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劉少奇の四清運動への対応 1962-65

席宣 金春明《“文化大革命”簡史 第3版》2006年
魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
張裕編選《王實味到劉曉波》自由文化出版社2013年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

  劉少奇は毛沢東が提起した四清運動、五反運動に積極的に参加。結果として、自らが打倒される結果を招いたようにも見える。1962年、劉少奇が国民経済の調整に動いたとき、毛沢東は階級闘争をあくまで主張した。
   1962年9月に開かれた中共八届十中全会。ここで毛沢東は引き続き単独経営主義(單幹風),翻案風などへの批判をくりかえした。これらの風は分裂主義、修正主義に通じるものだと批判を継続拡大したのである。
 日本で一般的な理解は、七千人大会で毛沢東は、大躍進の失政を問われて失勢。その復権を図ったのが文化大革命ということにされている。しかし実際のプロセスをみると、毛沢東の発言に、劉少奇以下党幹部が服従を続け、それに振り回される構図はむしろ、七千人大会以降、強まっている。事実、1962年、毛沢東の意向で処分される人は増え(劉志丹事件 作者の李建彤だけでなく、蕒拓夫、習仲勛,劉景範の失脚につながった。)、過去の大きな案件は見直されなかった(彭徳懐、鄧子恢など。彭徳懐は1962年6月と8月二度にわたり党中央に対し再審査、正しい処理を求める書簡を提出した。)。
 1963年2月に行われた中央工作会議で毛沢東は、農村において四清運動、都市において五反運動と呼ばれる社会主義教育運動を展開することを求めた。四清とは、帳簿・倉庫・財物・工分(労働点数)の清理(=処理の徹底という意味だが、幹部のやり方を改めるという意味があるだろう)、五反とは、汚職・投機・浪費・分散主義・官僚主義に反対するというもの。いずれも幹部の腐敗を正すもの。確かに、権力者の立場になった幹部の腐敗を正す必要はある。この時の劉少奇の発言をみると、幹部から新たな資産階級が生まれた、それと闘争する「階級闘争」である、という言い方、あるいはかつての三反、五反よりもさらに大規模にやるべきだ、といった発言がみられる。口で階級闘争をいうだけではだめで、実際にしないのは良くない、とも言っている。その限りで劉少奇も四清を担ったことになる。
 その後、農村をターゲットにした社会主義教育運動をさらに進めるとして、5月に前十条、11月には後十条と呼ばれる文書が、正式に中央政治局から発出された。いずれも毛沢東自身が起草したとされる。その原文はまだ見つけていないが、伝えられる内容は、階級闘争、社会主義教育、貧下中農階級隊伍を組織すること、四清を進めること、幹部は集団労働に参加、この5年間は階級闘争が最も基本的であり、階級闘争を要とすること。
 実際にどう進めるか。ここで一定の役割をしたのが、劉少奇の奥さんである王光美(この人は物理学の修士で米国留学経験もある才媛である。第一夫人として華やかに活動したことが江青の妬みを買ったとされている)。この王光美が行った農村調査も影響があったとされる。それによると、幹部に問題があり、それゆえにただ団結を強調することは正しくない。下層に依拠するべきである(つまり下からの告発であろうか)。
 1964年に入ると、農村での四清運動、都市での五反運動の先頭に劉少奇自身が立つようになっている。また王光美の『桃園経験』と題された報告書が、四清のいわばお手本を示したものとして流布されている。党幹部の相手に階級闘争をする、といった毛沢東の議論は、明らかに文化大革命に通じるもの=党内での暴力的な争いの面がある。劉少奇の奥さんである王光美が、『桃園経験』で報告した内容(幹部の腐敗)も、文化大革命のあと、関係者が名誉回復されたことからすると、冤罪であった。王光美はこのようなでたらめな報告書をまとめた点で(政治的理由があったと推察できるものの)批判を免れないだろう。
 1964年表面的には劉少奇は毛沢東に従っている。おそらく党を分裂を避けるという観点から、劉少奇は表面的には毛沢東にしたがっている。1964年12月20日、中央政治局常務委員会拡大会議。そして12月24日、中央政治局拡大会議。劉少奇の抵抗の記録が残されている。
 ここで劉少奇は、主要矛盾は四清と四不清との矛盾であり、人民内部の矛盾と敵味方の矛盾が、四清運動では一緒にされているとして、主要矛盾は何かを議論するべきだとしたのに、毛沢東は、問題は社会主義派と資本主義派の対立であり、群衆を動かして四不清の実権派(当権派)を取り除く(整)ことが肝心だと言い返している。
 その後、毛沢東のこのような考え方に沿った文書が十七条として印刷して配付される(12月28日)。そこに至る議論で劉少奇は「資本主義の道を歩く実権派」という表現に対して、そうした人がいるとしても少ないので派という表現は行き過ぎだと批判した。
 12月28日、中央工作会議全体会議。ここで毛沢東は第八回大会それに中華人民共和国憲法を持ち出して、われわれは言論、集会、結社の自由を認めているのだから、四不清の人々は、結社をつくれるではないか、論じた。多くの人々は、毛沢東が何を言い出したかが分からなかったが、これは毛沢東が派という表現を行き過ぎとした劉少奇を批判したものだった。
 1965年1月3日、劉少奇は三届人代で国家主席に再び当選する(また国防委員会主席を兼任した)。ただ毛沢東の劉少奇への不満は収まらず、1月5日、四不清は反社会主義的であり、重点は党内の資本主義の道を歩く実権派を取り除くことにある、と改めて述べている。これも劉少奇の言い方を批判したものだった。なお作ったばかりの十七条は、長すぎたり複雑な条文があるとして停止され、改正が加えられて、二十三条が改めて発出された(1月23日)。
 一連の会議を通じて、毛沢東と劉少奇の考え方の違いが明らかになった。朱徳や賀龍たちは劉少奇に、大局的判断で毛沢東を立てることをもとめた。こうした意見を受け入れて、劉少奇自身も毛沢東に対して、自己批判を行い、反省ぶりを連日毛沢東に報告した。毛沢東は、ここで劉少奇の反省をとりあえず受けいれる態度をとり、両者の対立問題は乗り越えられたかに見えた。しかし二人の対立が根深いものであることは、間もなくあきらかになる。
 『桃園経験』が示しているように、四清運動はそれまでの中国共産党の思想粛清運動同様に、目標を立てそれを現場におろすことで、被害者あるいは冤罪を作り出す側面があった。劉少奇は結果的にそれに加担しているし、党内実権派への攻撃は、最後は劉少奇自身への攻撃になった。
 四清運動と並行して、修正主義に反対するとして、党内では農村工作部長鄧子恢(1896-1972  三自一包 自己責任:自負盈虧,自由市場、自留地と請負生産:包産到戸 と批判された),対外連絡部長王稼祥(1906-1974  三和一少  帝国主義・現代修正主義・反動派に和、そして革命派・民族主義に支援が少 と批判された)、統一戦線部長李維漢(1896-1984  資産階級に投降したとして)がそれぞれ批判された。経済学者孫冶方(1908-1983)が、中共中央から露骨な言論弾圧を受けたのも1964年、この四清運動の最中。劉少奇はこうした毛沢東側の圧倒的な包囲のなかに孤立していたと、考えることもできる。しかし、毛沢東への反撃の機会は本当になかったのか。「文化大革命」という悲劇を座視する以外の道はなかったのか。疑問は残る。

#劉少奇 #毛沢東 #四清

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