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陶希聖「陳独秀について」1964

(解題 以下は陶希聖《記獨秀》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.123-138  の翻訳である。陶希聖は内容からみて、陳独秀のおそらくもっとも身近にいた友人の一人といえる。幹部派、反対派、トロッキー派などさまざまな左派グループの関係や考え方、その中での陳独秀(1879-1942)の位置、などを考える上で参考になる資料である。陶希聖(1899-1988) は中国の近代政治史で大きな役割を果たした人物の一人。経歴をみると、様々な要人との交流も多く、蒋介石(1887-1975)のブレインの役割をした人物のようだ。この記事は、《傳記文學》第五卷第三,四兩期に当初発表された。  またnet上の陶希聖年表から発表時点は1964年と確認)

p.123  一 独秀との出会い
   私が独秀と初めて会ったのは民国十六年(訳注 1927年)であった。武漢政権のもと、各県の農民協会は「土豪劣紳の打倒」「指導地主の打倒」を叫ぶとともに、彼らが土豪劣紳の紳士そして読書人としたものを逮捕、拘禁、殺害し(打殺)、併せてこれらの人の土地を没収した。この種の闘争と恐怖の影響が、軍の中に広がった(進入)。士官兵士たち(官兵)の不満(怨恨)がいかに大きかったは、想像できる。士官兵士たちの家族が殺され、土地を没収され、飢えて死ぬ以外の道がない状況に陥った。それゆえ国民党左派から共産党右派までは、農民運動の行き過ぎ(過火)を正す方法(糾正辦法)を提起した。共産党総書記の陳独秀は、とくに自ら軍事政治学校に来て、全校の学生教職員(全校員生)を招集し、軍人家族の土地を保障する方針を表明した。
 軍事政治学校の学生教職員が運動場に方形に並び、その中に木製の講演台が設けられた。独秀は学校の校務委員会常任委員会の惲代英を伴い、隊列の中間に進んだ。彼が演台の上に立つと、四面を囲ませて話をした。
p.124 私は政治教官で、行列の最前列にいた。これが私が独秀に出会った最初だった。

          二.八七会議
 武漢の共産党分離時期、共産党内部はすでに分裂していた。モスクワではスターリンとトロッキーが「中国革命問題」であらそっていた。モスクワが武漢に派遣した鮑羅廷と羅易もまた争っていた。「農民運動の行き過ぎ」はすなわち両派の闘争の一つの重大な焦点だった。武漢の共産党分離のあと、第三インターは羅民那兹を中国に派遣し中共中央全体会議を招集開会させた。開会された場所を知らないが漢口あるいは牯嶺であり、開会時日は民国十六年(訳注 1927年)八月七日である。この会議はそこで「八七会議」とよばれる。
 八七会議は瞿秋白(チュー・チュウパイ)を総書記に推挙し、独秀が機会主義者として排斥された(被斥)。すべての職務を解任されたが、なお党籍はとどめられた。八七会議のあと、中共は暴動路線を採用した。そこで南昌暴動、広州暴動、汕頭暴動があった。そのほか毛沢東が湖南で発動したものの不発に終わった。いずれも皆失敗におわった。

   三.  中東路事件
 独秀は(職務を)共産党に解職されたあと、上海に隠れ住んだ(匿居)。モスクワではスターリンとトロッキー両派の闘争がさらに激化した。中国共産党もまた両派にわかれた。その一つは幹部派であり、その二つは反対派である。幹部派はスターリンに従い、「帝国主義第三期」と「革命の高まり(高潮)」を大声で叫んだ。これに対して、独秀の一派は「革命の退潮」をp.125   認めていた。
 スターリン(に従う)幹部は、中国社会を半封建半資本主義社会と認定しそれゆえ中国革命は「無産階級に指導される労農同盟(工農聯盟)を中心とする農民革命」だとした。トロッキー(に従う)反対派は、中国社会は資本主義社会であると認定し、そして現段階は資産階級民主革命の段階だとした。
 反対派のスローガンは国民会議の招集開会であった。このスローガンは1905年のロシア革命失敗の後、取消派のスローガンだった(訳注:1905年のロシア革命失敗のあと、皇帝はゼムストヴォ:議会の設置を認めるが、立法権を与えるかと選挙資格をどうするかで議論が続いた。ここで取消派とは議会の設置を求める動きだけか、あるいは立法権がある議会の設置と、公平な選挙資格を求める動きまで指すのか、曖昧さが残る)。そこで幹部派は独秀派を取消派と呼んだ。
    民国十八年(訳注 1929年)に中東事件が発生した。ソビエトロシアが大軍を我が東北の国境線に集結させ、かつ大量のスパイ人員を派遣して、我が東北に進入し、破壊活動を行った。東北地方の(国民党の 訳者)部隊はこれに応戦し、満州内部とチタ(赤塔)の戦闘があった。
 幹部派は李立三の指導のもと、「帝国主義のソ連への侵攻に反対する」そして「武装してソ連を擁護する」などのスローガンを唱えて、到るところで集団行動を扇動した。独秀は異議の堅持に努め、併せて、反国的なスローガンや行動をするべきではないと言って、幹部派を指弾した。
 幹部派と反対派はついに決裂した。陳独秀、李季,彭述之、高語罕ら百余人が幹部派により党籍を除籍された。

  四. 反対派の離合集散(分合)
    反対派はもはや(不止)一つの組織ではなかった。
   陳独秀と彭述之らは「無產者社」を組織した。
p.126     王平一らは「戦闘社」を組織した。
 モスクワの中山大学学生たちは《我々の話》を発行した。
 任曙、濮一凡らは「十月社」を組織した。
 独秀は共産党党籍を除籍された後、各派の協力(合作)を務めて促した。彼らは一度は「連合委員会」を共同して組織した。後には「中央執行委員会」を成立させ、幹部派に対抗(抗衡)した。

        五. マルクス主義理論家
 反対派の内部は統一できなかったが、マルクス主義の理論上は優勢であった。『向導』時期の中共知識分子の最大多数はすべて反対派の列に加わったといえる。
 中共党で本当に『マルクス全集』を読んだことがあるもの、『資本論』の3つの大冊(三大本)を読んだことのあるものは少ない、たとえば李季、劉仁靜から彭述之らは、すべて幹部派により除籍され、反対派に加わった。
 私は上海に住んでいて、『新生命月刊』に参加し、同誌に寄稿し、併せて新生命書局を運営(主持)した。私は『新生命月刊』でいつも反対派の理論を紹介し、併せて批判した。また新生命書局は、貧しくとも卑しくはない(貧而無剷)知識分子の原稿を受け付け、彼らが原稿料を稼げるようにした。

p.127   六. 独秀の逮捕と法廷審理
 幹部派の反対派に対抗(對付)する手段は、政府の警察機関や秘密工作組織への密告であった。実際は、反対派は暴力破壊政策を放棄し、平和民主路線を採用し、すでに政府の注意するところではなかった。しかし幹部派が密告したとき、警察機関は、共産党組織のどの一派であるかを区別することなく、捜査逮捕(破獲)した。
 民国二十一年(訳注 1931年)十月、幹部派の密告により、独秀の文書通信(交通)が詮索され把握された。詮索が続けられ、独秀は逮捕された。この事件は学術界と出版界を揺り動かした(掀動)。翌年(1932年)4月の、江蘇高等法院の開廷審理は、学術界と出版界を震え上がらせた。
 四月十四日、十五日、二十日、3回開廷され、二十六日に判決が下された。
 独秀と彭述之とは共同して文字により国を裏切る(叛國)不正な宣伝(反宣伝)を行ったとしてそれぞれ十三年の懲役刑(徒刑)、十五年の公権剥奪となった。

    七.両派の北平における衝突
 独秀の逮捕と法廷審理は、北平(現北京)の各大学学生の関心と衝動を喚起した。 
    まず北京大学の学生が三院において(譯學舘)大講堂(大禮堂)集会を開いた。胡適先生に文学革命と五四時期の独秀についての講述を求めた。胡適と独秀はともに文学革命と五四運動の関係者である。それゆえ胡適が独秀を語るのは最も適切だし、唯一適切な人だともいえる。
 二三の大学学生が代表を立てて私に講演を求めてきたが、私はすべて謝絶した。私は
p.128   彼らに言った。「私は五四運動に参加したが、白話文学運動に参加したことはない。当時私は独秀を知らなかったし、胡適の授業を受けたこともない。私は陳独秀について講演しようがないのだ。」
 朝陽大学の幹部派学生は講演会を企画し、馬哲民に主講演を依頼した。馬哲民は幹部派の取り巻き(附和者)だ。彼は武漢時代の陳独秀について述べて、投機主義だったと批判した。馬は武漢政府で農民部長を担当していたと自称したが、実際は武漢時代は『民国日報』の編集だったに過ぎない。
    北平大学法商学院学生は最初の大講演会を企画し、許徳珩, 施夏亮(存統),劉侃元それに私にそれぞれ参加して話すことを要請した。私はなお謝絶した。そのとき施夏亮が私の家にきて、私の意見を聞いた。私は必ず参加するというものではないと彼を説得した。講演会の時間になると、象坊橋法商学院の大衆が蜂のように湧き出てきた、大声で話しながら大門の中へ進んだ。警備の人たちはただ大門を閉じるしかなかった。許徳珩はまだ到着せず、劉侃元は来ない、ただ 施夏亮一人が会場に入り。演台に上がって話した。
 施夏亮が一足で演台の上に上がると、反対派の学生が拍手し、幹部派の学生は誤ったかのように無変化だ。彼は第一段で文学革命を話し、独秀の努力を高く評価した。幹部派学生は制止の声を上げ、反対派が学生は拍手した。彼は第二段で武漢時期まで話した。独秀のいくつかの言葉を批判すると、(今度は)反対派が制止を始めた。第三段で彼は独秀が逮捕にも屈しないことを総括結論とし、幾つかの言葉をほめると、幹部派は制止を一斉に叫び、彼は黙ってこっそりと講堂をでるほかなかった。
 この人は法商学院を出ると、人力車に乗り、真直ぐに学院胡同,我が家の大門に入り、怒りで気持ちの整理がつかない様子で(氣急敗壞)客間に足を踏み入れ、(私と)会うやこういった。「あゝ、あなたの意見を聞くべきだった(我沒有聼你的話。我沒有聼你的話)」
 p.129    私は笑って答えた。「飯を食べるのに話すことは必要でないし、話すのは飯を食べるには不都合ですよ。」(訳注 教えるならただ教えればいいので、この種の闘争に巻き込まれる必要はない。このとき施夏亮は中国大学で教えていた。)

      八.  列尓士の組織
 独秀が逮捕されたあと、反対派は一時、弛緩した状態におちいった。劉仁静はトルコ(土耳其)からトロッキーに逢い、命令を受けて上海に戻り、再度力を集めようと(重振旗鼓)組織を作った。劉が総書記となった。
 劉仁静は北京大学出身である。五四時期、彼は学生運動の中で大変活躍した。彼は『マルクス全集』を読み終えた、中国共産党の一理論家である。彼には独秀の様な人を引き付ける力(號召力)はなかったし、彼の組織はまた強くもなれなかった。又それは大きくもなかった。しかし反対派の発展は幹部派の発展は幹部派の思惑を超えるものであった。幹部派は独秀が入獄したのであるから、反対派は雲散霧消(烟消雲散)するだろうと思っていた。彼らは反対派が左傾知識分子の間で、幹部派よりもさらに発展するとは全く考えてなかった。
 幹部派は共産党地区の中で、反対派あるいは反対派とされた人々を、何のためらいもなく虐殺した(大肆屠殺)。共産党地区の外では、密告そして暗殺の手段をなお用いて、迫害を加えた。
 トロッキーは劉仁静に書き与えた手紙で、彼を「列尓士」と呼んだ。劉はその後、誇って自称(自詡)するようになった。反対派の中で、トロッキーに会い、彼の指示を受けた人はほとんどいない。おそらく彼だけだろう(民国三十七年(1948年)冬、劉仁静は南京を離れ、行方不明となった。察するにおそらくは(諒必)殺害された)。

p.130   九. 六七年の沈思熟慮
 民国二十六年(訳注 1937年)七月七日、盧溝橋事変が発生した。八月の間、政府は政治犯を大赦した。独秀は出獄した。共産党により党籍を解除され、幹部派により密告されて、逮捕され入獄するまで八年であった。逮捕され入獄してからは五年であった。独秀自ら出獄後の感想(意見)は、「ソ連の二十年にわたる経験に基づき、沈思熟慮の六七年で」確定されたものだとする。彼が言う六七年とは、すなわちかれが共産党の組織を離れ、上海に蟄居し赦免出獄するまでの時期を指している。
 この「六七年の沈思熟慮」で確定した感想とは何か?独秀は出獄後、最初、南京の陰陽營に住んだ。私は週に二三度訪問した(訪問了兩三次)。のちに武昌に行き、糧道街の狭い路地(一條小巷子裏)に住んだ。私は彼を10回以上訪ねた。最後に彼は重慶に至って江津に転じ、私は彼と会う機会がなかった。彼は毎回私と議論し、いつも彼の思想の移り変わり(轉變方向)を鮮明に表現した。

 十. 左翼自由主義
 マルクスからレーニンまで、レーニンからスターリンまで、共産主義は大きく(強烈的)変化した。同様に、陳独秀から李立三まで、李立三から毛沢東までの変化も大きかった。共産主義は時代に応じそして環境に応じ変化している。
 すなわち十九世紀の終わり、ロシアのマルクス主義の父プレハーノフの思想が初期社会民主労働者党を牽引した(指導了)。プレハーノフは疑いなくp.131  正統的マルクス主義だった。初期社会民主労働者党もまた疑いなくマルクス主義の組織だった。しかしのちのボリシェビキからすれば、それは左翼自由主義に他ならなかった。同様に『向導』時期の中国共産党はスターリンの教条主義と毛思想までを比較するなら、やはり左翼自由主義である。
 独秀は一人の屈強な人である。彼が逮捕されると、北京大学の教師友人たちは彼にマルクス共産主義の放棄を促した。彼はあらゆる勧告を、一律に拒絶した。彼はすでに共産党を放逐されているのだが、なお真正のマルクス共産主義者であると名乗った(自命)。一人忠誠を守る心意気であった(而有“耿耿孤忠”之概)。しかしまた彼には堅強な民族自尊心があり、また明確な民主思想があった。この二種の成分は、彼のあのマルクス主義思想体系の内に存在していたのだが、“六七年の沈思熟慮”を経て、彼の民族思想と民主主義はマルクス主義の境界(藩籬)をまさに突破し、かれの“最後の見解”を形作った(小冊子『陳独秀最後の民主政治についての見解』は民国三十七年(訳注 1948年)重慶で出版された。この小冊子には彼の十篇の文書(文字)がまとめられており、かつ巻頭に胡適による序文がある。独秀と私との議論は、この十篇の文書が発表されるはるか前のものである)。

 十一.  容共の本旨
 独秀と私は、(孫文)総理の容共政策を議論した。彼は言う。「中山先生の容共は民族主義のための容共であり、民生主義のための容共ではない。中国国民党の友人たちはついには(竟將)民生主義を共産主義に追随させ、共産党とともに動いた。あれは極端に誤っていた。」
 彼は言う。「中山先生は反英である。彼は広州で革命を唱道(導)し、必然的に反英である。なぜなら広州は香港の勢力であり、彼は英国の勢力下で革命を唱道するには、反英である必要がある。中山先生は中国に自由平等を求めるために反英であり、反英のために、それゆえ(方才)ロシアとの連携(聯俄)を決定した。もしソ連が誠心誠意中国を援助するなら、中ソの連合ができ、英国の勢力を東方の外に排除できれば、中国は自由平等を求めて得ることができる。」
p.132 独秀は言う。「中山先生の容共は、全民族の力量を結合するためであり、中国に自由平等を求めての容共であり、共産主義のための容共ではなかった。」彼は言う。「容共のために共産主義を堅く信ずるのは、それは共産党員であって、もはや国民党員ではない。」
 彼は言う。「アジアは列強の植民地そして准(次)植民地だ。ロシア革命がロシア帝国を打倒した。中ソ合作が英国勢力をアジアの外へ再排除すれば、それは単に中国が民族自由を得たというだけでなく、アジアのあらゆる民族がみな自由を得られたということである。」彼は言う。「不幸なことソ連は帝国ロシアの帝国主義の伝統を受け継いでおり(承襲),中国共産党はまた進んで(甘心)ソ連の侵略道具になった。中山先生はもし御存命なら、反対されたに違いない。もし中共がソ連の走狗とならなければ、ソ連の侵略政策は成功することはなかったろう。」

 十二.共産主義とナチズム(納粹主義)
   独秀は共産主義とナチズムは同一の範疇に属していると指摘した。両者はともに民主政治に反対し、極端な独裁制(極権専制)を実行した。両者ともに、民主政治と自由主義とは、相容れることはできない。
 ある日、私は独秀に会いに出かけた。私が彼の住まいの大門を入ろうとしたとき、李公朴があわただしく出るのを見かけた。独秀は部屋の中で、話始めると笑った。「君は李公朴がなんであんなに急いで走ったかわかるかい?僕は彼を断ったのさ(他碰了我一個釘子)。」(李公朴は救国会、いわゆる七君子の一人。彼の体は小さく太っていて、彼の顔は黒い中に赤かった。)
 独秀は言う。「僕は公朴に言ったんだ。君たちは共産党と一緒に反ファシズムを大声で叫ぶ。悪くない、現在、ソビエトロシアとナチスドイツはぶつかっている。中共はソ連ロシアに代わり旗を振って大声で支援を叫んでいる。反ファシズムだと。君たちは、ソビエトロシアがある日、ナチスドイツと協力して、イギリス、フランスにに対応することに備えた方がいいと。公朴は、ソビエトロシアとドイツの協力はありうる(可能的)と答えた。」
p.133  独秀は続けて言う。「僕は公朴に話した。君たちは抗日だ。もっとも抗日だ。君たちは備えた方がいい。ソ連がある日、日本と妥協して、日本に南進を奨励して、英米に対応することに。そのとき君たちもっとも抗日的な人たちは、いかに転身するか。」
 独秀は言う。「僕がここまで言うと、あの公朴は顔を紅潮させて、くるっと後ろをむいて出て行ったのさ、挨拶もしないでね。」
 私は笑った。「李公朴の顔がさらに赤くなったんですか?」独秀は大笑いした。
 残念なのは独秀がこの世を去ったとき、ソ連とドイツの「不可侵協定」そしてソ連と日本の「中立協定」はいずれもまだ締結されてなかったことだ。彼は自身の目で、ソ連とドイツ、そしてソ連と日本との妥協を見ることはなかった。彼の遠くを見通す見識は特筆に値する。

 十三. 党を組織することも復党も意図しない
 私は独秀に聞いた。「党を組織するつもりはないのですか?」
 独秀は答えた。「もし我々が本当に唯物史観を確信するなら、一つの社会に、一つは殺人放火強盗の、そしてもう一つは無産階級民主政党だという、二つの共産党があるはずがない、と知るべきだろう。」彼は再三党を組織する意思はなく、さらに復党の意思もないと説明した。
 独秀が出獄のあと、羅漢は南京に到り葉劍英と面会し、南京を経て西安に回って林祖涵に会い、また武漢に至って唐必武と会った。毛沢東の意見によれば独秀は無条件投降すべしであった。同時に独秀に復党の意思がなければ、彼が何をしようと無関係だと(他的奔走沒有什麽結果)。

p.134   十四. 無産階級民主
 独秀の「ソビエトロシアの二十年の経験、沈思熟慮六七年」からえられた結論は何か?彼は共産党は無産階級民主政党であるべきだと考えた(以爲)。彼は無産階級民主は資産階級民主と同じように、集会、結社、言論、出版の自由があると考えた。
 彼はもしも大衆民主が実現しなければ、いわゆる「無産階級独裁」は必然的にスターリン式の少数人の独裁(専制)に移行すると考えた。もし民主制が実現しなければ、スターリンの死後、誰であれ一人の独裁魔王になることは避けがたい。
  それゆえ独秀は自身をトロッキー派とは認めなかった。彼はトロッキーとスターリンは同じで、資産階級民主の政治の真実の価値を理解できなかったと指摘している。彼はトロッキー派はただスターリンに反対しただけで、スターリンの罪悪が無産階級独裁の結果だということを分かっていないと考えた。

 十五. 悪辣な(惡劣的)攻撃
    中共の党と追随者は独秀を自由にはしなかった。独秀が南京から武漢に移ってのち、華中大学青年会などで講演し、青年学生の歓迎を受けた。同時にまた『政論』『民意』など週刊誌に発表された論文は、社会的に重視された。中共の党と追随者は独秀を放って置けなかった。
 ある日(民国二十七年(訳注 1938年)三月十五日)、武漢で出版される『新華日報』は延安の『解放日報』の一篇の文章を転載した。この文章は康p.135     生の「日本のスパイ 民族の敵であるトロッキー派ども を取り除け」。その中の話として「1931年の九一八事変で、日本帝国主義は我々の東三省を占領したとき、上海の日本のスパイ機関は、陳独秀、彭述之,羅漢などのトロッキ‐派どもと共同合作を談判し・・・日本は陳独秀に毎月300元の資金(津貼)を提供、羅漢を通じ受け取る・・・」
 (中略)

p.136 十六.正衛街の恐怖
 独秀を弁護するための手紙の列に私も加わった。その手紙が発表された次の日、午前十時に『新華日報』の記者が漢口天津街四号の私の事務室にやってきた。気勢を上げて、独秀が日本の資金を受けていないどのような証拠があるのかと質問した。私はこの人と小一時間議論して、ようやく事務室から送り出した。
 (中略) 

P.137 十七. 最後の見解
 独秀の二人の息子はともに共産党人で、党のために働き死んだ。独秀には晩年、身辺にただ一人女工(共産党党員であった)がおり、起居をともにした。武昌から漢口に住まいをうつしたあと、この女性は腿を切り、歩くのにとても時間がかかった。武漢防衛の時、独秀は重慶に移り、江津に転じた。
 二十九年(訳注 1940年)から三十一年(訳注 1941年)、独秀は友人に数本の長い手紙を書き、また数編の論文を発表した。これらの作品は小冊子にまとめられた、その書名を『陳独秀最後の民主政治に対する見解』という。小冊子巻頭には胡適先生の序文がある。

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