

そうはいってもわたしはコカ・コーラの最後の仕事でつぶれそうになった。データのアップロードがどうやってもうまくいかない。外部のコンサルタントもお手上げだった。わたしもどう指示していいかわからない。どうやってもアップロードできない。そう上司のFには告げた。彼は受け付けなかった。社内のもう一人のエンジニアがアサインされた。するとアップロードができたようだった。わたしにはなぜこれができたのかよくわからなかった。

そんなわけで何度もアップロードに失敗したわたしは相当嫌われてしまった。システム部に戻ってくるだけでも嫌われる材料があった。そこでアップロードがまともにできなければさらにつらくあたられることはありえることだった。

わたしは4年間勤務したコカ・コーラを辞める決意をした。そして2000年まで経営コンサルティングをした。そこでは上司といわれるひとがいないことは書いた。個人事業主のような働き方をするところである。ではそこを経て2年後に入った日系企業について書いてみよう。

商社


2004年から三菱商事の品川オフィスで働いた。最初の上司はとてもすばらしかった。ところが1年後の2005年からはとてもやりずらいことが起きた。部門長は仕事をしない。片腕のマネージャーは陰鬱だった。それを振り返ってみる。わたしにどこか悪いところでもあったのだろうか。それとも・・・。

ここではどちらかというと悪いことが重なっていた。まず片腕のマネージャーは誰に対してもつらくあたっていたようだった。わたしにだけ特別つらいことを強いたわけではない。誰に対しても公平にひどいことをしていた。なので特別わたしが気に障っていたわけでもない。ならばどういうことか。

彼のもとの上司がどうもよくなかった。その上司の下で働いていた部下が自律神経失調症になって休職してしまった。相当な無理がかかり会社を休まざるを得なくなったようだった。彼のことは少し知っているが、とても落ち着いたひとであって自律神経に支障をきたすようには見えなかった。

そして組織文化としてはどうか。三菱商事は商社であり商社マンはとても忙しく慢性的な過労になっている。ある職員に聞いたところ、全体の1割くらいの職員はかなり重い病気にかかっているとのことだった。実際、辞めてからしばらくしてわかったことがある。職員が奥さんと娘2人を残して58歳で他界したということを聞いた。知っている人だっただけにショックだった。

会議でもサンドバックをたたくような会議もあるようだった。それだけ真剣ともいえようが権威と組織優先の三菱ではそれなりに厳しい上司はいた。わたしは特別なにか悪いことをしたわけではなかったろう。上司と相性が合わなかったといえる。

SI(システム・インテグレーション)


商社の後に日本ユニシスに入社した。そこでは最初の仕事で夜遅くまで働くことができず、もう少し軽めの仕事が最初の仕事だった。ひとりではできず、10歳年上の上司の下で働くことになった。F氏はわたしにとっては乱暴で相性はよくなかった。わたしのどこか悪いところでもあったのだろうか。ほかの人に対してはどうだったか。

わたしが観察したところ、ほかの人に対してあそこまでつらく当たるということはなさそうだった。むしろ若い人と好んで仕事をしているようだった。ということはわたしのどこかが彼にとって気に入らないところがあるようだった。

それはわたしが彼のいっていることが全く理解できなかったことによる。コンサルタントというのはそれぞれのスタイルがある。わたしにとっても部下になったとはいえ10年やってきたスタイルを曲げることはできない。彼のスケジュールに沿ってあれをつくれ、これをつくれと指示を出されても理解が全くできなかった。それが原因だろう。わたしには罰点がついたのだった。

そして異動をして3年間は研究の仕事をした。そこではあまり問題は発生しなかった。なぜにこんなに違うのか。途方に暮れた。

さてまとめるとどういうことになろうか。わたしに特別どこか悪いことがあるのか。そうともいえるしそうでないともいえる。上司から見てどこが気に食わなかったのか。

まとめ


以下の3点に集約されよう。ひとつには積極的すぎたこと。次に会議で発言しすぎたこと。最後に時間軸が合わなかったこと。それぞれどういうことか。

まず積極的に仕事をしすぎた。そのため粗削りになりミスにつながることが多かった。それはいえよう。ある程度の年齢にいってもミスがあったことは認めざるを得ない。そのため上司がイライラしていたのはわかる。なぜ、こんなことができないんだ。発達障害ではないのか。そんなことを描いていた上司もいよう。

わたしはあらゆることを想定して実験をし完璧に再現できるまでは試すことにしている。例外はいかようにもなることもあり再現性がないとなかなか納得しない。しかし仕事のパターンを一度覚えるとできるようになる。そのパターンが独自の方法とステップでないとできない。

この積極性というかあらゆる可能性を試すというのは大学でならったことだった。また多少荒くてもそこは協力をして完成させるというグループ思考があった。ひとりでできないといけないこともあった。

会議ではおとなしくだまっているのが苦手だった。そのため発言が物議をかもすようにとられたのかもしれない。問題をほじくり出すような人間は歓迎されない。しかし課題を出して克服していくことは成長だと教わった。

日本コカ・コーラのシステム部隊や三菱商事では会議では消極的な社員が多くほとんど発言するひとはいなかった。会議ではメモを読んでいるだけで終わっているものもあった。そのようなおとなしいことが是とされた。聞き上手が褒められた。

まただまって黙々と長くオフィスにいることが仕事をしていることだった。わたしはなるべく早くてきぱきとかたづけて仕事を定時で終わらせたかった。そこが気に食わなかったのであろう。そのため完璧な仕事というよりとりあえずここまでやったという仕事を報告したことがあった。そのとりあえずが気にいられなかった。そんなこともあり仕事に粗さが目立ったのかもしれない。それは認めよう。ただ上司はほったらかしにするのではなく部下の弱みを補完する役目はないのだろうか。

三つめは仕事をかたずける時間軸があわなかった。いつまでに仕事を終わらせますか。そういう質問は上司にとっては愚問だった。時間管理は上司の仕事ではなかった。時間はいつまでかかろうと知ったことじゃない。

ここはアメリカではない。コンサルティング会社でもない。3日だろうが、1週間だろうが、1か月先だろうがやれるまでやれ。それで完璧を出せ。そういった仕事のスタイルが苦手だった。

わたしはやれるところまでやってまだ不足がある場合は上司が指摘してくれるものと勘違いしていた。そんなことを指摘する上司はいない。

わたしはリサーチに向いているタイプだった。営業やオペレーションをやったがそれほどうまくやれるタイプではなかった。そういった部門で上司とうまくいかないのは当然のことであろう。