理系において男女格差は是正されない

1980年4月。わたしは晴れて南山大学外国語学部英米科に入学した。この大学に入学できたというのはとてもうれしいことであって、中でも外国語学部英米科というのは第一志望だった。ここで英語をじっくりと学びいつかアメリカに留学をする。そういった夢があった。大学がはじまると1年次からほとんどの授業が英語で行われている。それに少々驚いた。あれだけ受験勉強でしっかりと英語を勉強したはずなのに大学の授業になると戸惑うことは多かった。それは内容面において知識が足りなかった。

英米科は180名。そのうち8割が女性だった。学籍番号はアルファベット順になっていて6グループに分けられた。1グループ30名だった。授業は単に英語を使うというのではなくアメリカの政治、経済、社会といった分野を幅広く学ぶ。その中で社会の授業で何やら気になることをとりあげていた。アメリカではEqual Pay for Equal Work。なんだこれは。同じ仕事をしている労働者に対しては同じ対価を支払うという。

これを聞いたのが43年前のことになる。いわゆる男女平等というものだ。男女間で報酬に差をつけてはいけない。女性を待遇で差別してはいけない。わたしはそんなことは当たり前ではないか。なぜあえて大学の授業でそんなことを学ぶのか不思議だった。

今日においても日本の社会では男女間格差は存在する。43年間ほとんど是正されていない。そんなこともあって男女間の格差がどうしてこれほど長い間是正されないのか。そのような疑問に対する研究があればその研究発表を聞いてみたいと思っていた。

東京霞が関で日本ではなぜ理系女子が少ないのかという発表があった。発表をしたのは東京大学教授の横山先生だった。先生は物理学を専攻した人だった。時間は40分。その中でいろいろなことがいわれていたがわたしが驚きを持って気づいたところは以下の3点であった。それぞれについてここで簡単に述べた後、わたしの感想を書いてみます。

ひとつは父親、母親ともに理系進学に影響を与えることはあるが、母親が女子中学生の娘に影響を与えやすいという調査結果があった。母親が前向きに娘を応援すると理系、特に物理学を学び続ける可能性が高いということが示された。父親の影響は母親よりは受けにくいという。

次に物理をはじめとした理系科目。物理学、数学、化学、生物学、機械工学、そして情報科学がある。これらの中でも物理は中学の時に嫌いになってしまうという。驚くことに中学生女子が好きであっても嫌いと演じてしまう傾向があるという。ほんとうは得意で好きであってもなにかしらの理由で嫌いといってしまう。

最後に日本では男子は機械工学。女子は看護学あるいは薬学。そういった理系科目が性別イメージとして強いという。特に女性はそういった科目が就職しやすいとされていて中学の時から化学を勉強する傾向があるという。

発表者はこれらに対してなるべく現状を配慮してトーンを暗くさせることなく発表していた。しかしわたしはこれらに対してとても憂慮している。どういうことだろうか。

まず中学1年生というのは13歳。そこから3年間で学ぶ。東京在住の中学生はほぼ100%自宅から通う。家には母親がいて生活をサポートする。勉強においても何かしら意見を言うであろう。しかしどんな科目がいいかというのに母親が影響を与えるというのはちょっとおかしい。また母親から影響を受けてしまうというのもちょっとおかしい。

13歳というのはまだ成人ではない。しかしながら好きな科目は自由に勉強させたほうがいいだろう。いたずらに母親が理系の科目に娘だから向く、向かないといった口を挟まない方がいい。もちろん、間違った方向にいくのはよくない。

次に中学生がアンケートで物理が嫌いと嘘をついてしまうという。これはちょっとおかしい。嫌いと演じるということは合点がいかない。そんなことをするメリットがあるんだろうか。周りの目が気になるのか。ほんとうは好きなのに嫌いという。おかしい。そうする必要もなかろう。そういったところを学校側が救ってあげるような工夫はできないのか。物理が好きと言って何が悪いのか。わたしには理解できないアンケート結果だった。

大学の理系学部では男子学生は8割に上る。女性は2割くらいだという。その中で女性は看護学あるいは薬学というイメージが強い。これは理解はできるもののすべての女性は看護学でもないであろう。また薬学というのはかなり難しい科目だ。

少々、誇張した言い方にはなろう。どうして女性は差別されていることに対して腹を立てることをしないのか。同じ大学に入学して同じ授業を受けているのである。そして研究機関に就職しても同じように働いているではないか。それなのに男性に比べて給与が低い。また、男子の方が役職が上。おかしいと思わないのだろうか。

明らかに意図的に性差別が行われていると考えてよい。別に男子だから、女子だからというのではなく、機会の平等という前提がある。同じ大学で勉強をして、就職においても同じ給与、同じ役職でやればいいのではないか。まさかわたしが大学を卒業してから40年が過ぎても男尊女卑ということがあったとしたらおかしい。日本は他の国と違って特別だからという理由は通らない。

ありえないことだが会議において男性の方が上座にすわり、女性は出入口の近くで席を取る。あるいはお茶くみなどをしていることはもうなかろう。会議というのは何かを決めることであって、男性に対して女性がお茶くみをするところではない。それでいい決定ができるとは考えられない。また、女性が静かにしているだけであって何も意見をしない。ならば会議に参加している意味がないではないか。議事録を読めばよい。

男性がそういった女性の立場を理解してサポートしたほうがいいであろう。すると男性から何かしら変な目で見られるのかもしれない。しかしそれでは男女間の格差はなくならない。

繰り返しになるけど差別をされているだ。つまり低く見られており、低く給料が抑えられている。これはおかしいでしょう。かわいいね、といってくれるなら、お金をくれといった方がいいだろう。きれいだね、といってくれるならえらくしてほしいといった方がいいだろう。

日本は格差をなくしてこなかった。機会は平等でなく意図して差別が残った。ならばあきらめるしかないではないか。

わたしは43年を経てこのような議論が出てくること自体がどこか国としておかしいという気がしている。だれも性を選んで生まれてはこれない。お腹にいる時に自分で男女を選べないのである。であれば性別により差別がされていることに変だとは思わないのか。男性社会からの反逆はあろう。でもどこか不公平、理不尽。

実はわたしはこの問題についてはもうあきれている。あきらめてさえいる。大学で10年経営学の授業をして学生の発表、レポート、授業内の質疑を観察してきた。どう見ても女子学生が男子学生より劣っているとは見れなかった。

企業研究の授業をして成績評価をしてきた。そこで男性>女性という分布には一度もならなかった。それが社会で反映されないということはおかしい。

それだけ社会は闘争、摩擦、挑戦といったものにまみれているということなのだろうか。だとしても女性は怒りを露にしてもいい。