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趙福中「北大回憶三則」2012/10

三則とあるが則は文章の数を数える量詞。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.137-139より。この人も1957年から北京大学哲学系で学んだ。この趙福中の文章を最初は、三番目の大躍進のときの下放の話を採録する目的で読み始めた。しかし読み返すと、最初の朱教授による論文指導の話、そしてそのつぎの林教授によるバレーボール指導の話、いずれも味わい深い。
 なお大躍進のスローガンのもと、「深翻、密植」という方法で増産をはかったこととその失敗については、本書のなかでほかにも繰り返し記載がある。たとえばpp217-219

p.137    北(京)大学生活を思い起こすとき、私はいつも長くは平静でいられない。今では退職して時間は十分ある。多くの素晴らしい記憶が常に絶えず私に反省とはるか昔のことを思い起こさせる(遐想)が、今はただ三つのことを話したい。
 一つ目。卒業前、卒業論文を書いた。私は「プラトン美学思想評論」を選択した。指導教授は朱光潜教授。朱教授は我々に「西欧美学史」を講義した。私はとても彼を崇拝した。しかし私が学んだのはロシア語で、英語資料は理解できず、ロシア語資料は少しあるものの、私には翻訳する時間がなく、真に困難であった。この後、朱老師と何回か接触する中、私は次第に困難を抜け出た。朱老師は私に、論文を書くにはまず、良い題目を選ぶことだ。これは自身の条件に基づかねばならない。現在この一点で君はうまくやれていない。しかしまた変えるのも良くない、と言った。ならば君は、ただ現在の状況にのみ依拠できる、国内に既にある資料をできるだけ把握する、多ければ多いほどよい。次にすでにある理解できる資料については、できるだけ時間をかける、要約や感想を書けるといい。さらに、読んだ資料について真剣に考えてみる、既存のマルクス主義的観点を用いて思索を加えてみる、自身理解したことを提起する、生み出された観点を論述する。最後にまとめるのだが、自身だけの観点があればさらに良い。
 朱老師の指導を得て、論文はようやく完成し、パスした、成績は理想通りではなかったが、それは道理であった、しかし指導教授の指導教授の学問を納める態度、文章を作成する方法から裨益したことは少なくなかった(受益匪浅)。すでに数十年過去のことになったが、講義の原稿を書く時も論文を書く時もずっとこの方法を用いている。
 これらすべてのことはすべてわが恩師朱光潜教授が私に与えた高貴な財産であり、私は生きている限りしっかり記憶して伝承してゆくつもりだ。
 二つ目。北京大学に試験で入った私は、男子バレーボール隊に選抜された。指導教授は林后武教授だった。これは親しみやすく(和蔼可亲)全員が大好きな種目だった。毎回のトレーニングで彼にはいつも計画があり、一定の順番で(按部就班地)進められた、もちろん基本的テクニックや技はすべて彼が自ら手本を示した。(当時、彼はすでに50歳を数年超えていたが!)
 試合のたびに、彼は全精神をあらわにして(精神抖搂)自信にあふれて(自信十足地)指導し、勝てば褒めたたえ、敗けても怒らず、常に励ます人だった。彼はひとりひとりの隊員の体の特徴と技術の特徴をはっきり理解していた。或る時、彼は私が左肩を痛めたのをみて、すぐに私の情況を調整して私を控え(二传手)にした、私と林尼克との組み合わせと暗黙の理解が、全隊の実力を多いに強化したことは、嬉しいことだった。
 林教授とメムバーとは親密な関係であった、私は良い教育的訓練、良い教師を心から尊敬する、彼は「人に尽くす師」の優秀な品徳を自ら体現していた、私が永遠に学ぶべき模範である!彼の精神力にあふれた両眼、小柄だが精悍な体は深く私の脳裡にとどまっている。
 三つ目。1958年8月から1959年5月。哲学系の全教員と学生は大興県黄村人民公社に農業を学ぶため下った。私たちの年級は芦城だった。あの「特殊な時期」であったが、しかし私たちは、たとえば生活、労働、群衆の三つの関係の中で過ごすことで、なにがしか得るところがあった。私は農村の生活を理解し、苦しい労働の鍛錬を受け、「農民たち(老乡)」がさらに好きになった。別れの時には全村の老若が村の出入り口に立ち、先生も学生も皆涙を流して別れを惜しんだ。しかしここで私は沈痛な教訓、経験のマイナス面を追憶せねばならない。それは我々が科学世界観を形成するに至った、マルクス主義学説を深く学習することになった、重要な教育意義のある事件でもある。その年、我々はまさに人民公社の成立過程を経験した。すぐに「共産風」が吹き始め、黄村公社は「十二包」を実行せねばならない、すなわち「衣食住行、生老病死、婚喪嫁娶」公社がすべて保証(全包)する、併せて「黄村公社は共産主義を先行(提前)実現する」ことを宣言することになった。これは当然一種の妄想で、実行できないことであった。各人に毎月三角支払うと言って、1ケ月経ち全く支払われなかった。また労力の多少にかかわらず老若にかかわらずすべて三角支払うというのは、労働力と人口の少ない家庭の積極性に極端な打撃を与えた、多くの人が力を出さなくなった。同時に「現実を掛け離れる風(浮夸风)」もひどく吹き荒れた。ある人は「人は多いほど大胆で、地面は多いほど生産も多い」と提起した。生産隊長は、戻ってきて伝達して言うには、ある隊は1959年1ム―当たり麦80万斤(訳注 1斤0.5キログラムとして40万kgつまり 400t)提起したので、芦城大隊の出した20万斤(100t)は保守的になった。農村では会議で大口をたたいた(吹牛皮)が、タダ言うだけで、誰も真剣に履行しなかった。しかし我々下放の大学生はとてもまじめで、生産隊長に貫徹を迫った。生産隊は1ムーの土地を与え、我々は三尺深く掘り、30斤の麦の種をまいた。生産隊長はそのように多くの種をまく必要はないと言ったが、我々は聞かなかった。結果、麦派成熟しなかった、1ムーの地に麦の苗は満ちたが、人はそこに入れなかった。麦の苗の間に通風通道がなければ麦は成長せず、1ム―の実験田はすべて無駄になり、実験は完全に失敗した。実験の前に全員が同意したわけではなかった、生産隊長は同意しなかったし、班の中にも疑問を出す者がいた、しかし全員が保守分子とされ、さらに夜には批判会が開かれることになった。原因は分からないが、夜の批判会は開かれなかった。
 この事件は私が農村に下放したときに自信で経験したことであり、私の前半生に大きな影響を与え、私に以下を認識させた。(1)「左」傾が襲来しているとき、抵抗するべきだが、これはとても困難で、勇気が必要だ。自身が把握していないときは、盲目的に意思を表明する必要はない、むしろ「積極的でない」との評価(帽子)を受けて、飛び出さないことである。もし誤りが明らかなら、すぐにそれを抑えるべきである。(2)いついかなる状況でも実際の情況から出発して正確に問題を処理すること(実事求是)を目指すべきで、盲従してはならず、風にまどわされてもならない。堅く科学発展観を用いて問題を処理すべきである。これは原則問題であり、人民の利益、党と国家の前途と命運にかかわることである。(3)「左」傾は良いものではない。極端に「左」を行う人は幼稚であるだけでなく、ある種の思いにとりつかれている(別有用心)のだ。「左」と「右」ともに科学と実際から乖離しており、ともに人民の利益を損なっている。当然、このように言うことは易く、行うことはむつかしい、しかし我々はともかくうまくするように努力すべきであり、祖国と人民利益のためにひたすら不断に、また永遠に前進すべきである。

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