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「死」とは何か 第9章

1ヵ月前の7月8日(土)いわぎく主催の読書会に参加した。その時には第7章と第8章が対象だった。それぞれ死ぬまでに考えておくべきこと、死に直面したらどうするか。それについてイェール大学のシェリー・ケーガン博士が解説している。わたしは読書会の中で4人のグループに入室した。そこで死に直面した場合の例をあげた。

イェール大学に通う3年生が死の宣告を受けたときどのような行動をとったのか。わたしならどうするかというのを発表した。その学生は残りの2年をかけて卒業したという。わたしがそういう状況であったのならおそらく授業をとって卒業はしていないだろうと話した。ただ静かできれいなキャンパスにいることは理解できる。

仕事をしているときに死の宣告を受けたらどうしたか。あと2年しか生きられない。いままでしてきた仕事を辞めてどうするか。そこでは3つの仕事をした経験にもとづいて話した。17年間してきたITの仕事だったらすぐ辞める。給料と仕事の量が割に合わないため。6年続けた金融の仕事。辞める理由はお金のことばかりで他にないためとした。

ただ4年続けたコンサルティングはすぐには辞めないだろうと話した。仕事は忙しいけどあの問題解決をする仕事の中身は気に入っていたこと。死ぬとわかっていても半年くらいは続けただろうと話した。

イベント前

さて8月12日(土)読書会の最終回がある。そこでは第9章自殺をとりあげる予定がある。シェリー・ケーガン博士はこの問題を合理性と道徳性という点から話をしている。結論めいたことからいうとほとんどの場合は理にかなっていない。そう博士のいっているとかなり単純化して理解した。合理性を理解するには自殺をするのはどんな状況の時なのか。そして冷静な判断ができるのか。その2点について解説している。

状況については二状態要件という考え方を使っている。さらにグラフをつかって人生の良し悪しについてどう線が描けるのか。いくつかの例を出している。ここはなかなか説得力がある。そして冷静な判断ができるのか。できない場合があるという。

わたしは13年前に企業勤務を辞めて大学講師になったときに相当に疲れていた。疲れがピークになっており何を考えてもうまくいかない。そうだったようだ。あのまま会社に残るという選択肢もあった。しかしそれを捨てて大学の講師になる道を選んだ。あのときの状況がケーガン博士のいっている状態に近い。つまり冷静でない状態だった。

博士のいっているのは実はもっと悪い時の状況である。病気でなにも正気で考えられない。惨めさ、苦しみ、挫折、失望に満ちているとき。変性疾患(p312)、ひどいやけど(p319)、拷問(p325)を受けている、あるいは足に病原菌が入り、切断するしかない(p361)とき。そんな状況を想定しながら話をしている。

ここまでの状況ではなかった。ただ疲れがピークに達していて何もうまくいきそうにないと考えていたことは確かだった。死ぬことを考えていたわけではない。ただ、博士が黒板に描いたグラフのひとつがとても状況曲線として似ている。それは本の317ページにある図9・3のことだ。博士のレクチャー・ノートから引用すると24.3になる。右上のグラフだ。

矢印(↑)のあるところまではいろいろあったがそれほど苦しくはなかった。わたしにとって2010年というのは矢印をつけてもおかしくはない時期だった。病院に通うことが多くなった。ストレスまみれでなかなか睡眠ができない。体重も標準をはるかにオーバー。仕事も手につかなかった。27年間の仕事の中で最悪の時だったといえる。

そのときに横軸として良し悪しに使っていたのは仕事での成功と給料という要素だった。仕事で成功すること。そして給料を稼いできて家族と楽しく過ごすこと。この二つを考えて過ごしてきた。だがあの時の心身の状態は普通ではなかった。

わたしは仕事を変えた。女房に何度も相談した。そして健康になることだけを考えて過ごした。5年経ってもほとんど変わらなかった。グラフにある底の状態だった。振り返るとわたしはもうずっとよくはならないと思っていた。ああ、このまま睡眠もできず、普通にしていても疲れもとれず、それほど負担のない大学講師の仕事をしながらも症状は改善せず治ることはないとあきらめかけていた。

ところが5年くらいした2015年の6月から急に外を歩いたり、調子のいい時には軽いジョギングをしてみた。汗をたっぷりとかいて家にもどってきた。30度以上の夏でも外を歩いた。この頃に一体なにが起きたのかはわからない。それを習慣にして3年くらいしたころには不思議と睡眠ができるようになった。ものごとにこだわるところはなかなか直らなかったけれども睡眠が改善した。

そして2018年くらいからは医者に通うことがなくなった。目もよくなった。近視、乱視、遠視とすべての症状が出ていて眼鏡を3本、4本と持ち歩いていた。ところがなぜか眼鏡をかけなくても見えるようになった。パソコンに向きあっている時間を減らしたことも効果があったのであろう。スマホを買って持ち歩かない。iPhone SE第一世代を2台。家のWifiで使っているだけだ。

パソコンやスマホをやらなくなると緊張しなくなる。疲れがたまらず眠れるようになる。睡眠薬は不要になる。目がしょぼしょぼしなくなる。周りが見えるようになった。眼鏡をかけなくてもクルマを運転できるように免許センターから許可された。そうすると食事がおいしくなる。なにを食べてもおいしいと感じる。これは不思議だった。

この2010年からの経験を土曜日の読書会では話す予定でいる。この経験以外には第9章に書かれていることに似たことはない。

ケーガン博士は続ける。道徳性はあるのか。これを功利主義と義務論の観点から説明している。いずれも道徳性を証明できないという。功利主義とは幸せが不幸を上回るようにという結果主義を指す。義務論は道徳というのは結果以上の意味を考えないといけないという。

この部分はあのハーバード大学のマイケル・サンデルのJUSTICEという講義第1回でもとりあげられている。いかにも哲学を学ぶときに興味がわき、かつ深みにはまる例だ。哲学は感心しない。苦しいことばかりを考えて危険でさえある。サンデル教授もそう警告している。一方、ケーガン博士は臓器移植のケースと同意原則について解説している。苦しいくだりが書かれている。

こういった授業では意図的に緊張状態をつくりだし心の葛藤を描き出す。そこではどちらをとっても苦しい場面を想定する。緊張と対立の中で決断を下さなければならない。でもそれが哲学いや学問全般に共通していることであろう。そこから数々の理論が生まれてきた。大学の研究というものは理論をつくるところである。

さてわたしが理解したところでは、自殺には合理性はない。ほとんど理にかなっていないと理解した。また道徳性においては哲学では自殺の論証や説明が完全にはできない。また聖書の中に答えはない。ただ、博士は自身の結論めいたこととしてほとんど道徳性はないが正当な場合があるとしている。

さて8月12日(土)のイベントはどんなひとと話ができるのだろうか。わたしのエピソードは参考になるのだろうか。大学生の読者の方々にはあまり向いていない話題であろう。この読書会に参加することはお勧めしない。社会人とシニアのひとばかりだからである。

イベント後

イベントに参加してきた人は12名。3つのグループに分かれてディスカッションをした。わたしの部屋には4名いた。若い女性がファシリテーターを担当。他はわたしを含めて3名でシニアの男性と若い女性だった。男女半々という構成だった。

わたしは番が回ってくるとイベント前に本を読んで理解したことを話した。合理的にはほとんど説明できない。理にかなっていないこと。道徳性もほとんどない。ほとんど哲学では論証できないこと。

ケーガン博士が想定している状況はまず普通ではありえない状況だということをとりあげた。変性疾患(p312)、ひどいやけど(319)、拷問を受けている(p325)、病原菌がはいり足を切断しなければならない(p361)。こういった状況はあることはあるがごくまれであること。

そういった肉体的な苦しみに対して精神的な苦しみが考えられるという指摘があった。惨めさ、苦しみ、挫折、失望に満ちている状態。しかしイベントに来た人たちはそういうひとたちではなかろう。お盆の最初の土曜日の朝7時から精神的な苦しみを抱えているひとが参加してくることはありえない。そこが不思議ではあった。このひとたちは何をしに参加してくるのだろう。

イベントの振り返りとして気づき3点書いておこう。いずれもわたし以外の参加者からの指摘にもとづく。まず理性を使って合理的に考えるよりも感情を使うためケーガン博士のいっていることが難解であったという感想。合理的に思考しない。次に安楽死ということについて。苦しみながら死にたくはないということ。最後に家族に迷惑をかけない介護施設の充実について。そのための社会保障の充実。いずれもわたしはこういう点は気づかなかった。

はじめに生きるか死ぬかという判断を感情で決めるということ。これはどういうことだろうか。おかれている状況が楽しいのか苦しいのか。希望があるのか失望しているのか。夢があるのか夢がないのか。もしこのような判断基準であるとしたらケーガン博士の合理性は冷静には理解できないだろう。

ケーガン博士は哲学的に合理性のある思考を提示している。つまりロジックとしてまた理屈としてどうするのかということである。つまりなるべく計算ができるように考えることを前提としている。感覚で説いているわけではない。横軸に時間をとり、縦軸に良い悪いとしている。きわめて理屈として成り立つかどうかが判断基準である。感情はぶれやすい。あてにならないはずだ。

というのは良いというのは多くの場合には成功していることをいう。それは経済的成功でありお金をたくさん持っているのか。働いているのならば稼いでいるかということ。イェール大学というお金持ちがいくエリートに向かって講義している状況設定だ。きわめてまれな苦しい状況でないかぎり18、19歳の大学生だあり親が4500万円を支払う能力があるということだ。親に支払ってもらっていく大学である。卒業後はお金持ちになること。これが希望であること。なれなければ失望であろう。

そのために良いということは卒業してロースクールか医学部に進学する。そしてニューヨークでお金を稼ぐ。それを意味している。それ以外にはありえない。そうでなければイェールにいくことはない。イェールというところはそういうところであろう。感覚的でなくロジックで説明しないとイェールの学生には理解してもらえない。

次に安楽死という話題があった。わたしは自然死を望んでいる。しかし参加してきた3人は安楽死を否定してはいなかった。それどころかひとりの女性は80歳くらいになったら苦しんでいたらヨーロッパにいって安楽死をしたいという。続けてもうひとりの女性はそういうときは自分の終わりは自分で決めたい。その選択肢を持ちたいという。苦しみながら死ぬのは嫌だといっていた。ほんとうだろうか。

わたしはいかがなものなのか。そう思って聞いていた。よく聞くのは死ぬ2日くらい前まで楽しいことをしていたということだ。そういうように過ごしたいと答えた。

最後に社会保障について話題になった。社会保障の充実を希望していること。それにより介護が充実してほしいといっていた。介護がうまく受けられて家族に迷惑をかけなくて済む。介護施設にはいって余生を過ごしたいということだった。確かにそうであろうが家族と過ごさなくて楽しいんだろうか。

だれでも年をとれば身体がいうことをきかなくなる。それは事実であろう。わたしの両親や女房の両親を見ていればよくわかる。しかし本人の体調管理と健康管理によって健康な時期は伸ばしていくことができよう。食事、運動、休養によりよほど不摂生な生活をしなければ75歳までは健康でいられよう。それ以降はわからない。無理をしなければ80歳を超えて90歳でも健康でいられる。

何をしているかというとケーガン博士が本に書いているように小説を書く、庭の手入れをする、家族と楽しく過ごす、友人と会話する。そういった楽しみを持ちながら健康、金銭、そして教養を再新再生すればいいのではないだろうか。決して不可能ではない。