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劉少奇 労働運動左傾の誤り 1937/02

(これは劉少奇が1937年2月20日に洛甫つまり張聞天に送った手紙である。『劉少奇自述』国際文化出版公司, 2009, pp.45-47)

p.45  我々の1927年前の中国大革命の教訓的認識について、私はすべて同意している。しかしその中で一点(指摘したいのは)、それは1927年前に我々がなお「左」傾の誤りを犯したこと、しかも労働(工人)運動の渦中において犯したことだ。この一点を私は繰り返し提起(提出)し、また何度も機会主義を犯したとの批判が私に繰り返された。しかし私の意見は今まで保留してきたところだ。そこで、私は今後の工作に大変大きく関係するところについて、あなたにとくに今一度提起する。
 私は現在ただ過去の労働運動を語っている。疑いがないのは、1927年前、労働組合(工会)の労働者の利益を保護する取り組み(工作)は、多くはできなかったし、行き渡らず、とくに労働者立法の方面では、何も作れず、右傾的であった。しかしこれで労働運動において、「左」傾がなかったことは証明できない。当時、長沙、武漢、広州などの都市において、労働者の中の左傾の誤りは深刻(厳重)だった。
 もし汀州の労働運動が左傾していずこに道理があるか(岂有此理)ということを見て、もし某同志がソビエト区の国家企業の労働者の要求の行き過ぎを嘆き、努力もしない仕事が「左」傾でごまかされている(というなら)、それなら君に言いたいのは、まだたいしたことではない。1927年前の武漢、長沙、広州の労働者の「左」傾の誤りは、この10倍もひどいものだった。
 企業に倒産を求めたり、誰もが驚くほど賃上げさせたり、(名目上はなお10時間以上のままで)労働時間を毎日4時間以下に勝手に短縮したり、思うままに、人を捕まえ法廷監獄を作り、船や汽車を捜査したり、思いつくまま交通を止めたり、工場店舗を没収分配したり、このようなことが当時は一般的であたりまえだった。労働組合は第二の政府であり、かつもっとも力があった。命令がもっとも行き渡る政府であり、その権力はときに正式の政府を上回っていた。君も聞いたことがあるだろう。このようなことが汀州のような小都市で起きたらなお問題は大きくない。しかし武漢のような都市、あのような多くの労働者がこれを起こしたとき、問題は人を本当に驚かせることになる。そこで私は問わねばならない。これは一体なにか?左なのか右なのか?
 このようなことが起こされ、起こされるほどひどくなる。社会にも経済にも、人心上も重大な影響があることは疑いない。企業の倒産、資本家の閉門と逃亡、物価の高騰、品物(貨物)の不足、市民の恨み、兵士と農民の反感(当時多くの都市で労働組合は農民協会が指導する農民により襲撃(搗毀)を受けた)、軍官と国民党による非難、これらは左が行きすぎるほど(厳重程度)高まることになった。労働組合運動は当時、共産党が指導していたので、これらすべての非難は共産党にふりかかった。人々は労働者を責めず、労働者が共産党の指示に従っていることを批判した。このことは共産党と各方面関係に影響している。
 当初人々は共産党に対策(辦法)、この情景を改めることを切実に求めた。すなわち、政府は全く労働者に直接干渉せず、当時の共産党もまた自身の責任を認めず(責無旁貸)、この状態を改めようとしない(という情景を)。しかし共産党はいまだにこれを改めることができず、これが拡大(発展)するのを阻止もできず、人々をしてほかの出口(解決策)に向かわせた。すなわち反革命という陰謀を起こすことであり、反革命暴動を組織することである。
 共産党は労働者がこのようなことをするのを阻止するべきであるが、説得が十分でなく、(労働者を逮捕するような)強制的(強迫的)方法を用いると、労働者の反感を引き起こすことは免れないだけでなく、労働組合や党への信頼を多いに失うだろう。かくして一面では労働者の組合と党への不満、他面では国民党とその他の多くの人々が組合と党を非難していることで、反革命はより活動できこれらを利用する。組合と党はさらに孤立し、地位はさらに困難である。このような状況であるので、西安2月2日の如き暴動事件発生しない状況でも、われわれのもっとも近い人が我々から離れ、党に反対するスローガンと方針のもとに暴動が進められたのである。当時群衆の規律はなお大変良く、彼らは党の命令を待っていた。反革命に侵攻する命令を。
 当時の誤りはすべて反革命に侵攻する命令を出さず、各方面の反革命を粛清せず、ただ群衆に退却を命じ群衆闘争を阻止し、群衆の武装を解除し反革命暴動に抵抗しなかったことにある。結果は失敗であった。
 以上はわれわれの国民党との合作の中期および末期の出来事である。現在再び我々は合作の初期にある。ここで上に述べた教訓から学ぶべき一点がある。合作の末期に2月2日のような暴動が起きたとき、我々の態度は同じであってはならない。
 大革命の失敗は疑いなく右傾の誤りである。しかし失敗する前、かなり前から、「左」傾の誤りがなかったとはいえない。この種の「左」傾の誤りは反革命を助け、右傾を助ける。西安の「左」傾の誤りが右派を助けたのと同じである。
 現在の問題は、我々の「八七」会議以来、過去に「左」傾の誤りがあったことを認めず(不承認)、過去のすべての「左」傾の誤りを認めてしまい(批准)、このような「左」の行動を最も革命的行動としている(認爲)ところにある。何事も正さずただ持ち上げる。かつかつての「左」傾の誤りを語るものは、すべて機会主義だとし、中国無産階級を信じないものとする。10年にわたるこの種の教訓を、今日それを西安の群衆運動の中に進める人がいたとして、君は彼にそれは正しくないといえるだろうか?
 私は西安の「左」傾の誤りを現在研究するときに、10年来の我々の歴史教訓問題を思い起こす(提到)べきだと思う。この歴史の教訓を各人が深く考えるなかで、不正確に解決したら、以後多くが糺されずに残ってしまう。
 私はこの問題はかなり奥深いと感じる(感覚最深)、また常にこの問題を考えている。いまは私の、感じていることと、経験を手身近に君に伝えたい。

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