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音羽護国寺について

                           福光 寛
    護国寺は5代将軍徳川綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)が母桂昌院(寛永4年1627-宝永2年1705)の願いにより天和元年1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺(shogunate prayer temple)となった。江戸中期の仁王門(Nio-mon:Deva gate:a temple gate with the statute of a Deva king standing on either side)をくぐると右手に富士塚(Fujizuka:mound made in the image of Mt.Fuji, made for the people who could not visit Mt.Fuji, to experience worship Mt.Fuji on a simulated manner)。ところでこの仁王門のことだと思うが、永井荷風(明治12年1879-昭和34年1959)は『日和下駄』(大正4年1915年)において、以下のように誉めている。
 「今日東京市中の寺院にして輪奐(りんかん)の美人目を眩惑せしめるものは僅に浅草の観音堂音羽護国寺の山門その他二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を牽かないのは当然の事である。」
 護国寺の山門が、輪奐の美(高大壮麗であること)だという永井の評価は、少し合点がゆかない。大きさでいえば市中には、増上寺の三解脱門があり、浅草寺の仁王門(現宝蔵門)も思い浮かぶ。荷風といえば随筆『霊廟』(明治43年1910年)で、芝増上寺の将軍霊廟を評して、巴里の有名な建築物に勝るとも決して劣らぬ感激を与えられたと述べたその人である。なので、この書き方には、何か理由があるようにも思える。
 → 芝増上寺について
 夏目漱石(慶應3年1867-大正5年1916)の『夢十夜』(明治41年1908年)の第六夜が、護国寺の山門を扱ったことは荷風に影響しているだろうか。
「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍(いらか)を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗りの門が照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障にならないように、斜(はす)に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。ところが見てるものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。」「急に自分も仁王を彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。」「勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当たらなかった。」「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」
 江戸中期の山門に鎌倉時代の運慶の姿を見るのは、漱石の想像であり、だから夢だともしている。ここでいう護国寺が、本当に音羽の護国寺なのかという質問を見かけるが、漱石が護国寺といったときにほかの護国寺は考えにくいこと、散歩に出れる範囲であり、朱塗り(正確には丹塗り)の仁王門であることなど、この護国寺以外を考えることは不自然であろう。決定的なのは赤松の描写である。現在この赤松は存在しないが、以下の戦前の写真にはその姿がとらえられている。
  → 戦前の護国寺仁王門の様子  一番下段に護国寺についての説明と写真があり、門前に大きな赤松があるとする漱石の描写が、音羽の護国寺仁王門の風景であることが確認できる。

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 階段を上がり不老門(中門)を抜けると右手に大師堂、左手に多宝塔(昭和13年1938年に石山寺の多宝塔を模して建築)。重要文化財でもある本堂(観音堂 元禄10年1697年建立)は正面奥だ。
 ところで不老門(中門)を抜けたときに左手上に金剛力士像、右手上には「護国寺大仏」が見える。

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    これらは明治期に筑波山より移されたものである。明治に入ってからの廃仏毀釈(Haibutsu-kisyaku:a movement to abolish Buddhism at the beginning of the Meiji era)の混乱の中で、筑波山中禅寺は廃寺され、筑波神社に改変された。この中禅寺の一部のものが、護国寺に伝えられた。護国寺大仏、そして銅造金剛力士像、銅造多宝塔などがそれである。護国寺大仏は、したがって明治に入ってから、筑波山中禅寺から引き取られたもので、江戸時代からここに鎮座していたものではない。また調べた限りでは、鋳造時期については不明確。なお、筑波山のものが護国寺に移されたのは、もともと筑波山の江戸別院にあたる護持院が、護国寺内におかれていた縁による。なお護持院そのものは明治期に廃止された。また筑波からの大仏などの移動は、霞ケ浦からの水運によったものだとされている。
 護国寺大仏の一つの特徴は、風貌が庶民的で、親しみやすいことだ。少し微笑んでいるようにも見える(なお高浜虚子は昭和18年1943年1月7日に護国寺を訪れた時に、途中で延命地蔵を拝んだようで、「道のべの延命地蔵古希の春」と詠んでいる。六百句より 『虚子五句集 上』岩波文庫1996年p.276。ただ調べた限りで虚子が拝んだこの延命地蔵が現存しているか、どの延命地蔵のことかは判明しなかった。それで地蔵ではないのだが、この大仏を思い出した)。
 なお護国寺には、これらのほかに桃山期の月光殿。元禄期の薬師堂がある。本堂とともに重要文化財である月光殿は、滋賀県大津市の園城寺の客殿を昭和3年1928年に移築したもので桃山時代の書院建築の代表例として知られる。
 護国寺内墓地には、安田善次郎、大隈重信、山形有朋、三条実美らの墓もある。最後に護国寺惣門は5万石の大名屋敷の格式によるもの(なお護国寺の門が不忍通りに沿って西側に仁王門と東側に惣門2つあるように見えるのはーそして門としては惣門が仁王門より格式があり立派であるのは、享保2年1717年の大火で護持院が神田錦町から護国寺内に移された後、惣門から入る東側に護持院。仁王門からはいる西側に護国寺と、護持院と護国寺がそれぞれが伽藍をもち栄えていたことの名残である。明治に入ると護持院は廃止され、全体が護国寺となった。)。 
 歌人窪田空穂(明治10年1877-昭和42年1967)は、護国寺についていくつか短歌を詠んでいる。目白台に住み、早稲田大学で長く教壇に立った空穂にとって、護国寺は通勤の途中に通る場所だったのだろう(以下の第4句で音羽通りとは護国寺を起点に江戸川橋に真直ぐ伸びる道のことである)。
 巷(ちまた)にと出て行く自分を、妻は子を連れて送って来、暫くを護国寺の側の草原に遊んだ。
 この道を行きつつ見えるや谷超えて蒼くけぶる護国寺の屋根
 護国寺の山門の朱(あか)の丸柱 強きものこそ美しくあれ
 護国寺の松の木下ゆ秋日照る 音羽通りの真直ぐにみゆる

 交通 地下鉄有楽町線護国寺出口を出てすぐ。東京都文京区大塚。


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