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玉野井芳郎「日本の経済学」1971

 昔,この本を読んだとき、官学―東大中心に経済学史を考える考え方にいささか嫌気を感じた。その違和感は今読んでいて吐き気を感じるほどだが、そこを我慢すれば、参考になる指摘は多い。ここでは東京大学初期の経済学の講義についての部分を見てみる(第1章)。

 東京大学が発足した(1877年)直後、その翌年から開設された経済学の講義担当者が美術研究者として知られるフランシス・フェノロサ(1853-1908)であった。フェノロサはハーバード大学で政治経済を学んでいたわけで、当時の経済学の事情によく通じていたと思われる。玉野井が引用する教科細目には、ミル、ジェボンズ、ゴッシェン、マクロード、サムナー、マカロックなどの名前がみられる。その後、文学部第一科が、哲学科と政治学および理財学科に分離したとき(1881年)、経済学の担当者としてさらに迎えられたのは田尻稲次郎(1850-1923)。この人はイェール大学・大学院で経済学を学んで帰国した人。日本人で欧米の大学院で経済学を学んだ最初の一人かもしれない。田尻は1887年ごろまで教壇に立ちその後は大蔵省の仕事などに貢献ている。
 他方、フェノロサは自分の政治学の講義を1882年に来日したドイツ人、カール・ラートゲン(1855-1921)に譲り、その後は哲学の講義を行った。なおラートゲンは、日本の取引所関係の法制作りに関わったとされているし、ドイツに帰国後、日本に関する著述を発表し、それはマックス・ウェーバーをはじめドイツ社会の日本理解に影響を与えたとされている。またフェノロサは自身の経済学の部分についても、東京大学を卒業後(1880)、ケンブリッジ大学、ベルリン大学で学んで帰国した和田垣謙三(1860-1919)に委ね、哲学の講義に専心するようになったという(1884)。この和田垣さんのもとで、ドイツの経済学の知識も日本に注入されるようになったのではないか。和田垣さんは専修学校(専修大学の前身)の創設者としても知られている。
   (ところで当時、東京大学では欧米のある意味先端の経済学がそのまま外国語で講述されていたと思われるが、これをどう評価すればよいだろうか。私は、当時紹介されていた経済学は、先ほどの人名からもわかるように、今日の数理的抽象的なものとは違い、かなり欧米の制度の紹介ともなるものだったので、それほど違和感は感じなかったのではないかと考えている。しかしこれは今日でも同じことが言えるが、個々人の経験や知識によってまさに違ってくることろだ。福光)
 1885年12月に文学部にあった政治学および理財学科は政経学科と改称されて、法学部に移された。そして法学部は、法律学科と政経学科に編成が変更になり、学部の名称も法政学部と改称された。この法政学部が法科大学となり(東京大学は1886年に5つの分科大学をもつ総合大学=帝国大学となった。1897年に京都帝国大学が創設され、帝国大学は東京帝国大学と改称された 橘木俊詔「東京大学 エリート養成機関の盛衰」岩波書店2009第2章参照)、1919年になり経済学部が独立することになった(高い経済知識をもった民間企業人を養成するという見地から経済学を独立の学問として教育・研究する必要が、日本資本主義の発展とともにでてきた。橘木俊詔、同前書第2章から第3章参照)。

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