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人権がお金より優先される日が来るのか

23年前の3月のこと。わたしは経営コンサルタントとして物流プロジェクトのメンバーに入った。プロジェクトは千葉県習志野市を拠点にしていた。そこで物流に関するあらゆる問題を解決するように命じられた。顧客は都内にあるイタリアの高級ブランドメーカーだった。日本に上陸して間もないこともあった。イタリア本土から空輸される製品をどのように流通させるのがいいか。そのことでいささか戸惑っているようだった。

わたしはコンサルティング会社から派遣された3人のうちのひとり。ただそのころのわたしは製造や物流の知識がほとんどなかった。あるといえば10年前にアメリカのビジネススクールで学んできたことくらい。あとは他2人のメンバーの経験や知識に頼る以外に方法はなかった。

しばらく現状分析をしてみた。成田空港から製品を倉庫に運ぶ。その倉庫内をつぶさに観察することから始めた。まもなくして我々は倉庫内でいくつか重大な問題を見つけた。収益性より労働環境があまりにもひどいこと。余剰在庫や欠品よりも劣悪な労働環境が稼働率に支障をきたしている。作業をする人たちが床に座り込んで仕分けをしているではないか。これを長時間続けてしまえば身体に影響が出る。それにもっと近代的な倉庫にした方がいいのではないか。

あるオンラインイベントでビジネスと人権というテーマで発表があった。2部構成になっていた。前半では人権擁護のためにどのような行動基準が必要なのか。後半では強制労働のケースをとりあげていた。アメリカや日本の製造メーカーが強制労働で非難をあびた。それ以降株式市場で株価が下落したという。

ビジネスにおいては人権擁護するよりは収益性を優先する。確かに人権リスクはある。ではなぜこのようなことが20年以上経過したあとも繰り返し発生するのだろうか。わたしはイベントの最中自身の経験と知識に照らし合わせてずっと考えていた。ビジネスというものがほとんど人権擁護や人権リスクという要素を加味していない。そういったところにあるのではないか。

ひとつには財務会計がある。次に投資案の評価がある。またサプライチェーン上で需要予測が困難なこと。規模の経済を追求しすぎれば歪が発生しやすい。

財務会計をしたことがある人ならば肉体労働者の人件費のことを知っている。どのように勘定科目のとして計上されるかはご存じであろう。工場内や倉庫内では直接費として見なされる。労務費ともいう。この直接費というのは製品の生産量によって上下する変動費用。製造をする製品の材料や部品と同じ費用項目に入る。見なし方によっては製造現場では肉体労働者は材料や部品と同じ扱いだ。

一方で工場長や倉庫管理者の人件費は間接費であって製造をした数とは切り離された固定費用になる。管理費として見なされる。管理することが仕事であってそのために費用が支払われている。しかしいずれの場合も人件費はコストであって人という財産ではない。企業にとっては製造や物流のために使われる費用負担であること。これが財務会計上の前提であることだ。

わたしはこれまで人権問題に詳しい経理担当者に会った記憶がない。

次に工場や倉庫への投資評価をすること。工場を新設したり移転をしたりする。倉庫でも同じようなことをする。その際にビジネスではお金をかけるため投資案件として評価にかけられる。評価にかけられる尺度は、1.収益性、2.回収期間、3.キャッシュフロー、4.現在価値といったものだ。特にこの中で収益性と回収期間は避けて通れない。

ところがこれらの尺度で評価が下される投資において人権擁護や人権リスクを把握できない。わたしはファイナンスにおいて人権リスクなるものを聞いたことがない。いくつも投資案件について経営コンサルタントして見聞をしてきた。投資の良し悪しを評価するときに人権リスクというのは加味されてはいない。これがファイナンスである。

投資諮問委員会でも人権は話題にしてない。人権についてあったとしても最後の方に小さな文言で書き添えてあるくらいであろう。委員会では最終結論を出すときにはIRR(内部収益率)の期待値を見る。その数値には人権リスクがどのくらいあり回避(ヘッジ)するのにどうするのかというのは数値として投入できない。計算式の要素の中にいれることができない。投資収益率の計算式に人権についてはない。

わたしはこれまで人権問題に取り組むような財務担当者に会ったことがない。

またサプライチェーン上で需要予測が困難なこと。それが過重労働へとつながるのではないか。需要予測というのは最終消費者がどのくらい製品を買ってくれるか。それを正確に予測することは不可能に近い。どんなにすぐれた統計手法を使ったとしても市場で何がどのくらい売れるか。当たらない。確率として6割あれば妥当であろうか。そこで工場や倉庫の稼働率をぎりぎりまで上げて能力100%を達成する。

統計による予測が困難なこと。工場や倉庫では需要予測は当たらないという前提で作業をしている。期日までに製品をいくつ作る。倉庫内で荷捌きをどれだけするというのはあらかじめ計画できない。ただし稼働率は計算できる。そこで能力いっぱいのところまで追求する。すると肉体労働者を過重労働させてしまうことになる。作業場で働く人たちは低賃金労働者が多く過労になってしまうとわかっていても働かされる。強制労働ということになろう。週60時間という労働もありうる。

週60時間というのは1日10時間作業をするいうことだ。立ち仕事をずっとする。月曜日から土曜日まで休むことなく毎日10時間働く。通常であれば身体は壊れる。それをわかっていて工場長や倉庫管理者がさせてしまう。しかも本社にいる経営者もそれをわかっている。

わたしは人権問題に詳しい工場長や倉庫管理者に会ったことがない。

ではなぜそういったことが起こるのか。経済学の理論で規模の経済性というのがある。製品を大量生産すればするほどひとつあたりのコストを下げることができるというものだ。コストには固定費と変動費がある。この文章の最初にあげた肉体労働者の人件費は変動費にあたる。固定費というのは工場の土地や建物、製品を作るためのそして運ぶための機材が含まれる。これは固定費用のことだ。

この固定費を製品ひとつあたりで割ってみればわかる。多ければ多いほど固定費は低くなり製品一つ当たりのコストは下がる。これを規模の経済性という。それで製品が売れたときのマージン(利益率)が上がるというものだ。

この規模の経済性をどこまで追求すればいいのか。ほとんど可能な限り突き詰めてしまう。どこかでひずみができるであろう。機械は常に稼働し老朽化が激しい。労働者は疲弊する。しかし発注があったのならば期限内に作らなければならない。運ばなければならない。それが工場や倉庫で起こっていることである。

経済学者は労働は苦痛と考えている。

わたしたちコンサルタントは習志野地区での工場移転を提案した。稼働率向上による会計上のメリットを指摘した。投資案件としても収益性があがりかつ回収期間の提示をしたのである。さらに労働環境を配慮するように工場内での時間設定や労働環境について提案をした。行動基準というものを作成して提案したのである。

ところが2000年景気がとてもよくなった。そのため本社が強気の発注をかけてしまった。この年はブランドバックやシューズが売れると見込んだのである。そのためイタリアを出発した大量の製品が成田空港に次から次へとたどり着いた。空港から習志野の倉庫内に運ばれた。しかし売れなかった。そのため30億円もの余剰在庫として滞留してしまったのである。

倉庫管理者は倉庫内の収益性には関心がある。それで評価される。ただ庫内で作業者がどのような扱いを受けているのかという報告はしなかった。

なぜ今でもこのような人権擁護や人権リスクというのが話題になるのだろうか。ビジネスでは人権というのは優先度としては低いのではないか。もしそのような実情であるならば何ができるのか。繰り返し注意喚起をする。リスク回避として行動基準を徹底させる。それら以外に方法はないのではないか。

プロジェクトが終了してから20年以上が経過しているのもかかわらずこういった記事が掲載されるのはなぜだろう。どうもまだ現場では人権リスクの問題は回避できていない。

わたしはアメリカのビジネススクールで最高の教育を受けた。それはビジネス戦士になるためのものだった。人権擁護者になるための養成機関ではなかった。わたしはロースクールでなくビジネススクールにいって卒業したのである。そこで厳しいビジネスの世界で自分の肉体と精神を筋肉質にせよというメッセージをしっかりと受け止めたのである。

ただここにきてビジネスばかりともいっていられない。希望の光もある。極めて上位の概念ではあるものの会計においてはインパクト会計というものが開発されている。またファイナンスにおいても同じように極めてルースな枠組みで二重カウントの批判があるもののESGスコアカードというものの評価軸がある。そして本社側から工場や倉庫のオペレーションを監視する経営コックピットなる手法も開発されよう。

ただこれらの手法を用いたところで問題は現場まで正しく落とし込まれているのか。現場がどう判断するかに委ねられている。隠ぺいや不正会計をすれば闇の中に包まれたままだろう。

さてここまでこの文章を読んでいただいた読者はどうでしょう。お金よりも人権が優先される日が来るのはいつになるのでしょうか。