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鄧小平の「留学」 1920-27(20.10-26.1在仏 1926末までモスクワ)

矢吹晋『鄧小平』講談社学術文庫2003年によっている。まず胡耀邦の家は、四川省公安県。重慶の北方100kほどの丘陵地帯の農村にあり(pp.17-18)、それなりの規模の地主だったとしている(pp.18-19)。先祖は明朝の高級武官だったと(pp.19-22)。お父さんは四川省の軍閥に仕えていたとする。その家に長男として生まれ(1904年8月)、私塾で学んだあと、地元の学校が整備されるにしたがって、初級小学、高級小学、中学と学んだ(p.25)。
   15歳で中学を終えると、重慶に開設された「フランス勤工倹学」のための予備校に合格。1年後1920年9月11日、フランスに向けて船で出発している。16歳のときである(pp.26,34)。

 マルセイユについたのが1920年10月19日。汽車でパリに移動(以下pp.34-47による。この16歳から23歳の多感なときの経験というのは、感心させられる。さまざまな地域での学校での学習経験。さまざまな工場での労働経験。さまざまな手法での長距離の移動。さまざまな言語・文化との接触。それらが鄧小平の人間として多用な環境で生き延びる力や知恵を成長させたことは間違いないだろう。鄧小平という人を考えるうえで、モスクワを立って中国に向かう1926年12月末を仮に欧州との別れの日として、この6年以上にわたるこうした欧州文化との接触、多様な経験は見落とせないことではないだろうか?)

 最初は1921年の3月までノルマンディーのバイユ―中学で学んでいる。
 そのあとは、21年4月からクルーゾの鉄鋼工場で3週間働いている。このあとパリに一度戻り、22年2月からシャレットのゴム工場で半年働き、11月から翌年1月までブルゴーニュのシャテイヨン中学で学び、23年1月にシャレットにもどったとされる。なお1922年冬に中国共産党に入党している。
 そして1923年6月に欧州社会主義青年団の常務委員に選ばれてからパリに戻り、機関誌「赤光」の編集長として活動した。1925年頃からは在仏中国人の運動を指導するようになった。ピヤンクールのルノーの工場でも活動したとされる。
 1925年5月、上海でおきた五三〇運動に呼応して、留学生たちはパリの中国公使館に押しかけたが、結果として大量の国外退去処分者を出し、警察の監視が厳しくなった。 
 警察による摘発の動きもあり、パリから国際列車で、ベルリンを経てモスクワに向かったのは1926年1月7日。モスクワではまず東方大学でそれから中山大学で学び、年末までモスクワに滞在。1927年春、モンゴル砂漠を経て、中国に戻ったという。 


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