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任建樹「陳独秀の最後の見解」2008年1月

解題
                            福光 寛
 以下は任建樹《陳獨秀的最後見解》載《陳獨秀與近代中國》上海人民出版社2016pp.184-188の翻訳である。なおこの任の記事は《社会科学報》2008年1月17日からの採録である。任建樹(1924-2019)は陳獨秀著作選の編集にあたった人物として知られる。以下の文章は任が83歳のときのもの。2019年11月に任は亡くなった。任が陳独秀の研究を長年続けたことの意義については、南京財経大学の石鐘揚が、毎日頭條2020年1月21日でまとめている。ところで任は「不徹底的民主制」という陳独秀が使用していない言葉を使っている。資産階級の民主制を陳独秀は大胆に肯定していると思うので、それを不徹底的(不完全の意味、無産階級の民主制あるいは社会主義社会の民主制がより優れているとの含意がある)と呼ぶことは、陳独秀の意図をゆがめるように思える。など幾つか不満を感じたが、中国国内の陳独秀の読み方として参考になる。留保をつけた形であるが、中国社会で陳独秀の民主主義についての議論が肯定的に議論されたことを評価すべきかもしれない。

p.184  (19)40年代初め、陳独秀は四川江津の十分辺鄙で閉塞的な小山村鶴山坪に流れ着いた。貧困と孤独の中で、多くの病気を抱えて年を越した。彼の命がまさに尽きようとしていたとき、世界の風雲は一瞬にも多くの変化を遂げ、一連の裏でつながった(一連串的)重大事件が発生した。
   1939年9月1日、ファシストドイツ軍はポーランドに侵入し、イギリスとフランスはただちにドイツに宣戦し、人類歴史上、空前規模の殺し合い(廝殺)第二次世界大戦が開始された。同月17日、ソ連軍がポーランドに進軍を開始、同時にドイツと「独ソ境界友好条約」を締結、ポーランドを共同して分割した。このあとドイツ軍は西部戦線において電撃戦(閃擊戰)を進めた。このときコミンテルン(国際共産 第三インターともいう。1919-1943年存在した国際組織。)は戦争に対する態度を変え、「反ファシズム戦争」路線から「反帝国主義戦争」路線へ遵守実行(奉行)を変えた。インターナショナルの態度変更はソ連によるものだった。10月31に、外務大臣(外務委員長 外長)モロトフは、最高評議会(ソヴィエト)会議での講話で、ドイツでなく、イギリスとフランスを侵略者とすべきであり、「民主のための闘争の看板の下で進められるヒットラー主義を全力で壊す(摧毀)戦争は、単に意義がないだけでなく、犯罪的である」と述べた(中共中央編訳局国際共産主義運動史研究所《共産国際大事記》黒竜江人民出版社1989年版p.524)。1941年6月22日に、ドイツ軍は突然ソ連に侵攻し、独ソ戦争が勃発した。英米はソ連支持を宣言した。そこでコミンテルンは反ファシズム戦争統一戦線のスローガンを提出した。同年12月7日、日本軍は真珠湾を奇襲(偷襲)し、米英は日本に宣戦した。1942年1月1日、中米英ソなど26の国家はワシントンにおいて、ドイツ、イタリア、日本のファシズムに反対する《連合国家宣言》に共同署名した。
 陳独秀は世界の情勢(風雲)を周到に観察し、その不規則な変化(變幻)に対応して、随時自身独自(獨到)の見解を提起した。これらの見解はすべて1940年3月20日から1942年5月13日の間、かつてのトロッキー派の同志で今日の友人である西流、連根などの人に充てられた五通の手紙と五編の論文の中にある。この十篇の作品のなかでただ『戦後世界大勢の概況(輪廓)』p.185   の一文が重慶で《大公報》(1942年3月21日)に発表された。四川省新聞検査所が、「文章の内容が誤まっており(乖謬)国策に反している(違反抗建國策)」と考え、続編《再論世界大勢》以下の各編はすべて発表できなかった。
 1942年5月13日、すなわちY宛の手紙を書いて2週間後、陳独秀はこの世を去った。十篇の作品の中にどのようなような意見があるか、世の中にほとんど知られなかった(世人少有知曉)。1949年6月、自由中国社はこの十篇の作品を集めて編纂し、公開出版発行した。書名は《陳独秀の最後の見解 論文と手紙》、これはこの人の命の言葉であり、確かに彼の「最後の見解」である。ここでは彼の「最後の見解」を二つの部分に分けて、読者に簡単に紹介しよう

         不完全な民主制を擁護し(保護不徹底的民主制)、
         断固ファシズムを消滅する(堅決消滅法西斯)
    
民主は各時代人民の「少数の特権に反対する旗幟」である。近代民主制は「近代は資産階級が権力にある時代なので、我々はそれを資産階級の民主制と便宜上呼ぶのだが、実際この制度は資産階級が歓迎しているだけでなく、数千万の民衆の流血の闘争と五六百年の歳月を経てようやく実現したものである。」彼は連根宛の手紙の中で述べている。「君たちの誤まっている理由は、第一に資産階級民主政治の真実の価値を理解できず(トロッキー以下同じなのだが)、民主政治をただ資産階級の統治方式だとして、偽善だ、欺瞞だとすることにある。また民主政治の真実の内容を理解できないことにある。裁判所以外の組織には人を逮捕する権利がないこと、参政権がなければ納税もないこと、議会の承認なしに政府に徴税権はないこと、政府の反対党も組織言論出版の自由を有すること、労働者はストライキ権をもつこと、などなど。これらは皆大衆が求めたものであり、十三世紀以来、大衆の鮮血闘争七百余年、ようやく今日得られたものが資産階級の民主政治なのである。」(訳注「給連根的信」1940年7月31日より)
 上記の引用の中で、陳独秀はいわゆる資産階級の民主政治は、人民大衆の長期にわたる不断の闘争を経て実現されたものであることを繰り返し述べている。米国を例にとると、1776年の建国時に有名な「独立宣言」が発表された。このあと、人民大衆の不断の闘争の下、何度も憲法が改正され、逐次公民投票権が拡大された。たとえば1870年の憲法修正第15条は、人種、肌の色、かつて奴隷だったか、を理由に公民投票権を奪うことはできないとしている。1920年には、性別により公民投票権を取り消すことはできないと規定している。1964年には税金の未納付を理由に公民投票権の剥奪はできないと規定。1971年に選挙権の年齢下限は18歳に引き下げられた。選挙権やその他民主権利の拡大が人民大衆の長期闘争によるものであることが見えるだろう。
p.186 当然、憲法の中に書かれたことは必ず百分の百実現していることではない。とくに人種差別は米国に長期存在しており、それゆえ、黒人の闘争は連綿不断に続いている。「不完全な民主」は天から降りてきたものではない。人民の長期の闘争を経て獲得されたもので、資産階級だけが必要としたものでもない。
 ヒットラー一味の狂った計画を消滅させるものは、この民主制の徹底である。彼らは「全世界に一つの主義、一つの党、一人の独裁者を認めるだけで、それ以外の存在を認めない。・・・・ヒットラー一味が勝利すると全人類は窒息し、全人類のなかで思想脳神経を持つ者、自由意志を持つ人は、牛馬機械に変えられてしまう。ゆえに、この大戦が開始されて以来、現在そして将来、すべてはヒットラー一味を消滅させることが、各民族共同の総目標であり、その他のすべての闘争の中で、ただこの目標だけが正しく、マイナスでなく、進歩意義がある。というのはもしヒットラーナチスが勝利したら、どのような社会主義、どのような民主主義、どのような民族解放も、すべてがみな議論もできないからだ。」(訳注「我的根本意見」1940年11月28日より)
 上述した理由で陳独秀はドイツに占領された国の共産党に失敗主義的反戦運動(実現しない反戦運動)を指令したモスクワに反対した。中国のトロッキー派はコミンテルン(共産国際)に反対したが、大戦開始後、コミンテルンと類似の観点と主張を行った。(それは)レーニンの第一次大戦中の主張、帝国主義戦争を国内革命戦争に転化せよを、誤って一般化したもので、「今回の戦争は先の大戦を再来であり、双方の帝国主義者がその人民を使い植民地を維持あるいは略奪する闘い」とするもの。それゆえ陳独秀は言う。「私は中国トロッキー派とスターリン派(中共を指す 任)の区別がなお分からないのだ(竟然看不出)。」
 大戦終了後の世界の前途について、彼はドイツが負けるにせよ勝つにせよと予測する。世界には「二つの指導国、英独か、英米かがありうるだけで、その他の国家民族は、二つの指導国の指導圏内に分別隷属する。・・・その他の植民地および後進国、民族闘争が生み出したあらたな独立国家、このような時代はすでに過去のものだ。」(訳注「戦後世界大勢の概況(輪廓)」1942年2月10日より)中国の抗戦の前途について、彼は言う。ある人は中国が「米国を助け日本を打つのは、前門で虎を拒み、後門で狼を入れることだと。我々はこの人に言うべきだ。米国が勝利したあと、我々がもし努力し誤りを糺し、汚職など悪事をしない(不再包庇貪污)なら、以前の半植民地の地位を回復することが可能だろう。なおもし勝利がドイツ、イタリー、日本のものなら、われわれは必然的に植民地となり、南京の傀儡政権でさえ遠からず分裂(滾蛋)だろう。」(訳注「戦後世界大勢の概況(輪廓)」1942年2月10日より 滾蛋とすべきところ任の本は完蛋と誤植?している。)
 状況の変化は本当に予測がつかないものだ。陳独秀は戦後の両大指導国集p.187  団の対立が、米独あるいは英米、のいずれの対立でもなく米ソの対立となり、あわせて、ソ連を頭とする社会主義陣営と、米国を頭とする資本主義国家の間の対抗が生まれるとは、独秀は全く予想しなかった。陳独秀はロシア国人民が祖国防衛戦争で発揮した偉大で何も恐れない戦闘力を低く評価してしまった。また植民地後進国人民が戦争中鍛えられ成長することを軽視してしまった(忽視了)、そのため、戦後間もなく生じた。雲が沸き上がるような、植民地半植民地の独立運動を全く予見できなかった。特に中国人民の独立解放の力は力強く(茁壯)成長し、大戦後数年ならずして、新中国が建設され、高い誇りをもって(傲然)世界民族と並び立つに至った。

           官僚制の消毒素の役割をする民主制がなければ
     いかなる社会主義も創造できない
 
 社会主義を議論するとき、当時はただソ連だけが社会主義国家であった。(19)20年代陳独秀はそのことを深く信じて疑っておらず、十月革命の鼓舞のもとで中国共産党を創建した。のちにスターリン一人がソ連共産党中央の生殺与奪の大権を握ってから、この国家は独裁専制の様相を次第に表し始め、陳独秀のそのことへの認識もまた深くなった。1940年9月彼は西流に宛てて書いた手紙の中で述べている。「私はソ連の二十年の経験と、沈思熟慮の六七年により、今日の意見を確定(決定)し始めた。」1940年から前に七年を推し量ると1933年あるいは1934年になる。そのときから陳独秀はソ連が社会主義国家であることを疑い始めた(便開始不承認)。彼は「トロッキー派国際書記局宛書信」(訳注 手元の『陳独秀晩年著作選』天地図書有限公司2012年pp.488-489にも所収 日付けは1934年5月15日)の中で述べている。「スターリンの個人独裁がまさに無産階級およびその先鋒隊の独裁政治(専政)に置き換わった。いわゆる"労働者国家"とソビエト(会議)政権はただ名前の上の存在である。」彼はソ連には前期と後期の区別があると考えた。「前期のソ連は世界革命の立場に立ち、後期のソ連はロシア国民族利益の立場に立った。」大戦が勃発して間もなく、スターリンのソ連がヒットラーのドイツと手を取り合ってポーランドを分割したあと、陳独秀はスターリンを首とする統治者の邪悪さ(深惡痛絕)に対して、世界には3つの反動堡塁、すなわちモスクワ、ベルリン、ローマがある。”目前全世界のすべての闘争は必ずこの三大堡塁の連携をひっくり返して(推翻)こそ意義がある(訳注 給西流的信  1940年9月より)。しかし独ソ戦争が発生後、英米はソ連を支持。この時、まずヒットラーを打つため、陳独秀は「ソ連における失敗主義採用を主張せず」、しかしなお人類自由の命運史上、スターリン一味がヒットラー一味と楽しく過ごしているとはなお信じなかった。
 独秀はなぜソ連を社会主義国家として認めなかったのか。何が原因でスターリンの個人独裁制が形成されたのか。
p.188  独裁と民主は水と火のように相いれないものである。民主を消滅させてこそ独裁制を立てれるし、その逆もいえる。ではソビエトロシアはいつ、民主を崩壊させ(打垮)次第に独裁を立ち上げたのか?陳独秀は言う。「10月以来「無産階級民主」この空っぽの抽象名詞を武器にして、資産階級の実際民主を打ち壊して今日のスターリン統治のソ連に至る。」(訳注「給連根的信」1940年7月31日より)「スターリンのすべての罪悪を試しに問えば、それはソ連が10月以来秘密の政治警察の大権、党外無党、党内無派、思想、出版、ストライキの自由をゆるさないことに頼り(憑藉着)、この一大きくつながった反民主的独裁制を生み出したことではないか?」(訳注「給西流的信」1940年9月より)というのは無産階級民主の「具体内容は資産階級民主同様にすべての公民が集会、結社、言論、出版、ストライキの自由を持つことを求めるものである。特に重要なのは反対派の自由であり、これがなければ、議会あるいはソビエトは同様に一文にも値しない。」(訳注「我的根本意見」1940年11月28日より)
 陳独秀は指摘する、無産階級と資産階級の両種の民主の内容はおおよそ同じである。またそれらの差異と関係について議論を進めている。彼は両種の民主はただ実施範囲の広狭に違いがあるだけで、無産階級の民主は資産階級の民主に比べずっと大きくなければならないとした。それゆえに「資産階級民主が保持されて、大衆的民主の道を歩むことができる。」大衆民主が資産階級民主に置き換わることは進歩的であり、独ロの独裁が米英仏の民主と置き換わるのは退歩的である。資産階級民主を打ち壊した結果は無産階級民主が成長する道路をふさいだ(阻隔了)ことであり、独裁専制に育てることになる。
   最後に陳独秀は民主と社会主義の関係を論証している。彼は明確に指摘している。「政治上の民主主義と経済上の社会主義は相反するものではない。」「非大衆政権あるいは無産階級独裁は、必然的にスターリン式のごく少数の人数の専制政治体制になる。これは勢い必然である。スターリンでない個人(であれ)心を特に悪くさせる。」それゆえ「官僚制の消毒素となる民主制がなければ、・・・いかなる社会主義もつくりようがない。いわゆる”無産階級独裁”、このようなものがあってはならず、それは党の独裁であり、結果はただ領袖の独裁である。独裁はなんであれ、残虐暴力、真相の隠蔽(矇蔽)、欺瞞、汚職、腐敗の官僚政治と分離できない。」(訳注「我的根本意見」1940年11月28日より)ここまで書いてきて私は今日よく言われる鄧小平の言葉をふと思い出し、それをこの紹介文の結語とする。以下である。「民主がないところに社会主義はない。」(訳注 この鄧小平の言葉は鄧小平文選第2巻1994年p.168にある。『堅持四項基本原則』(1979年3月30日)の中の一節。「我々は無産階級専制を維持しなければならない。」というフレーズで始まる段落。四人組が行った「全面専制」「封建ファシズム民主」は誤りで、党内民主や人民民主拡大に努力するとした後、この言葉がでてくる。さらに続けて社会主義制度のもとで資産階級が存在するとして、階級闘争を拡大化することは資産階級が消滅された以上不要だが、なお社会主義社会においても、反革命分子、投機分子は存在するので特殊形式の階級闘争はのこり、社会主義民主のためにも無産階級専制は必要だとしている。)

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