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銭湯を救済すべきか

愛知県豊田市で育った。冬になると近くの銭湯によくいった。そこで見知らぬ人がいてもなんの警戒をすることもなかった。身体を洗って湯舟に入る。ゆっくりとお湯につかっていた。10分くらいつかってから横になって休む。そしてもう一度湯舟につかる。お風呂からあがり温まったあとに牛乳を一杯。これがなんともおいしい。ほんとうにおいしい。

さてこの銭湯。かれこれ60年前に最初の東京オリンピックがあったころは全国で2500くらいはあった。経済成長とともにスーパー銭湯というのが現れた。二度目の東京オリンピックを終えて昔ながらの銭湯は500まで落ちてしまった。

500というのは都道府県50として一県あたり10か所という計算になる。日本のお風呂の普及率は98%まであがったこともあろう。普及率の上昇が銭湯が少なくなってきた理由なのだろうか。

あるオンラインイベントで銭湯が少なくなってきた。救うべきなのかという質問をした。男女2名づつで話をした。そこではシニア・ジュニアと年齢にはばらつきがあった。

救うべきというのは2名だった。その他の2名からははっきりとした回答がはなかった。その中で値段が関係しているのではないかというのがあった。どこでも銭湯であれば400円くらいはする。スーパー銭湯は600円~1000円くらい。ただ銭湯は都内であれば割引価格で200円というところもあると聞いた。それでもいかない。なぜだろうか。

もうひとりはお風呂に入っているだけでそれで帰る。そうするとそれだけのために銭湯にはでかけない。現在は銭湯もいろいろと工夫をしてカフェをつくり音楽を流す。客にくつろいでもらうということもやっている。であればお風呂からあがったあともくつろげる。それで客足が回復している。それでも昔のように混雑はしない。なぜだろうか。

時間に制約はあるのかという疑問点もあった。わたしが知る限りではスーパー銭湯のように2時間以内ということはない。夕方からはじまり11:00くらいまで何時間いてもいい。通常1時間もいることはないが中にいることは許される。それでもいかない。なぜなのか。

身近にあった銭湯がどうしてなくなりつつあるのか。そしてそのことを救済すべきなのか。わたしの答えは以下の通り。

最大の原因は銭湯では見知らぬ人どおしの会話がほとんどなくなってしまったことにある。よく通うひとたちのなかでちょっとした会話をすることが昔はあった。今日はどうだった。いやいや大変だった。ひどい目にあった。風呂仲間からはこんな会話がはじまった。そして答えが返ってきた。

気にするな。大したことじゃない。気楽に考えなよ。またやればいいじゃないか。そんな声掛けがあるだけでよかった。裸同士だから警戒などなかった。家に帰って眠った翌朝またなにかに向かおうという気になった。

そういったコミュニティがあった。ほんの短い時間で狭いところだけど声の掛け合いがあった。銭湯はそこがなんといっても魅力的だった。銭湯というのは気楽にいけるコミュニティ広場だった。

これは救った方がいいのではないか。

高校や大学の運動部ではこうしたつきあいがある。お風呂にはいりながらなにかを話せばすっきりすることがある。愛知県豊田市ではそういうことがなにも不思議でなく行われていた。経済的な尺度で事業として成り立つかどうか。そんなことはどうでもいいはずだった。近所で気楽にいける広場。それが銭湯というところだった。

そんなところが消滅するのは寂しいではないか。なんとか救い出したいものだ。500というのが今後どうなるんだろう。