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月への挑戦をやめない

地元の愛知県名古屋市で大学3年生になった頃のことを思い出す。1980年代のはじめのことだ。なにやら各地でいろいろなことが起こりそうな気配はあった。わたしは名古屋市内にある大学生活にうんざりしていた。こんなはずはない。これだけやっているのにどうも張り合いがない。大学というところはこれほど退屈なところなのか。恐ろしいほど退屈だった。学ぼうにもなにもないではないか。

そんなモヤモヤしたものを吹き飛ばすにはアメリカ留学しかない。それは18歳のときから願っていたことだ。ここでこみ上げてくるものをあきらめるわけにはいかない。わたしの内なる静かな声がよく聞こえた。ただ親がお金を出してくれるわけでもなければ預金があるわけでもない。どうすればいいか。しばらく途方に暮れていた。

新聞だったのか大学の掲示板だったのはさだかでない。どこかで民間財団が留学するひとを金銭支援してくれるという。そこで応募した。一度目はうまくいかなかったが二度目でなんとかもらえた。学力としてもまだおぼつかなかったが無理をしてミシガン州に留学した。結果としてあそこは大きな成長の機会を与えてくれた。

2023年(令和5年)5月7日付の読売新聞に掲載された記事を読んだ。月面着陸に挑んだ新興企業アイ・スペース社。多くの投資家や企業からの支援を受けて月面探査のレースに参加。結果は通信が途絶え成功を確認することはできなかった。しかし社長の袴田氏は月への挑戦はやめないという。

記事ではこのような筋書きで描かれている。袴田CEOは決して強引にひとをひっぱるタイプではない。ひたむきに夢を追うという。それが周りのひとを引き付ける。大学で宇宙工学を専攻して2004年アメリカに留学。新聞には書かれていないがそこはジョージア工科大学だった。現地でアメリカの民間宇宙船が世界初の宇宙旅行に成功したことを見た。

帰国後コンサルタント会社にいるとき東北大の研究者らと組んで月面探査レースに参加することになった。13年前にアイ・スペースを起業した。

しかしスポンサー探しに難航し資金が底をつきかけてしまった。

そんなとき新聞記事をみたある投資家から連絡をうけた。数千万の資金提供があったという。派手ではないけど唯一無二で思いが強い。出資者がどこかに共感した。出資者はそう証言したという。

今回は失敗したが袴田氏は月への挑戦はやめない。

わたしはこの記事を読んで彼が極めて数少ない「成功例」と解釈している。それには強い思い。留学で得た偶然。そして地道な努力。そういったものが重なり合わないとここまではたどりつけない。

まず強い思いを持たないとなかなかできない。名古屋で大学生活を送っていた時からあったのだろう。その形が漠然としたものであったのかもしれない。ただ思いをいだかせるだけの芽があった。いわゆる理系タイプでものしずか。強引でない。けれども燃え上がるような思いがこみあげる。そこに耳を傾けた。

宇宙船の設計を学ぶためにアメリカに留学をする。しかしお金がそれほどあるわけではないだろう。そこで彼は民間の財団にお願いした。

そこはソニーの盛田さんが出資する盛田国際振興財団だった。1年間は金銭支援をしてくれる。その支援を受けて学んでいる間にアメリカの宇宙船開発のスピード感に感銘した。大学のキャンパスの中でも起業家精神にあふれる学生たちがいる。自分も起業したくなった。なにかやれる。やろうという願いが醸成された。

帰国してコンサルティング会社に勤務。仲間を得てアイ・スペースを起業。設立13年という期間ではあるものの民間で世界発となる月着陸に挑戦。この期間は一般的には中期にとらえられるかもしれないが起業をしたひとにとっては過酷な気の遠くなる年月であろう。ほとんど遊んでいる暇もない。家族や友人と旅行に出かけることも少ない。

こういった道を歩める人は極めて少ない。本人の意思と偶然が重ならないとできない。こういうことをやろうとする人が東京に溢れているとは考えられない。どこかで妥協点を探る。そのほうがよい。

わたしが盛田財団からもらった奨学金は1984年のことだった。彼はその20年後に同じ財団から奨学金を得て留学をした。アメリカで偶然に思いを実現することを悟った。

はたして盛田さんが袴田氏に奨学金を渡すときになにをいったのかはさだかではない。しかしわたしは自分がもらった時に彼が何をいったのかはいまでもよく覚えている。「ソニーは他の会社がやらないことをしてきた。今もそういう会社であろうとしているし、これからもそうするつもりだ。留学がんばってきてください。」

わたしはしばらく動けなった。そうかソニーという会社は挑戦をしてきた会社なんだ。挑戦をやめないんだ。まだ働いた経験がなく会社というものがよくわかったいなかった。ただ当時のわたしにとっては彼がわたしに直接いったこの言葉が忘れられない刻印となった。

袴田CEOは間違いなく自分の意思を真摯につらぬき周りの応援と期待に応えている。成功率1%といわれる起業の世界。そして彼の姿をみてたとえ同じようなことができなくてもやってみようという東京の大学生が出てくることを夢見ていたい。一方でそのような過酷なことをしなくてももうなんとか安全な道を選んでもいいではないか。世間の批判にさらされることなく退屈なことをしていてもいいのではないか。

多くの人はどこかで妥協点を探すであろう。いまの大学生は卒業して20年くらいは自分のやりたいことに没頭していてもいいのではないか。他人の言うことなど気にせずに。40歳を過ぎればだれでも挑戦することをやめていく。でもやれるときにはやったほうがいいだろう。

わたしは彼のことを静かに応援している。