聞き専という選択肢
30年前にアメリカのビジネススクールに通っていた頃、こんな出来事があった。それは1年目の後半にとったマーケティングのクラス内であった。4人でグループをつくり、授業の外で課題について意見を出し合う。それをまとめて架空の経営陣に提案をする。まとめをみんなの前で発表をするという形式だった。あたかも役員会のような雰囲気だ。模擬授業だった。
わたしはグループ学習ではそれなりの意見をいっていた。しかし教室で発表となるとそううまくはいかない。100人いる大学院生の中で日本人はわたしひとりだった。30人は留学生でもあったが皆実力者だった。発表の時間が過ぎていき、わたしがだまっているとクラスのひとりからこんな発言が降ってきた。
発表者の中でしゃべらないのがいる。しゃべらないのはけしからん。そんな批判だった。わたしは認めざるを得なかった。発表で言葉を発しなければならなかった。
さてこのところ参加している日本人を中心としたおしゃべり会。そこでは好きなトピックを持ち合い、ボランティアがまず最初に話題を提供する。素性のわからないひとたちばかりで6人くらい集まる。先日はすべてシニアだった。時間は30分程度。普通はなかなか会話がはじまらない。もごもご、おどおどとするのが常だ。だれかに出してもらった方が楽だからだ。無賃乗車は多い。
そうしているうちにひとりのシニア男性が口を開いた。その人はこれまで2年近くほとんどトピックを持ってこない人だった。しかも時間には来なくて必ず遅れてきた。ところが最近はどうやら時間通りに来るようになった。しかも今度はトピックを出すという。そうなると2年経ってそろそろまじめにやるように改宗したのかと勘違いする。
そうして話題の提供が始まった。原子力発電に賛成ですか。反対ですか。背景は概ねこんなところだった。南海トラフ地震の発生が危ぶまれる。富士火山帯の活動もいずれ起こる可能性が指摘されている。にもかかわらず、ここ北陸地方では原子力発電の再稼働が予定されている。原子力規制委員会の調査も十分でないまま、このようなことが行われている。皆さんどう思いますか。原子力発電に賛成・反対のどちらの立場をとりますか。こういう話題だった。
わたしは黙って聞いていた。その間こうも考えていた。
2011年に発生した東日本大震災。それにより多くの死者が出た。それだけではない。津波により福島第一原子力発電所が壊され放射能汚染が広がった。最近になってようやく汚染処理が開始されたばかり。しかしながら汚染水の除去には海水を利用して30年かかるという。しかも福島県民の居住者は他県への移転を余儀なくされた。
ところが原子力発電はクリーンエネルギーである。日本の電力発電はいまだに半分近くは石化燃料と石炭に頼っている。これらが二酸化炭素の排出増になり気候変動を引き起こす。その結果、暑い夏が6月からはじまり、10月まで続く。極めて危険という警報が発令されている。
二酸化炭素の排出を抑えるのは欧州からの圧力がある。ではどうしたらいいのか。そのようなどちらともいえない議論になる。そのような争点のときには注意が必要だ。せいぜいできるのは論点整理だけである。
ある一人が開口一番反応した。その話題には嫌気がさしている。嫌気がさしているというのは、こういった賛否両論は話したくないということだろう。とてもダイレクトな言い方だった。そしてこう続けた。退屈な話題だ。はて、退屈とはどういうことだろうか。不可解な表現だった。
それはおそらくこういうことだろう。前回のおしゃべり会のとき、話題提供者は目をつむって寝ていた。話題を提供したにもかかわらず、こっくりと寝ているのは大変失礼である。その時は反応者が話題を提供したときだった。その時の怒りをかかえたまま参加してきたに違いない。復讐をしたとも受け止めれる。
しかも反応者はどうやら教育経験のある人らしかった。わたしにも経験がある。教育者として登壇をして受講生が目の前で寝始める。極めて非礼な行為である。普通はがまんができない。ところが社会人は平気で会議中に寝ている人がいる。発言も一切しない。とても失礼なことである。以上のことからこういうことがいえよう。
ミーティング中は寝ないこと
賛否両論の話題で論争しないこと
トーンに注意して丁寧に柔らかく指摘すること
わたしは黙って聞いていた。このおしゃべり会では聞き専ということが許可されている。おしゃべり会と名をうっておきながらしゃべらないでも許されるのである。だれもとがめない。じゃもじゃというだけでもよい。それで時間が過ぎる。それが奨励さえされている。
これ聞き専という。LOM(Listening Only Member)というのは日本人が集まり、日本人の中では許されるのである。
わたしは30年前の大学院での経験がどちらかというとトラウマのようになっていた。ミーティングでは積極的にしゃべらないといけない。そうでないと貢献したことにはならない。そうでなければ無賃乗車(タダ乗り)だ。ただ飯を食って過ごすことは許されない。
MBAをとって経営コンサルタントをしていたときはさらに厳しかった。会議で発言をしないというのは存在すら許されないものだった。しかも効果的な質問を次から次へと顧客に向けてすることが仕事だった。そうでないと経営コンサルタントとしては認められないものだった。
わたしはこういう経験からおしゃべり会を誤解したままで2年間参加していたようだ。気軽なサロンでよかった。場合によっては聞き専は大いに奨励されている。傾聴をしていることにもなる。
アメリカでは学生たちが自分の意見を言わなければ気が済まない。他者に認められない。本当に強い意見を言ったものが認められる。教授はあえて議論をまとめようとはしない。そうやって2年が過ぎた。
イギリスでは相手の話をきちんと聞き、議論の流れや相手の反応を見て意見を言う人が多いという。日本人はこちらに近い。
また日本人は議論をする国民ではない。論争の場にしてはいけないのであろう。カジュアルな気軽さが楽しめるおしゃべり会でいいのである。ならば聞き専という選択肢は有効といえよう。