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匹夫もその志を奪うことはならず(論語) 梁漱溟和毛澤東的大吵 1953/09

(以下はネット上の<禁聞網>からの採録。表題は<梁漱溟触怒毛澤東結局....>   作者は<格丘山>とあり、五十年前に読んだ材料の記憶によるものとある。来源は<華夏文摘>。この1953年の梁漱溟と毛沢東の言い争いは「有名な事件」であるようだ。総路線への公然たる不満、知識人として正面からの異論。毛沢東にここまで正面から言い切った梁漱溟という人もすごい人だと思える。)

 1953年9月11日中央人民政府拡大委員会で梁漱溟は大会発言を行い、李富春副総理の重工業発展についての、また周恩来の工商業改造についての報告に同意できない。特に問題は農民の待遇への不満(怨)であるとした。(さらに)梁は、労働者(工人)が九日天国で生活するとすれば、農民は9日地獄で生活しており、九天九地ほどの”差”があると訴えた。
 9月12日毛沢東は即席講話において、名前を挙げずに梁漱溟の昨日の発言(に触れ)ー我々の総路線に反対だという人がいて、農民生活は大変苦しいと考えるので、農民保護(照顧)を要求している。(またその)ある人は班門弄斧(門前に斧をかざす、専門家のまえで能力を発揮する)のように、共産党は数十年農民運動をしてきて、なお農民が分からないとは、笑い話だ!(といっていると述べた)
 梁漱溟は(この毛の発言に)不満で、毛沢東に明確(澄清)を求めた(この意味は不明で「なに」を明確にするのかが、言葉として欠けている。おそらくだが明確ではなく、謝罪とか、撤回といったことばが入るべきだろう。 おそらくは自分の発言を曲解している、正確に伝えてくれという意味だろう。訳注)。
 全く明確にされなかっただけでなく、周恩来は姓名を明らかにして批判する(指名道姓)中で言った。梁は労働者と農民の生活が九天九地の大きな差がある(懸殊相差)といい、まるで彼が農民を代表しているようだが、実際上は彼は地主を代表して話しており、労働者と農民の同盟を妨げよう(挑撥)としている、と述べた。
 毛は口をはさんでさらに踏み込んだ。梁漱溟は労働者は天国の九日間、農民は地獄の九日間と話したが、事実はどうか?労働者の収入は農民より少し多い。しかし土地改革のあと、農民は土地を持ち、家をもっている。生活はまさに日々良くなっている。ある農民の生活は労働者の生活よりなお良い。ある労働者の生活は(農民の生活より)さらに困難である。どのような方法で農民はより多く(苦労)するのか?梁漱溟に方法はあるのか?....あなたは労働者は九日天国だといった。それならあなたはどちらにいるのか?あなたは十日、十一日、十二日天国にいる、だってあなたの給与は労働者の工賃よりずっと多いのだから!
 梁漱溟は怒って、毛主席に度量を示して(拿出“雅量”)言い過ぎたことを撤回することを求めた。
 9月16日(なお後掲の資料はいずれも2回目の登壇は9月18日としている)梁漱溟は再び登壇して、公然と毛沢東に向かい大きな度量(雅量)を求めた(索討)。「わたしは根本において総路線に反対していない、それなのに主席は私を総路線に反対していると、非難された(誣)。今日私は毛主席が、言葉を撤回する度量があるかを見ようと思う。一人の知識分子があえて現在の最高指導者に対し、彼を非難し(說污衊了他)、かつ誤りを認めることを求める!」
 梁漱溟が公然と大きな度量を求めたのに対し、毛沢東は答えた。「梁漱溟にすれば、彼(の意見)を承認することが正しい、それを彼は度量だという。彼を正しいと認めないと、度量がないと。そのような度量は、我々はまあ(大概)持てない」 
    梁漱溟はなお不満で発言を求めた。毛は激怒した。「いいだろう、あなた梁漱溟は大空で農民の救世主、私毛沢東は農民の子で、現在農民を虐待している(というのだな)。今、梁漱溟の発言に同意する人は挙手を」
 皆唖然となり、緊張がみなぎった。ただ毛一人が手を挙げたままである。続けて毛は言った。「梁漱溟の発言に不同意の人は挙手を」。毛沢東と梁漱溟を除く全員が挙手した。
 この時、梁漱溟に毛沢東に謝ることを促す人がいたが、梁漱溟は台上で立ったまま一ミリも動かない。公然と「三軍の将軍も倒すことができるが、つまらない男の志も(しっかりしていれば)奪われることはない(三軍可奪師,匹夫不可奪志)(訳注 論語子罕篇第九)」と言い返した。
 この言葉に、粛然としていた(会場の)雰囲気は一気に殺気を帯びた。梁漱溟を殺せとの声があがった。
 きわめて危険な(千鈞一髮   千鈞の重さが一本の髪のうえにある )な形勢で、相次いで三人が発言を求め、梁漱溟の今日の様子は死に値するが、革命前の功労を考慮されるようにと毛に助命を嘆願した。
 毛沢東は大意次のように答えた。みんなはあなたに功があるというが、あなたの功は反革命の功である。しかし老反革命であるあなたを、我々は今日殺さないだけでなく養うし、政協委員をしていい、というのはあなたには反革命の功があるからだ。我々は貴方に覚えて欲しいのだが、反面教員をしたという(功だ)。当然政協委員として将来出席の必要はない、労賃は我々があなたの家に届けようーと。
 毛が話し終わると、暴風雨のような手拍子、毛の寛大さへの賞賛が続いた。

(なお「往事」2005年6月29日という別の手元資料では、議論した場所は政協会議で、以下のように補充発言させるかどうかでもめて、それを止めるために投票したことになっている。)

 (19)50年代初め、梁漱溟は政協委員の身分で政協会議上で意見を発表し、党と政府に農民の生活の改善に注意することを求め、都市に入ったから農村を軽視することはあってならないとした。この意見は毛沢東に拒絶され、辱められた(當面羞辱)。毛沢東は言った、「梁漱溟は反動の極みだ。彼は承認していないが、とても美しく語る。....彼は自分をすぐれた天下一の美人のように描く、西施よりも、王昭君よりも、さらに楊貴妃より上だと。」又言う。「梁漱溟は”九天九地”を提起した」「”労働者は九日天国、農民は九日地獄”」だと。「労働者は組合を頼ることが出来るが、(農民は)農会、党、団、女性連合会(婦聯)いずれも頼れない。いずれも質が悪い、工商連に比べてもひどい、それゆえなにも信ずることができない(無信心)」と。これは「総路線に賛成する」(する言い方)「か?いや!完全に徹底的に反動思想である。反動化の建議であり、合理化の建議ではない。人民政府はこの種の建議を採用できるか?私は不可能だと考える。」梁漱溟は力をふるいだして反撃し(奮起反擊),毛沢東に十分な自己弁護の時間を求めたが、毛は許さなかった。梁は毛沢東には度量(雅量)はないのかと問うた。毛はあなたを政協委員にする度量はあると答えた。彼は続けて、毛沢東に自己批判の気持ち(胸懷)はないのかと問うた。壇の下の人々は興奮して、梁漱溟を力づくで去らせること(滾下來)を求めた。人々の声が高まる中、なお梁漱溟は台上で頑強に毛沢東をにらみ、孤立していたが堅強であった。毛沢東は仕方なく4時まで話していいとした。梁漱溟は時計を見ると、すでに3時からすでにかなり時間はすぎていた、そこで答えなかった。彼を話させるかどうか投票で決めようと提案した人がいた。投票の結果、梁漱溟は壇をおろされること(被轟下台)になった。

以上のネット記事を訳出後、以下の2冊を読んだ。その限りであるが、以上のネット記事とこの2冊で伝えられている内容には大差はないと思えた。ただいずれも、毛沢東が譲歩して10分間でどうかと再提案したが、梁が納得しなかったとする。ただ10分問題以上に、農民農村の軽視を問題にした梁の発言に、毛沢東が強く反発した点に、この問題の本質はあるのではないか。

鄭大華《梁漱溟傳》人民出版社2001年 
    梁の11日の発言内容 p.431
   毛沢東による批判 433-436
    18日の顛末 437-440   毛沢東が10分を提案し梁が拒否したとする。

劉克敵《梁漱溟的最後39年》中國文史出版社2005年
 梁の11日の発言内容  pp.64-67
    18日の毛沢東とのやりとり。最初4時まで。その後10分ではとしたが梁が納得せず、投票に至ったとしている。pp.71-74
 毛沢東の梁批判 pp.76-78 

追記
 『梁漱溟先生年譜』広西師範大学出版社1991年6月という資料で以上の内容を以下チェックしてみる。これは梁漱溟自身の説明である。
 1953年9月11日の会議の正式名称は政治協商会議常務委員会拡大会議。11日の午後の発言で、梁漱溟は、工人(都市労働者)には工会(労働組合)や工商連組織があるが、土地改革以降の農民には互助組織があるだけで、自身でやるしかない(各自為謀)。指導者に注意してほしいのは、都市労働者の賃金生活が農民の羨望を招いていることだとし、農民が都市に湧き出るのを市当局が押し返していると指摘し、ここで他の人の話として九天九地の話しをした。ただこの話が工農同盟(連盟)を破壊するものであることに自分は無自覚だった、それは大きな誤りであったとしている(这个错误非小)。またこの時は、誰も梁漱溟の九天九地の話に注意する人はいなかった(『年譜』p.208)。
 9月12日午後、懐仁堂を会場に中央人民政府会議が開かれた。そこで毛主席が、準備なく話す中で突然「ある人が私の総路線に反対して、農民に代わり苦衷を叫んでいる、おそらく孔孟の徒であろうか!」と、名前を出さず暗に梁漱溟を批判した。そこで散会後、夜毛主席に、自分は総路線に反対するものではなく、お会いしてお話ししたいとの手紙を書いた(同p.209)。
    9月16日午後の中央人民政府会議で、総路線擁護の発言とともに、11日午後に行なった発言を繰り返し行い、再び九天九地の話をした。これは大きな誤りだったとしている(就铸成大错)。(同p.209)
 9月17日午後、中央人民政府会議会場に入場して見ると、1949年春重慶の『大公報』で梁漱溟が発表した2編が印刷配付されており、梁漱溟批判が行われることは明らかだった。最初に章伯鈞が起立発言で批判。続いて周総理が演台で長い発言を行い、梁漱溟は「一貫して反動であり、暗に蒋介石を援助している」と述べた。毛主席も口をはさんで梁漱溟を非難した。「人々は貴方は良い人だと言うが、私が見るところは偽君子だ。」「もし総路線の経済建設反対を明言し、農業と軽工業の重視を要求するなら、見解としては理解できないが(糊涂)善意のものといえる。しかし梁漱溟はそうではない、彼には悪意がある。」「あなたは刀ではなく筆で人を殺す人だ。」「あなたについては、政協委員を解職しない、次期もあなたはなお政協(委員)だ。なぜかって?社会には貴方に惑わされる人が一定いるからだ。」梁漱溟は弁解しようと発言を求めたが、次日に発言を許すことで散会した(同pp.209-210)。
 9月18日午後。中央人民政府会議で梁漱溟は発言し、「私は根本で総路線に全く反対しない。しかし毛主席は私が総路線に反対していると非難された。今日私は毛主席が自身の話しを撤回する度量(雅量)をお持ちか見定めたいと思う。」直ぐに毛主席は「あなたに言うが、私に度量はない」。梁漱溟は発言を続けようとしたが、場内の人々は梁漱溟を演台から降ろそうと騒然となった。梁漱溟を批判する発言が続いた。挙手表決の上、梁漱溟の問題は政協委員会を開いて討論処理することになり散会した。
 18日すでに梁漱溟は、自分は興奮しすぎたと考えた。このあと梁漱溟は政協に手紙を書いて、各種会議に出席しないなど、いわば謹慎を自ら申し出てそれを年末まで続けている(同pp.210-211)。


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