おしゃべり会のハプニング回避策
4年以上前の2020年2月からリモート会議へと移行した。ほとんどの仕事はリモートになり対面でされることはなかった。コロナで日本では外に出て自然免疫をつくることはしない選択肢がとられた。代わってワクチン接種による免疫策をとった。その政策の是非はこれから評価されることだろう。
4年経過したがいまでもわずかながらコロナによる患者は発生している。完全には消えることはないだろう。もうひとつ完全に消えないものとしてZoomによるオンライン会議がある。ほとんどの会議が対面へと移行している今日においても続いている。
いまでも有志の人たちで集まるミーティングがある。学習と宣伝をしている。実はそれほど学習できない。無料であるためお金を払う必要がない。得をすると誤解する。見つければあればボタンひとつで誰でも参加できてしまう。参加のハードルは低い。
オンラインのため手軽である。お金を失わなければ命も奪われない。身体的損傷は受けることはない。一方でハプニングが頻繁に起きる。罰則がないため反則行為が起きる。そんなとき受けるのは不自由さと精神的な不快だ。だれもそれを補償しない。
前回、ここで聞き専という選択肢があるという文章を書いた。そこでハプニングが起きた。起きる前と後を時系列に書くとこのようになる。時間が来てミーティングがはじまった。10人が集まった。そこで二つに分けられて5人の部屋が2つできた。
いつものごとく自己紹介はない。どんなひとかは素性を知らない人ばかりだ。たまたま日本橋の交差点で会った人と変わりがない。
だれかが話題を提供することになっている。たまたまいつも提供をしないひとが口を開いた。話題は原子力発電に賛成か反対か。そういうものだった。普通はこういう話題は知り合いでなければ話さない。得てして深刻な内容になりがちだからだ。
しばらく皆だまっていた。すると反応者が出た。とても意外は反応だった。「そういう話題にはもううんざりしている。」
どうしたんだろう。うんざりするような話題でもない気がする。そうして怒りが収まらない様子が続いた。
「退屈な話題でもある。」ますますエスカレートしていく。そうなると会話として成立しなくなる。他の3人はだまって怒りが収まるまで聞いていかざるを得ない。そうしているうちに他の2人が別の部屋から入ってきた。
他の2人はこうだった。ひとりは主催者。もうひとりは初めて参加したひと。もうひとつの部屋にいた人たちであったが、他の3人ははじまって10分もしないうちに退出してしまったという。仕方がなくもうひとつの部屋にはいってきた。しかし来た部屋は険悪な雰囲気の真っ只中にあった。
わたしは原子力発電という重たい話題であっても30分の対話は可能だと思っている。ただし素性のわからない人同士でやるには危険が伴う。その話題に詳しくない人。またその時の気分で話したくない人がいるからだ。そういうズレのある中で話すには偶然性にかけるしかない。では原子力発電についての話題を話すにはどうしたらいいか。
ひとつには電力の問題は複雑であるということだ。公益性の高い話題ではあるものの問題は一つの視点では済まない。多視点である。
まず歴史的な背景がある。人類が火を起こした。それによってさまざまな面で生活が便利になった。そのひとつは火を起こすことで電力を生み出すことができた。この電力というのが明かりをともす。人類の活動時間は日夜問わず活動することができるようになった。いうまでもないことだ。
しかし火というのは危険である。いまでも火が起こることにより人が死ぬということが起きている。火災であったり爆発であったりする。火が存在するかぎり人の生命が奪われる危険はある。では電力をあきらめることができるかというとそんなわけにはいかない。火の歴史、電力の歴史というものから話を始めなくてはならない。
歴史だけかというとそれだけでもあるまい。次に科学の側面がある。電力源はどんなものがあるか。電力を起こすには石化燃料(石油)、石炭、ガス、再生エネルギー、そして原子力がある。この原子力発電は3%にとどまっている。この水準を10%くらいまでに高めたいという意図はある。数字の上からすれば原子力という選択肢は残る。
しかも原子力はクリーンエネルギーとして知られている。ガスや再生エネルギーとともにクリーンである。再生エネルギーというのは風力や太陽光による発電のことをいう。二酸化炭素の排出はない。なければ地球温暖化への悪影響は抑えられる。暑い夏に向かわなくなる。
二酸化炭素排出は年々と膨れ上がりこの70年で5倍になってしまった。各国の政策はまだ足並みがそろっていない。政策論議が出てくる。
その中で欧州だけはクリーンエネルギーに向けて政策的な動きが起きている。炭素税の導入である。税制を導入することで2050年までに達成しようと動き出した。ところがアメリカと中国ではそのようには動いていないという悩ましい現実があることも事実だ。
しかし原子力というのは100%安全とはいえない。基準はつくることができる。しかし地震が発生して原子炉が破壊されれば放射能汚染は免れることはできない。2011年、福島第一原発事故の汚染を除去するには海水を使い30年かかるという。2050年になっても汚染が消えない。それだけ深刻な事故だった。
こういった問題は複雑でも話し合うことは可能であろう。しかしそのときに集まってきた人の面子、その時の気分、そして強い反対意見があった場合には不発に終わることがある。改めて言うと偶然性にかけるしかない。
わたしは黙って聞いていた。しかし反応者はこのように反応すべきではなかったか。この問題は複雑すぎる。難解であり、状況や問題が複雑で扱いにくい。そのように反応してよかったのではないか。それを踏まえたうえで表面的な会話はできたであろう。
新聞紙上で取り扱われている話題は表面的であり、水面下で起きていることに過ぎない。単なる合図にすぎないこともある。長い年月を経ないと解決には向かわない。それで一定のパターンを読み取ることができよう。
強い反対意見が出たためにぶち壊しに放ったが、これを教訓にして話題として提供できると思っている。
この5年続いているおしゃべり会。いっさいフレンドリーな会話になったことがない。不快になってやめていくひとが続出する。それでもどこかで成立する可能性がある。それには芸術家のような力量が必要であろう。風変りな詩人といえようか。そういう逸材が要求されよう。