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李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85   2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。

p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。
 鄧小平は林彪と同様に、歴史的に毛沢東のお気に入りの部下だった。これには歴史的な理由があり、早くも1930年代の江西で、鄧小平は毛沢東に従ったために迫害され(挨過整)免職されている。毛沢東の中共党内の地位が上昇を続け固まるとともに、戦争年代に鄧小平は重用され始めた。1949年のあと、毛沢東が発動した「反右派」運動で、鄧小平は確固とした(堅定的)執行者だが、経済建設方面では、彼は基本、劉少奇、周恩来の側に立った。文革が始まり、「劉鄧は打倒された。」毛沢東にとり劉少奇は必ず打倒するものであった。しかし鄧小平については叩いたが倒さず、その党籍を除かなかった。林彪事件後、鄧小平は毛沢東に対し、懺悔の手紙(悔過信)を書き、永遠の忠誠(永不翻案)を誓った。毛沢東は鄧小平を起用したが、わずか1年後、四人組の反対により鄧小平は再度打倒された。
 1978年に改革開放の先鋒を務めたのは胡耀邦、趙紫陽らであった。胡耀邦はまず二つのことを成し遂げた。一つは「兩個凡是(二つのすべて論   毛沢東の決定と指示を守るとした華国鋒の1977年2月公表の主張。訳注)」を批判し、真理標準(実践こそ真理の基準である 実事求是の議論 訳注)の討論を起こしたことである。二つは、誤判えん罪(冤假錯案)の名誉回復である。これは毛沢東の文革で死罪と定められたもの、併せて毛沢東が繰り返した政治運動を基本否定するもので、彼(毛)が織り込んだ意識形態の網の目は一本の縫い糸(胡耀邦)により裂かれたのであった。その時、二つのすべて論の批判、誤判えん罪の名誉回復に、陳雲は賛成した。鄧小平は胡耀邦の側に立ったが、胡耀邦のように徹底していなかった。「西單の民主の壁」事件の処理、魏京生が裁判で刑罰を受けたこと、これは明らかな証拠である。1979年理論務虚会p.83   の中途転向、すなわち胡喬木の反対、彼(胡喬木)は鄧小平のために「四つの堅持」の報告を書いた。1980年に鄧小平は李維漢から封建主義的意見に批判を受け、「党と国家の指導制度の改革」と(題した)長文を発表した。残念なことに、まさに始めようとしたとき、また胡喬木はポーランドで発生した団結組合事件(ポーランドでは1980年8月グダニスクでストライキが発生。その後9月には自主管理労組「連帯」が結成され、以後、「連帯」はポーランドにおける民主化で大きな役割を果たした。この李鋭の指摘から示唆されることは、1980年の前半と後半で鄧小平の発言に変化があるのではないか、ということであろう。訳注)を利用して中断(腰斬)し、(これは)一枚の空文に終わった。問題は鄧小平本人が「権威主義」的(という表現に)賛成したことにある(私は中央顧問委員会でこの種の伝達を聞いた)、彼は中国はいつも必ず(總得:必須)「一個人が言っておしまい」だと認識していた。
   鄧小平と陳雲、この二人の政治老人の関係は、鄧小平の言う所では、「一緒になること(攏)は議論しない」「ただ奥さんがひとりでいるようなもの」である。それゆえ胡耀邦がまだ在位の時、常任委員会は開かれなかった。改革開放で鄧小平は比較意思強固に、例えば「特区」を作ったがこれは画期的(創挙)であった。陳雲は「鳥籠経済」を堅持していた。これは原則での分裂(原則性分岐)であった。意識形態では、鄧小平は「資本主義や社会主義化を問題にせず(不問姓資姓社)」「黒猫か白猫かにこだわらず」「踏み石を探りながら川を渡った(摸着石頭過河)」、既存の正統理論の制約を破り、それを敢然突破した。これはとても大きな功績(功労)である。そして陳雲は古い格式(舊框框)から飛び出したりしなかった。1989年に中央顧問委員会が出した「一号文書(文件)」は陳雲が哲学問題の学習について語ったものであり、(そこには)陳雲(のほか)趙紫陽、胡啓立、李端環の1987年以後の談話(も)掲載されているが、そこで陳雲は言っている。「レーニンの『帝国主義論』は過去のものではないと。」
 鄧小平は胡耀邦を多年指導し、とても早くに趙紫陽と萬里をよく知り、彼ら三人を使い始めた(啓用)のは完全に正しいことだった(陳雲は胡耀邦に別の見方をしており、彼(胡耀邦)は人事で「青紅幫」を用いると。)。1980年代半ば、この三頭馬車(三架馬車)を鄧小平は全力で支持し、積極的に支援(肯定)した。
 小さなことを別にすると、胡耀邦と趙紫陽二人の共同作業は良いものだった。ともに経済体制と政治体制の全面改革に賛成であった。しかし鄧小平と陳雲の老人お二人の全面改革についての見方は一致していなかった。そこに「左の親分(左王)」二人、胡喬木、鄧力群が機会をとらえて鄧小平、陳雲の老人お二人の間に活発に(穿梭)人を貶め引き離す話を大いにした(大進讒言)。彼らは胡耀邦や趙紫陽にも意見があることを尊重しなかった。たとえば1983年に陳雲は胡耀邦を非難しようとしたが、これは鄧力群がわざと騒ぎを起こそうとして(興風作浪)その後、鄧小平が制止したもの。この二人の「左の親分」は改革開放にとても破壊作用をなしたが、もっともはなはだしかったのは思想文化領域で、まず「精神汚染除去」(運動 訳者補語)を行い、その後
p.84「資産階級自由化」を批判した。前者は28日続いただけで、胡耀邦、趙紫陽により相次いで(聯手)制止された。鄧小平は十二届六中全会で、反資産階級自由化をなお五十年行なわねばならないと述べた。このお二人の「左の親分」は鄧小平と陳雲の間をぐるぐる回って、たえず邪まな風を吹き付け、材料を送り付けた。胡耀邦と趙紫陽の間の挑発離間を図ったのである。1986年に鄧力群は、陸鏗の胡耀邦の訪問談話の記録を鄧小平に提出し、導火線を作り、鄧小平の怒りを起こさせ、1987年1月の「生活会」のあとの胡耀邦辞職を招いた。1987年春、陳雲、王震らは鄧力群を総書記に引き上げようとした。私は1987年7月11日に鄧小平に手紙を書き、趙紫陽も反対を表明する手紙を書いた。鄧小平は鄧力群の職務を解き、この危機を制止した。
 1989年の「六四」風波で、鄧小平は「一党独裁(専制)」であることを表明し、必ず彼「一人が言えば終わり」という面は少しも緩めてはならない、さらにいかなる変更もできない、とした。学生運動鎮圧に軍隊を出すこと、この種の毛沢東が生きていても誰もできなかったことを、鄧小平はそれでもやってしまった(卻幹了)。「六四」期間、彼は李鵬と李錫銘の「学生運動」を貶める嘘の報告(謊報)を聞き、軍事戒厳を実行することになった。肅克、張愛萍ら7名の上将の連名による武力鎮圧に反対する上書も彼は採用しなかった。中央顧問委員会の4人、杜潤生,李昌,于光遠そして私は、民主と法治の軌道上学生運動を処理する趙紫陽に賛同し、また軍事戒厳に反対した。のちに我々を数ケ月批判し、我々の党籍解除を準備したが、陳雲が陳雲が我々4人を保護に現れた。彼は言った「この種のことを再びすることはできない。さもなくては後でまた名誉回復が必要になる。」「六四」のあと趙紫陽は解職され、軟禁されて世を去った。改革開放は中止され、後退さえした。(鄧小平は1992年の「南巡講話」で「十三大政治報告は1字も変えることはできない」といった話、これが何か役に立つだろうか?)
 江沢民が引き継いだ時、鄧小平の家で小さな会が開かれた。鄧は江に言った。「毛が居たときは、毛が言えば終わり。私がいるときは、私が言えば終わり。貴方がいつでも言えば終わりなら、私は安心です。」しかしかれは思いもつかないことだったが、彼が最も堅持、最も関心のある市場経済の道を歩むことに逆転の危険が出現した。当時江沢民が行った「反和平演変(平和裏に体制転覆が図られていることに反対する)」の報告は、私営企業の人に「傾家蕩產(全財産を失う)」を迫るものだった。1992年春、鄧小平の「南p.85  巡講話」は、経済上夭折の危機局面にあった改革開放を救った(挽救了)。現在、鄧、陳の二人のご老人はもうおられない。二人の「左の親分」が騒ぎをおこすこともない。これは世界と同じく前進するに良い形勢である。第二の「歴史決議」、毛沢東晩年の錯誤失策を総括すること、鄧小平に対しこれと同様に処理(辦理)すること。かくして全面改革開放の道は今一歩良く歩める。
 三十年の経済体制改革を経過して、我が国の経済総量はすでに世界第四位に躍り出ている。しかし代価はあまりに大きい。エネルギーや資源の損耗、環境の破壊でもまた世界の最前列にいる。さらに恐るべきは汚職、腐敗がますます激烈であること、抑えがたい勢いであり、大小の腐敗分子が手段を持て遊んで(上下其手)互いに結びついて(互相勾結)共産党を利益集団に沈没させ(淪爲)新興の権貴資本主義(エリート資本主義)と官僚資本主義を構成したことである。この数年、中央指導(部)は連続して「和諧社会」「人をもって元ととなす」「科学発展観」「物質、精神、政治三大文明」などの治国方針を相次いで提出。これらの善良な願望は三十年前の「四つの堅持」に明らかに勝っているが、しかし真面目に実現(落實)するには、(その)前提は、再び一党独裁の古い道を歩くことはありえない。必ず人類社会の進歩的普遍的価値規律である、自由、民主、法治、憲政により国を治め民を管理すること、に寄り添い促進するものでなければならない。これは政治体制改革というこの古くて難しい問題に及ぶものであり、その解決にもはや猶予はない。政治体制改革は様々な切り口があるが(千頭萬緒)私はまず言論自由の開放を建議する、輿論による(政治)監督を実行する、そして県庁クラス以上の党員指導幹部の個人収入、家庭財産を申告報告させ、公示入手させる。少しでも早く二十年前の党の十三大(1987年開催 訳注)に提出された政治体制改革を始めるためには、党と政治の分離、政治と企業の分離、法により国を治めること、憲政の実施が不可欠である。私はかつて、十五大、十六大、十七大の招集開会時に、連続して三回中央に上書を送り、この戦略の実施を促した。ここでこの文章の機会を借りて再び訴える。中国共産党の執政党地位の合法性のため、国家、民族、天下一般の人々(天下蒼生)のため、政治体制改革(の必要性 訳者補語)は切迫しており、時は待ってくれないのだ!


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