上司次第

嫌な上司とどう付き合うか。これはサラリーマンであればどこでも付きまとう問題。そうであろうという想定で書いてみた。わたしのサラリーマン生活は25年間続いた。その間ほとんど上司の下で働いた。ひとりで自由に仕事をさせてもらったことは一度もない。必ず上司に報連相。つまり報告、連絡、相談をした。なかなかうまくいかないことが多かった。

このエピソードではサラリーマンはなかなかいい上司の下で仕事ができない。そんな中でどうやったら会社を辞めないで働き続けることができるか。病気にならないようにすること。わたしが外資系証券会社や商社で働いた経験をもとに書いてみます。わたしの経験も読者の方になんらかの参考になるかもしれない。


銀行


1985年にアメリカから帰国して仕事を探した。ようやく見つかったところはスイス銀行コーポレーション。当時スイスの三大銀行のひとつ。三つはスイスユニオン銀行。クレディスイス銀行。そしてスイス銀行コーポレーションだった。バブルがはじけユニオン銀行とスイス銀行が合併してUBS(Union Bank of Switzerland)になった。今年になってクレディスイスがUBSの傘下にはいった。

当時は日本企業でやっていけないあふれたような荒くれ物が外資に来た。いわゆる株屋である。わたしはそんなことも知らず最初の赴任先である大阪駐在員事務所にいった。そこは6人しかいなかった。秘書が3人。あとはスイス人と30半ばのマネージャー、そしてわたしだけだった。当然、わたしはとまどった。なにをしていいかわからない。

そうしているうちにマネージャーはわたしにいった。「おれはお前の上司じゃね」どうしていいかわからないまましばらく過ごした。3ヶ月くらいするとどうもおかしい。これでは本を読んで勉強するしかない。そこでオフィスで本を読んでいた。マネージャーの気性は荒く、新聞をまるめて机をたたいたりした。そうこうしているうちに他の職員がいる前でわたしのことをこう言った。「なんでこんなやつを雇ったんだ」

これが大阪での歓迎だった。

わたしは小間使いのような働きながら耐えるしかなかった。どうしたらいいのかわからなかった。門戸厄神駅の近くにアパートを借りた。さてこれから先どうするか。わからなかった。このままではつぶれてしまうのではないか。それは明らかだった。8ヶ月くらいが経った。

やぶれかぶれでスイス人に相談した。ここではやっていけない。東京支店での3ヶ月の研修はあった。しかしどうもここでは働いているということにはならない。スイス人のボスは話を聞いてはくれた。外資系というのはボスがすべてであるがそう簡単に移動などできない。3ヶ月くらいが経った。

すると東京支店の証券の方でやってみないかということになった。そしてなにやら変ではあるが証券部門のひとたちの面接を受けに東京にいった。もちろん交通費は支給してもらった。なんとか証券アナリストの部署に空きがあるようだった。そこで面接を受けて東京行きが決まった。ラッキーだと思ったがこれが後々起きる東京支店でもとんでもない上司と会うことになった。

1987年に東京に移動した。証券アナリストがいる20人の調査部だった。わたしはリサーチアシスタントという肩書でアナリストの下で働いた。なにやら基礎データを集めてきてアナリストが資料に載せる数字をつくるのが役目だった。シェアシートといったがそれがなんなのかさっぱりわからなかった。やがてそんなことでミスが続きわたしの評判はどこか落ちていった。1年目はがっくりとした。

アナリストの下ではだめであったがエコノミストの下で働いてみないかということになった。日本企業でいえば異動を2回経験したようなものだ。エコノミストはわたしの出身大学で教授をしていたひとだった。日本にきて間もない。

しばらく話を聞いてみると彼のいっていることはよくわかる。学者としてやってきていることありなにをやってほしいかしっかりとした指示を出してくれた。常識人だった。仕事でミスをしても彼がどんな原因かつきつめてくれることもあった。助かった。

わたしは彼と働いた1991年までの4年間はとても幸せだった。給料もそこそこいい。霞が関ビルのとなりにある新霞が関ビル19階という立地もよかった。

さてこの6年間、わたしの20代から30代前半で起こったことからなにを学んだか。そして振り返ってどうだったか。それは新人として働くときは上司次第で伸びることもあれば、反対に潰れてしまうこともあるということだった。悪い上司についた部下は次々と辞めていった。良くも悪くも上司次第だった。

大阪の時はとても苦しい。8ヶ月はなんとかやってみた。それでもこれではつぶれると思い、マネージャーのその上の事務所代表に相談した。このままではだめになってしまう。そうすると相談に乗ってくれた。つまり上司を飛び越えてその上の上司に相談する。これでうまくいくときがある。ごくまれにうまくいくときがある。また後で文章にするけどそれがうまくいかないときもある。

そして8ヶ月後に移動した東京でも上司とうまくいかない。ところが3回目の上司とは相性があった。わたしは水を得た魚のように働くことができたのである。こういったアンラッキーが続いたあとにラッキーが来ることもある。これがサラリーマンは運ということであろう。

振り返ってこうではなかったかというものもある。それは証券会社にはひどい上司が多いことで知られている。ただもともと根っこからひどい人間というわけではなさそうだ。株式市場、債券市場、そして外国為替市場というのは完全ではない。つまりギャンブル的なところで予測できないことが起こり、そこには賭け事のようにマネーゲームをするひとたちであふれていることだった。投資でなくて投機だった。

その後に起きたバブル崩壊、ITバブル崩壊、そしてリーマンショックのことを考えれば金融市場がいかに脆弱かはわかるであろう。市場で取引をするトレーディングルーム。そこにいるトレーダーのひとたちが稼ぎかしらだった。彼らは銀行の顧客から注文をもらい株式の売買をする。儲かったらほめられるが、反対に損を出したときはそれはそれはひどくいわれる。銀行支店内からも相当ひどいことをいってたたかれる。そういったところが手数料をもらって稼いだり損をだしたりするわけだ。

そこにいるトレーダーというのはまともなひとたちではない。輪ゴムをひとにぶつけたり、コーヒーの入ったコーヒーカップを投げつけるひとたちもいた。

こういった事情はあった。証券会社はそれはそれは荒くれ物が多かった。どこかカジノ(賭博)のようなところでもあった。そんなところで長く働くのはとてもつらい。しかもいい上司に当たることはまずない。それでもがまんしたあとでなんとかいえば移動や上司を変えてもらえることがまれにある。そうすれば失職・転職しないで済む。

若い頃はいいがそれでも病気にだけはなってはいけない。相談が通らず、病気になるようならばやめるしかない。失職しないこと。失職はつらい。できれば転職しないこと。転職はエネルギーを使い果たす。運がよければちょっとだけましな上司につくことができることもある。

やがて1991年になるとわたしも金融にはどうも先行きよくないのではないかということがわかりはじめた。株神話、土地神話は消えた。そんななかでまともな上司について働くサラリーマンは東京にはいなかったであろう。7年間で3回上司が変わった。いい上司につけることは極めて難しい。そしていい上司についたとしても3年くらいでその運も消えてしまった。

飲料メーカー


金融機関にこりごりして新たな業界に入ろうと決めた。しかしそんなスキルはなにもない。金融のことを学ぶだけでも3年かかった。それを捨てて新たなことをする。何にしようか。しばらくあてはなかった。そこで少し金融機関でやったことを手掛かりになにか得意なことはなかったか。すると比較的早くからコンピューターの導入がはじまっていた。ではコンピューターの業界にいこうか。わたしはいろいろと考えたあげく、まず技術系のビジネススクールにいくことにした。

2年かけて帰国した。就職先は渋谷にある日本コカ・コーラという会社だった。名前はよく知られている。アメリカでもジョージア州アトランタに本社があり優良企業のひとつとしてとりあげられていた。しかも本社のすぐ横に大学院のキャンパスがあった。わたしはこんどこそいい仕事にありつけたと思った。しかしながらそこでは上司次第というのを改めて思い知らされることになった。

渋谷にある日本コカ・コーラ社。その別館の地下1階にオフィスがあった。そこは情報システム部門40人の職員がパーティションで仕切られた席に座った。日中は窓がなく天気がわからない。しかもほとんどの職員は静かにコンピューターに向かっているだけだった。ここはどういうところなんだろう。しばらくしてからわかったことは朝から晩まで蛍光灯の下で仕事をする。日中は会話がない。なにか薄暗い牢屋のようなところだった。

ここでは4年間で3人の上司の下で働いた。最初は静かだったが途中からなにかすれ違いがひどくなり数々の暴言のもとで耐えなければならなかった。さてわたしのどこがいけないのだろう。振り返ってもなかなか理由がわからないままだった。

ひとりめは当時50歳くらいだった。最初はよかったがしばらくしてからわたしのことが気に入らないようだった。彼の周りは皆第三世代言語、COBOLというコンピューター言語を使い、ホストコンピューターに指令を送る。そうするとホストからデータが送られてくるというものだった。サーバーであるとかインターネットという言葉もなかった。

この世代の人たちはごりごりのプログラマーだった。朝から晩までやっていることはプログラミング。そして40人の組織体質は権威主義。上司絶対だった。特に部長は反対意見をいっさい受け付けなかった。55歳ということもあってあと5年で引退であることを楽しみにしていた。

そういう体質のなかでわたしはとてもやりにくさを感じた。上司ともなかなか話が通じなくなってしまった。途方に暮れていたのは1年半年くらいだった。それでも転職したばかり。辞めるわけにはいかない。会話はなく仕事は別の部とのプロジェクト・ベースであった。離れてひたすら仕事をするしかなかった。それでもじゃまをするような上司ではなかったことは助かった。

しばらくするとオーストラリア人の女性の上司の下に異動になった。そこは新しくつくりなおした調査部だった。しかしそこには上司と4人の職員しかいなかった。3ヶ月もするとオフィスによばれて、わからないまま、上司は激怒していた。一体何が気に入らないのか皆目わからなかった。そして5か月という短い期間でもといた情報システム部へ帰ることになった。そこからがとても苦しい時期を迎えることになる。

一度情報システムを離れるとそこには戻れないという掟があるようだった。わたしの場合はオーストラリア人の女性から直接電話があり快諾したものだった。しかしそれはオーストラリア人が人事部をとおしていないという反則をしての異動だった。情報システムのひとたちは機嫌がよくない。もどってきたわたしはそんなことも知らず、とてもつらい目にあった。上司は助けてくれはしなかった。なんとか仕事はしなければならない。

2年もするとどうしてもデータがうまくアップロードできないため仕事にとん挫してしまった。雇っているコンサルタントにも埒が明かなかった。コンピューターの実務経験がなく、ビジネススクールで概念だけ学んでも役にはたたなかった。おまけに上司のいっていることがよくわからないままだった。他のひとたちともうまくいっている風ではなかった。

そうして4年が過ぎた。よく4年も持ちこたえたものだと振り返る。それは同じころにはいった同僚の助けがあったからだ。上司とうまくいかないときは同じくらいの年齢の人に相談してみる。それでわたしはよく話をした。しかしその同僚もハラスメントにあい、1年間自宅で療養しなければならなくなった。まもなくわたしもどうも憂鬱な日々が続き、会社を辞めようと考えた。

そうして辞めた後にわかったこと。それは2000年に大きなリストラがあり情報システム部門のほとんどの職員はリストラされたとのことだった。ただし会社都合に退職にともなう待遇はとてもいいものだったと聞いている。当時は年金はコカ・コーラか野村證券かどちらがいいといううわさもあったほどだ。そういったことは縁がなかったが4年続けたことはよかった。

上司とうまくいかないときは年齢の同じ同僚に相談する。そうすると上司の性格やプロフィール、やってきたことがわかるというものである。するとちょっとしたことで状況がよくなることがある。それは情報システム部門のプログラマーは夜遅くまでオフィスに残っていることが仕事をするというものと思い込んでいることだった。夜遅くまでいるとにこっと覗きにくるということもあった。

これがわかるまでにしばらくかかった。情報システム部門はとても権威主義で上司絶対であったこと。上下関係がはっきりしていたこと。そして普段から会話がない。コミュニケーションが苦手なひとが大半であった。そのため会議を招集しても会議室にこない。メールをしても読んでいないという人も多かった。年下はどんなに苦しくても相手にされなかった。

なんとか過ごしたがそろそろ離れざるを得なくなった。そしてコカ・コーラで雇っていた多くの経営コンサルタントといっしょに仕事をするうちに自分も経営コンサルタントになってみようかという希望をもった。それがとんでもない間違いであったということはコンサルタントに転身してからわかった。

経営コンサルタント


嫌な上司であってもどこか抜け道がある。病気にならない。失職しない。そして転職もしない。その方が楽です。しかしどうしようもないときになんとか助けがある。方法は二つです。ひとつは上司の上司に相談する。もうひとつは年齢の同じ職場の同僚に相談する。そうするとわずかな可能性を残しながらも嫌な上司から離れて働ける。ただしサラリーマンは上司次第です。今回はコンサルティングです。

日本コカ・コーラでは地下室で窓のない薄暗いところで働いていた。そこから抜け出すことがようやくできてコンサルティング・ファームで働くことになった。赤坂にあったカート・サーモン・アソシエイツという会社です。40人ほどのこじんまりとしたブティックのようなところでした。さてそこでの上司はどうだったか。2000年まで働いて3人の上司でした。

大学が同じアメリカ人。そしてイギリス人。最後は日本人でした。どのひとともうまくいかない。しばらくするとわかったのがコンサルティング・ファームというところが上司の顔色をうかがいながら仕事をするところではないのです。頼ってはいけないのです。協調性はあるようでないのです。そうわかるのに1年かかりました。どちらかというと遅い方です。

というのはコンサルというのは個人事業主のように働く人たちです。目的はひとつ。顧客のために働く。年収は高いです。当時わたしでさえ相当いい年収をもらっていた。時間当たりのチャージは2.2万円。1日8時間として17万円を顧客にチャージしているんです。月にして350万円を課金する。その4倍くらいが年収と考えてよい。交通費、宿泊代、食費代は別途支給されます。実際はそれほどもらっていませんでしたがそれに近い数字は得ていた。

いまはどうでしょう。アクセンチュアやPwCになると時間当たり10万円課金するとも聞きます。物価高になり10~20%増額されている可能性も高い。

ところがコンサルというのは特攻隊のように働く。朝から晩まで働く。プロジェクトで成果をあげるまで働く。それは顧客の業績をあげるという結果が伴わないといけない。競争が激しくまわりは同僚でなく敵です。敵というのは言い過ぎですけど自分がどうプロジェクトに貢献するか。わたしはこれこれをやる。いつまでにやる。そう宣言してできるまでやらないとまわりから相当たたかれます。なにをやっているんだ。

会議で発言しなければ存在すら許されない。すぐに辞めよ。そういわれます。さてそんなところですが、上司はどうだったか。ひとりめはあまりきつい人ではなかった。二人目はいっていることがわけわからなかった。三人目はいいひとではあったがそれほどコンサルとして実力があるほうではなかった。仕事をもってこなかったためです。コンサルは顧客が対価にあった仕事をしているかどうかをシビアに見るのです。ゆっくりしている暇はありません。

上司はいないようなものだったがまわりは敵ばかり。プロジェクトで結果を出さなければ降格はなくクビになります。というわけでコンサルをやめた人は表向きは転職といっていますが、多くの人はクビになったといっていいでしょう。結果が出せなかった。でもそれはコンサル同士ではよく理解できるものなんです。やってよかったとあとになってわかる。

さて上司はいないがまわりが敵だらけ。そんなときにどうしたらいいか。たとえばアクセンチュアから転職してきたコンサルタントはひどいものでした。トイレにいって用を足しているとき。その横にたまたま並んだとします。すると、おい、そうやって用を足しているときもお客さんのことを考えているんだろうな。こう来るんです。

そしてちょっとスライドつくりにちょっとまよって相談しにいったときです。するとなんだこれ、こんなものはなんの価値もない。存在しない方がましだ。そういってビリビリっと平気で破ります。上司でないにしてもちょっと相談しにいっただけなのに。それはないだろう。そんな簡単に助けを求めることができる連中ではないんです。

というのは時間で雇われている。相当、自信がある。そこで気に食わなければおまえは敵だ。そうなります。こんなことでおれの時間を奪うな。しかし、そこで歯を食いしばるしかないんです。

まわりが敵ばかりの時にどう働くか。もうこれはひとつしかないでしょう。朝から晩まで働く。プロジェクトに描かれた計画にそってなにがなんでも働いて結果を出す。結果というのは成果物であってレポートであったりスライドであったりします。しかし最終的には顧客の判断です。このコンサルタントは対価にあった仕事をしているかどうか。それだけでしょう。

コンサルティングに上司はいない。なぜなら個人事業主と変わらない。上下関係はそれほどない。気軽に相談をして頼るところではない。報連相はしなきゃいけません。

さすがにこれを続けるのはしんどい。そんなこともあって次の会社にいきました。それはサプライチェーン・マネジメントのソリューションベンダー。しかしそこはITバブルがはじけてリストラを断行。わたしは2年でまた仕事を変わることに。そして外資系を選ばず日系企業で働きます。そこで日本人の上司にさんざんな目にあったエピソードをご紹介しましょう。

商社


42歳になってリストラ。そうなるともうキャリアアップとはいってられません。労働市場にレジュメを出したところでそう簡単に理想の仕事が見るかるわけでもない。しかもアイ・ツー・テクノロジーというのは新興のITソリューションベンダーだった。ソフトのライセンスと保守費用だけが売り上げでした。上場はしておりアメリカでは資金が株式市場から流れ込んでいた。

日本では社員にもらえるのは名ばかりのストック・オプションだけ。結局、行使せずにそのまま。なにも価値がありません。60人のリストラ対象でそのうち私を含め3人は社長のつてで三菱系のIT企業に入社しました。2002年10月のことです。

そこで1年ほど過ごしたころ。親会社の三菱商事に出向しないかといわれました。小間使いだがいいか。こつかれるぞ。そうなのか。でもなぜ、わたしが選ばれたんだろう。そう考えながら2004年4月から三菱商事品川オフィスにいきます。そこでは2人の上司の下で働きました。

この上司について話す前に断っておきましょう。三菱商事というところは上司が絶対なんです。上司にお伺いをしなければ自分で勝手なことは一切できない。したら相当怒られます。上司の指示で仕事をする。これが前提なんです。ですので、これをやっていいですか。それすら上司は嫌がるのです。

というのは上司はまたその上司に部下がなにをしているかちゃんと報告しなければいけない。そうでないとどう指導しているんだということになります。三菱商事というのは職員が問題を起こしてはいけない。これが絶対の掟です。礼儀正しくなければいけない。そして使用することばも振る舞いもちゃんとしていなければならない。そのマニュアルが社内にあります。

わたしは最初の年は新人のように必死でした。そこで6人くらいいる管理部隊で働きました。そこでは信じられないようなことがあったのです。というのはわたしはここでめずらしくいい上司に会えたのです。この上司はとてもいい。一生懸命仕事をする。部下の面倒を見る。しかも部下を連れてランチに行く。夜もストレス発散のためにみんなで宴会をする。

こういう上司がいるのか。わたしには信じられませんでした。ただ人間ですから完ぺきではないにしてもこれだけすがすがしいところのあるのか。これなら部下も育つだろうな。そんなことは明らかでした。

わたしは1年後に3階下の新規事業の部門に異動。それが不幸のはじまりだったのです。そこでは部門長は仕事はしない。出勤してきてもネットを肩肘ついて見ているだけ。自身はなにも手を動かさない。会議を招集することもなく部下がなにをしているかはメールを見て把握しているふりをしているだけでした。

もうひとりが片腕となって部門を仕切っている。しかしとても陰険なひとでした。そうなるとわたしはその前の上司がよかっただけにとてもがっかり。

サラリーマンは上司次第。1年経過してもなんともならない。そこで出向元の上司に相談したのです。ところがその上司は三菱商事の社員であって出向元ではない。いろいろ相談したのですが異動は認められない。いまいるところで仕事をしろということです。そうとうひどいことをいわれながらも耐えるしかない。わたしが20代のときになんとか成功した方法は通用しなかったのです。

それは上司の上司に相談する。40代になると上司ともそりを合わせることができないといけない。とくに商社というところは関係性というところではプロでなければならない。どんなに理不尽なことがあっても上司には歯向かうことができない。それは相当嫌味をいわれます。スポーツをしてけがをしたときも女性にかまれたんだろと平然といいます。それでも三菱は上司は絶対であることが前提です。

丁寧に電話しているときも横から、そうではなくて三菱商事の者だといって言い聞かせろと、切り込んできます。そのくらい横柄でもやっていけてしまう。

ある見方をすれば三菱は組織と組織をつなぐ。三井は人と人をつなぐ。これは企業文化としていまでも残っているのです。これが特質でありそう簡単に変わるものでもありません。

おそらくはわたしが17年間外資系できたことも災いしたのでしょう。外資系は日本企業よりもやや風通しのいいところがあり自由さが残ります。しかし日本の会社で伝統的な会社は自由がありません。特に三菱は上司が絶対であり、上司の指示がなければなにもしてはならない。そんなところから自由のあった外資からとても窮屈な思いをしたものです。これはある見方であってこうもいえます。

暴力・暴言が横行する外資から陰険・窮屈な国内企業への転職だった。そのため嫌な上司というのはうようよいます。なにかがんばろう、チャレンジしようというところではない。ましてアメリカのMBAというのはまったく別人扱いされるようなところです。

うまくはいきませんでした。ただ振り返ってみるとこうしたらどうだったかと反省があります。それは結果など出さずにある程度先延ばしにして仕事をする。経営コンサルタントのように期限をつけない。生産性をあげない。ゆっくりと仕事をして粘り強く仕事をする。50%くらいの力で仕事をする。

そしてなにより時間が空いた分に運動をする。ウォーキング、ランニング、サイクリング、水泳をとりいれる。すこしやりましたがあれでは足りなかった。ランニングは20キロ。水泳は1時間。サイクリングは40キロくらいでもよかった。そして土日は家族と家でのんびりするだけ。出かけない。

そんな方法があったのかもしれません。しかし当時は家のローンもあり、子供もまだ中学生。お金がかかります。そこでがんばりすぎたともいえます。

40歳を過ぎたらもう上司次第とはいってられない。自分で組織の一員としてやること、やらないことをはっきりと理解してがんばるしかない。解決策はなかなかありません。そしてわたしにとっては最後の勤務先である豊洲にある日本ユニシス。そこではリーマン・ショックという最悪の外部環境と日系企業内にあるコンサルティング部門という最悪の内部環境が待っていました。

そこではおそらく最悪の上司。暴言と陰険を兼ね備えたひとたちの下で働くことになったのです。そこから上司の顔色をうかがいながら仕事をするのではなく、大学という非営利組織に場所を移したという経緯もお話しできるでしょう。

SI(システム・インテグレーション)


サラリーマンは40歳までは上司次第です。成功するか失敗するかは上司の影響を受けざるを得ない。しかし40歳までなんとか仕事をやってこれたのであれば40歳以降は上司次第とは言ってられない。

理由は仕事を一貫して20年近くも続けているのですから手に職はついているはず。また会社がそのような上司を選んだのですからそうそう文句も言えない。上司のいいところを無理やり探して合わせていくしかない。それがサラリーマンです。そのように会社も考える。ならば40歳を過ぎて上司に振り回されることはよくない。

それでも嫌な上司はいます。うようよいます。そういったなかでまずはいかに病気にならないようにするか。失職をせず、転職をせず。40歳を過ぎたら転職の機会はますます減ります。45歳を過ぎたらまずありません。さてそれでも嫌な上司がいるときはどうすればいいのか。それを書いてみます。

ここまでのまとめです。20代では上司の上司に相談してちょっとうまくいった。30代では同じ年の同僚に相談したことで引き延ばせた。コンサルティングはまわりは敵ばかりで上司はいない。そして40代では上司の上司に相談してもうまくいかなかった。そこでがんばることをやめて合わせればよかった。でもできなかった。そんなところです。

ではわたしにとって最後の企業勤務になった豊洲の日本ユニシスというところでの上司の話をしましょう。日本ユニシスというのはSIの会社です。SIというのはSystems Integrationの略。ソフトウェアは開発していない。上流工程のコンサルティング専門ではない。ハードウェアを製造していない。そのほかのシステムまわりのことを全部やるというものです。商社系のシステム会社に多い。例えば伊藤忠エレクトロニクスというのが同じようなことをしていました。

46歳での転職です。もう上司次第とはいっていられない。子供も中学でお金がかかる。家のローンも2千万以上ある。収入源はわたしだけ。そんなときにおそらくこれまで会った上司の中でも最悪に当たってしまった。暴言と陰険さでは格別な上司の下で働くことになった。これは運も悪く、わたしもコンディション作りに失敗していたことが原因でした。

というのは46歳で転職。もう外資系証券会社や外資系コンサルティングと17年働いたわたしの身体は思っていたよりもボロボロになっていました。診察券の数は22枚。週末は毎週のように針をうってもらいマッサージ師にマッサージをしてもらった。その施術期間は8年に及びます。

というわけで新しく入ったところでは身体に力が入らなくなっていた。そこで最初のプロジェクトで夜遅くまで仕事をすることはできなかった。そうしてマネージャーとしてではなく、少し負荷を落としたところのプロジェクトで働くことになった。それで10歳くらい年上の上司の下で働くことになった。ところがなぜかわたしにはつらくあたる。こてこての関西弁でアメリカ仕込みのわたしとはうまくいくはずがありません。

20代に赴任したあの大阪の時の悪い思い出も重なりつぶれてしまった。そんなときどうしようもない。これは入社して半年でもうやめた方がいいと思い部門長に相談するしかない。そこで相談しました。わたしはクビになってもおかしくはないと思っていました。

ところが3ヶ月くらいして別の部門に異動してよいということがわかりました。これは配慮ある計らいでした。こうやって組織が助けてくれることがある。だれが推薦したのかはわからない。それは日本ユニシスという会社が人に対してやさしいところがある。そういった組織文化に助けられた。こういうことがあるんです。会社に来て座っているだけでいいんですか。それでいいんです。上司が指示を出さなければ何をしなくてもよい。そういわれました。

無理にがんばらなくてよい。10階にある医療室はよく使いました。会社内でじっとパソコンに向かい合っている時間は相当ありました。残業なし。休日出勤なし。結果を出さなくてよい。そんな3年ほどありました。

ところが3年してまた人事異動があった。そこはもう配慮なく、計らいなく、仕事をしなければならない。そこでは社長と部門長が対立しているようでした。これがよくなかった。三井物産から来た社長。籾井社長。のちにNHKの会長になったひと。そして部門長は生え抜きの日本ユニシスの出世頭。そんな対立があったとはわからず、わたしはこんどこそがんばろうとしてしまった。それが逆に動いてしまったのです。

大学講師


上司次第なのは40歳まで。40歳を過ぎれば経験と知識を使い仕事ができなければならない。ましてアメリカの大学院でMBAをとってきたのであればなおさらです。周りを見ながらペースを合わせる。これが40歳以上の働き方です。そのひとつ。病気にならない。悪化させない。次に失職はしないこと。なんとがしがみつく。それでよい。最後に転職しないこと。40歳を超えての転職はむしろマイナスです。

相当なプレッシャーのなか、考えた結果はもう上司に振り回されるのは辞めよう。企業勤務を辞めて非営利組織にいこう。そこで出てきたのが50歳で大学の講師になるというものだった。

これを10年続けた。大学講師というものは上司はいない。ここだけはよかった。そのため問題さえ起こさなければとても自由です。ところが大学生は授業中に悪さをする。大学の外でも悪さをする。父兄からのクレームを教務課が対処しなければならない。そこに講師がつきあわされる。そういった呆れることがあったものの嫌な上司がいない。この嫌な上司がいないというのがどれほどいいことか。それがわかりました。

わたしの健康は大学講師になってから次第に回復していきました。どこかで書きますが、大学講師を続けていてもあのままでは回復しなかった。8年後の2018年にはほとんど回復した。あの診察券のピーク22枚はそのままであるものの、使っているのはいまでは歯医者の1枚だけになりました。しかも3ヶ月に一度、きれいに掃除をしてもらうだけ。ストレスからの解放。

どうでしたでしょうか。上司次第。読者の方にとってなにかの参考になりますように。

最後に

嫌な上司というものはどこの会社にでもいる。好きな上司の下で働ける確率はかなり低い。わたしは企業勤務25年間で6社渡り歩いた。そのうちざっと数えただけでも15人の上司がいた。そう振り返れると好きだった上司はたったの3人だった。好きな上司とはどういう上司か。わたしの強みを十分に発揮できる。弱みを補う。得意なものがあり不得意なものもある。そういう環境がほしかった。

50歳になって営利組織から非営利組織に働く場所を移した。もうお金儲けだけはごめんだ。非営利組織ならお金を稼ぐことが目的ではない。あくまでも表向きはそうだったし実際のところそれに近い。教授会や講師どうしの打ち合わせに何度も出席した。そこは現状を改善しようとか課題は何かということは一切話されない。問題は起きてからようやく対処される。そういったところでは摩擦が少なく嫌な上司や同僚はいない。

わたしにとって講師生活10年間は時間が余ってしかたがなかった。そこで50歳になっても前から続けていたボランティア活動は続けた。外国人旅行客を相手にした浅草を拠点とするガイドだ。18年で200回以上浅草を案内した。

また三菱商事の後輩がはじめた海外留学を応援する活動にも参加した。ご意見番として後方にいて主な活動は若い人に任せた。ひたすら業務監査、会計監査のみに注力した。その活動にはMBAをとったひとたちが6人集まった。そのひとりがわたしにエコノミストを読む会というのを紹介してくれた。講師のほかにガイド、監査、そして読書会と参加するものができた。

この10年上司の下では働かなかった。しかし振り返って冷静に考えると上司になってほしい人はいなかったか。お金を払ってでもこの人であれば上司になってほしい。お手本になるひとはいないか。そういうひとはいないかと探した。

長いサラリーマン生活だった。その間わたしにとってあまり気に入った上司がいなかったこともある。しかし余裕ができじっくり観察するとこのひとであればいい上司であろうひとが3人ほど見つかった。そのひとたちを紹介しよう。これは上司次第というタイトルの番外編である。

ひとりは五常・アンド・カンパニーの代表慎泰俊氏。次は彼のはじめたエコノミストを読む会で知り合った木方さんという方。もう一人は他の読書会で知り合った松田さんという方。こういう人の下かあるいは同僚として働きたかった。それぞれ若い人にとってもきっと上司になってほしいと思える人たちだろう。わたしがもしこの人たちの下で働いたのであればもっと違っていただろう。そう思うとなんとも悔しい。

まず慎泰俊氏。わたしはこのひと自身の中にある才能だけでなく、いっしょに働く、いっしょにいるということに多くの学びがあると思っている。彼はわたしよりも20歳も年下である。彼は必ずしも恵まれた環境で育ったわけではなかった。むしろマイナスだった。しかし環境のせいにすることはせず、できることはなにかをひたすら探した。健全な取り組みをしているだけでなく多くの人に共有してきた。

物事を隠すひとではない。体力もあり誠実なところがいい。そういったよいところはいくつも見つけることができる。わたしはこの人のことをいまでも尊敬している。

芸術の才能もある。まさにこれほど才能に恵まれているというのは異例であろう。自分の強みをよく知っている。

次に読書会であった木方さんというひと。三菱UFJで17年間ニューヨークにいた人だ。この方とはエコノミストを読む会で5年ほどいっしょにさせていただいた。この方はこの読書会をはじめた慎泰俊。彼の通った早稲田大学ファイナンス学科で教授をしていた川本裕子先生の上司だったひとである。わたしはこういうひとが読書会にくることだけでも信じられなかった。そのあとそういった境遇とは関係なく彼を観察し意見を聞いた。

どこにも非の打ちどころがないように見えた。何を考えているんだろう。次は何をいうんだろう。とても楽しみにしていた。物事を正確にとらえてとても端的にいうことができる人だ。わたしはこういった物事の本質をとらえて短く表現する。そうしてそういったことを何日も何日も考えて仕事に活かすスタイルを好んでいた。そうすると自分で考えることができる。

わたしにはなにか着火点が必要だった。それから枝葉を作っていくような仕事の仕方が得意であった。そしてときどき修正してくれるひとが必要だった。こういう人の下で働きたかった。そういうことはサラリーマン時代にはなかった。

最後に松田さんという方がいる。この方はPeatixで募集をかけている読書会。ハーバード・ビジネス・レビュー読書会の中で最近知り合った人だ。トヨタ自動車のジャカルタ本社の社長をしている。いっしょにいた時間が短いためあまり多くは書けない。しかし発言を聞くだけでわかる。自ら学んでいる。こういうひとの下で働くことができるのであればとてもうらやましい。彼自身もサラリーマンではあるが会社経営も十分にできるであろう。

わたしは残念ながら長い期間いい上司には巡り合えなかった。15人いてたった3人だったことを考えると不運であったといわざるをえない。しかし多くのサラリーマンは同じような境遇にあるのではないか。

またこれから労働市場に入っていく大学生の読者のひとたちにとってもいい上司に出会える確率は低い。むしろ会えない。会社内の昇進人事には失敗が多い。とくにIT部門にはいない。それはものごとをうまくいいあらわせないひとが多いためだ。ひとりで仕事ができてしまい人付き合いが苦手なひとが多いこともある。しかしITは民間企業にとってはなくてはならないものである。

そういった中で病気になってはいけない。失職してはいけない。転職ですらそれほどうまくはいかない。わたしが6社で働いて成功した転職はたったの1回だった。

それはコカ・コーラからコンサルティング会社のカート・サーモン・アソシエイツ(現在はアクセンチュア・テクノロジーズ)に転職したときだけだった。30代半ば以降の1回だけだった。あとはいずれも失敗だった。そのためやりがいがありなにか力を使って仕事ができた時間は短い。

よかった時期は長くない。上司ともうまくいかない。労働は苦痛である。コンピューターの前に座っているだけで目が悪くなることすらある。肩がこる。その上予想できなことが多発する。だれでもうまくいくようであればこれほど嫌な上司に合うわけもなかろう。

読者にとっていい上司の下で働けることを願うばかりです。