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2014年3月のクリミア併合Annexation of Crimia, 2015年2月のミンスク合意

 2014年2月22日親ロ派ヤヌコービッチ大統領への不信の高まりの中、ついにヤヌコービッチ大統領が失踪した。そこでウクライナ議会(ラーダ 最高会議)は5月25日の大統領選挙を決定。さらに大統領代行に(ラーダの議長であった)トウルチノフを任命、暫定政権を成立させた。ウクライナ革命は、ヤヌコービッチ大統領を倒すという大きな課題を達成した。これに対して、ヤヌコービッチは逃亡先の東部で、暫定政権をクーデータ政権と非難した(ヤヌコービッチは2013年EUとの政治貿易協定調印に踏み込まなかったため批判を受けた。大規模な市民の集会を武力で弾圧、ヤヌコービッチへの批判、ウクライナ革命につながった。ヤヌコービッチが東部ウクライナを地盤として議員を長年続け、1996年の大統領選挙ではユシチェンコに負けたものの、2010年の大統領選挙では再選挙ののち、テイモシェンコを抑えて、大統領に選出されたことも事実。東部中心に一定の支持者がいた。彼は、この2014年の政権交代をクーデターだとして、認めないという態度をとった。その後、ロシアに匿われたとされている)。2014年2月のこの政変を、批判する側はクーデターであるとし、逆に支持する側はマイダン革命Maidan revolution maidanはウクライナ語で広場を意味する)とよんでいる。
 2014年2月23日、ロシア語、ルーマニア語、ハンガリー語に地方言語としての地位を認める少数言語法案が廃案になり、ウクライナ語だけを公用語にする決定が議会で行われた(これを主動したのはトウルチノフである)。議会とトウルチノフは、暫定政権としての機能を超えた決定に踏み込んでしまった。議会はこの決定でナショナリズムを鼓舞したが、この決定はロシアとロシア系住民を不必要に刺激した(あるいはロシアに介入の口実を与えた)と私には見える。
 2月24日 呼応するかのようにロシアのメドベージェフ首相は、ウクライナ暫定政権の合法性を否定した。なおこの暫定政権は、5月の大統領選挙で交代する短期政権であり、内政外政で重大な決定を行えないはずの存在だったことは明らかだ。
 このタイミングで3月1日、プーチンのクリミアへの軍事介入をロシア議会が承認した(クリミアは1954年にフルシチョフにより、当時のウクライナ社会主義人民共和国に割譲され、1991年のウクライナの分離独立時に特別行政区としてロシア軍が駐留するところとなった)。そしてこのあとロシア軍がクリミアに入った。その状況下で3月6日、クリミア最高会議が、ロシアへの帰属について3月16日の住民投票実施を議決した。憲法の規定で住民投票では領土の帰属に関することは決められないとの指摘もでるなか、クリミアやセヴァストポリの議会はそれぞれ、3月11日「独立」を宣言した。そして3月16日実施された住民投票は97.47%の圧倒的多数で、ロシアへの帰属を支持した。2014年3月18日、ロシアとクリミア自治共和国は併合条約に調印、クリミアのロシア帰属が「確定」した
 先ほど1991年のウクライナの旧ソ連からの分離独立に言及したが、このソ連の解体によって、大きな問題になったのが、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに置かれていた核兵器の問題だった。そこで結ばれた国際協定が1994年12月5日に結ばれたブダペスト覚書(Budapest Agreement)である。ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナが核兵器不拡散条約に加入、三国の核兵器を撤去、その代わりに覚書署名国のアメリカ、ロシア、イギリスが三国の安全を保証する、というのが内容である。そこで2014年のクリミア併合に際して、また今回2022年の軍事進攻に際して、ロシアがこの覚書の規定(=独立の主権と既存の国境を尊重)を破っているとの批判がある。
 2014年4月7日、ロシア系住民が多いハリコフ、ドネツクでロシア系住民が政府の主要施設を占拠して「独立」宣言を行った。これに対して、暫定政権は分離派を約70人逮捕したと発表。他方、プーチンは暫定政権が軍事的に動けば、軍事介入すると暫定政権に伝えた。このようにしてウクライナ東部に独立を宣言した二つの共和国が「成立」。ロシアとウクライナがこれら共和国をはさんで互いにらみ合いを続ける事態に至った。またロシアは、暫定政権以降のウクライナ政府と対立を深めるようになった。当初、実はウクライナ政府の姿勢は厳しいものではなかったとされる。その姿勢を転換させたのは、2014年7月17日の発生したマレーシア航空機撃墜事件だとされる。アムステルダム発の同機は、同日、ウクライナ東部で何者かによってミサイルで撃墜された。乗員乗客298名全員死亡。国際的調査チームの調査の結果、ロシア製ミサイルにより撃墜されたこと、犯人としてロシア人3人、ウクライナ人1人が特定されるに至り、ウクライナ東部の独立運動との関係が浮かび上がった。この事件を契機に、ウクライナ政府は、武装勢力を武力で抑えるように方針を転換し戦闘が激化した。
 このウクライナ東部をめぐるロシア、ウクライナの紛争について、ドイツ、フランスが仲介する形で、ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランスの間で結ばれたのが2015年2月、ベラルーシの首都ミンスクで結ばれたミンスク合意(Minsk Accords)である。合意では、停戦、外国人部隊の撤退、親ロシア派地域に特別な地位を与える恒久法の制定、ウクライナ政府による国境管理の回復などが定められた。合意により、大規模な戦闘は止まったとされている。2022年のロシアのウクライナへの軍事進攻についてはこのミンスク合意に反しているとの指摘もあるが、ロシア側からは、そもそもウクライナにミンスク合意を履行しなかった責任があるとの指摘がもともとある。2022年2月22日、プーチンは、ミンスク合意はすでに存在しない、と発言している。プーチンが軍事侵攻を公表するのは、その2日後の2月24日である。


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