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過渡期総路線 (2.2)

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)写真は毛沢東 1954年1月。

革命転換(転変)の政策決定
p.33 1953年における中国の大変化は2つの革命の(間の?)転換であった。すなわち新民主主義革命が社会主義革命に向かう転変であった。当時、鄧小平は言った。今年(1953年)3月以来、毛主席が中心になり一つのことをした。すなわち過渡期の総路線を提起(提出)した。これは確実に中国の歴史の発展進路にかかわる最重大事件であった。
   その過程は。中共七届二中全会の後の数年間、毛沢東は建国以来の新中国社会階級形勢を分析して、当時の国内の主要矛盾は、人民大衆と、帝国主義との間の矛盾の矛盾、(あるいは)封建主義及び国民党の反動残余勢力との間の矛盾でもなく、労働者階級と資産階級との間の矛盾であり、社会主義道路と資本主義道路の間の矛盾であるとした。これは一つの基本判断で、革命転変の時間は前後様に表現されたが、この基本判断は変更されなかった。この判断により、
p.34 毛沢東は1953年6月15日の中央政治局会議において、明確に過渡期の総路線を論述した。中華人民共和国が成立してから、社会主義改造は基本完成するまで、これが過渡時期であると。党のこの過渡時期における総路線と総任務とは、相当長い期間内(相当長期時期内)に、国家工業化と、農業、手工業、そして資本主義商工業の社会主義改造とを、おおよそ(基本上)実現することである。
   「相当長い期間」は15年よりさらに多い時間と具体的に規定された。このように、新民主主義建設段階は重視されなくなり(淡化了)、また15年20年のあと再び社会主義「総進攻」を発動するのでもなく、その時間の中で社会主義改造を完成することになった。前倒しで(提前)社会主義改造が発動された。この変化の原因は何か?

     任務の変更(改変部署)

 この問題の議論は、上述した「過渡期の総路線」と新民主主義、含意するところ(在涵義上)  変化はなかったのか?
   ある人はないという。いずれも過渡期の路線なのだからと。ある人は変化したという。最大の変化は、私有制の消滅に向かって歩む時間が、もともとは15年、20年以後に接近戦を始める(一次進攻)  とされていた。 この最初の段階がくるまでは、私有制を保留し、国家経済と人民の生活(國計民生)に役立つ資本主義要素が適切に発展することをが許される、新民主主義社会が存在する。この規定の認識から出発して、中央ははやくも1940年代に「新華社メールボックス」を通じて、土地改革後の農村で、売買、雇用、貸借、土地を貸す(租佃)など数項目の自由経済活動を許して、農民を小生産者として発展する機会を与えること、独立小商品生産者とすることを提起している。
   白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.71 最大の変化は、私有制を消滅させる段取りと時間の設定である。もともとは、15年、20年以後に「総進攻」を実施すると言われていた。この段階に到達するまでは、私有制を存続させ、国家の経済と人民の生活に役立つ資本主義的要素を発展させられることが許され、また新民主主義の社会が存在するとされていた。この既定の認識から出発し、党中央は、つとに1940年代に「新華社ポスト」を通じて、土地改革後の農村では、売買、雇用、貸借、土地の賃貸しなどの自由な経済活動が許され、農民にプチブルになる発展機会をもたせ、独立した商品生産者にすることを提起していた。

 総路線が提出されたが、それは毛が講じた以下のような認識によるものだった。農村の陣地は、社会主義が占領しなければ、資本主義が必ずこれを占領する。小農経済は今一発展し、両極分化が必ず現れると。当時我々は地方からの報告(上報材料)をもとに、農村の両極分化は、いまだ現実の脅威ではない。またおそるべきではない。新民主主義の時期がまずはなたれ優先され、社会主義が発展するための生産力が準備されるためである。
p.35   毛沢東の最重要論点は、我々はすでに政権を獲得した。(だから)生産力は一定発展している。そうであれば所有制も改変でき、生産力を再発展できる(というものである)。(中略)
 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.71 主席の最も重要な論点は、「我々はすでに政権を奪取し、生産力はある程度発展したのだから、所有制を変更すれば、さらに生産力を発展させることができる」というものであった。・・・我々は、唯物史観に照らして、ある特定の所有制から新たな所有制に過渡することは、これに照応する生産力の発展の程度によって決定されるものと認識していた。社会主義公有制は、資本主義社会よりさらに発展した生産力の基盤の上にのみ確立できるのであり、私有権を廃絶すればただちに社会主義が確立するものではない。
    (過渡期の政策として生産力の発展を重視するか:トッププライオリティを置くか、生産関係の変更を重視するか、二つのアプローチがあり、後者が毛主席が提起した総路線であり、前者であれば、資本主義の要素を内在させた各種の私有経済の存在と発展を認めることになる)
    (中略)
p.36  このような変化、もとより中国社会主義革命は有利な条件を提供したが、しかし経済の構造(結構)から見ると、わが国は依然遅れた農業国だった。また七届二中全会が推論していたように、現代化要素は比較してとても小さかった。このような状況のもとで、新民主主義段階の資本主義から、過渡、さらに社会主義に飛び超えることができるものか?これはなお答えが待たれている問題だ。
   過渡時期の総路線は新民主主義を経過しないで社会主義に入るということ、建国の日から過渡時期にはいったと。実践の結果、1953年から1956年末3年間で社会主義改造過程は完成した。
 社会主義革命を実現するために、毛主席はまず世論を作り出すことが必要だと考えた。このため彼は劉少奇が述べた新民主主義を強固するという(主張を)批判した。(また)鄧子恢の「四大自由」や「私有財産保護」を批判した。のちには陳雲が七届四中全会の報告で合作社に好意的でなかったとして批判した。この問題をあきらかにするため、おおよそ1953年6月、毛主席は農業系の数人と面談を約束した。彼は言った。「新民主主義とは何か?」「新民主主義は橋の上にある」。橋を渡るのであって、飛び越えるのではない。一歩一歩歩いて渡るのであり、新民主主義を経由して、社会主義に至るのでもない。
白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.73 1953年6月から8月に、中央財経会議は、薄一波が税制に関して提起した「公私一律平等」の誤りを批判した。会議では、高崗が「桑を指して槐をののしる」方法で薄一波が合作化に反対していることを批判したが、実際にはこれは劉少奇を批判したのである。

(1953年4月の第一回全国農村工作会議での鄧子恢発言に対する毛沢東の批判は重要である。これはそもそも鄧子恢の農村工作部長としてのデビュー時の発言。そこで毛沢東とぶつかったということは、就任当初から毛沢東との考え方の違いがでていたことになる。それは毛沢東が総路線に向けて方針を転換したまさにそのときに農村工作部が発足。農村の扱いをめぐり、毛沢東と鄧子恢は激しくぶつかることになる)
白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.75 会議の前に、鄧子恢は、主席に報告し、指示を仰ぎ、「四大自由」をやり、私有制を「確保」しなければならないことを提起した。主席は、彼の提案を批判して、「何が四大自由だ!四小自由もあってはならないのだ。富裕中農が出る杭(冒尖)になるのを恐れてこそ、私は喜べるのだ。農民の私有制については、法律で保護することはやってよいが、確保は駄目だ」と言った。

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