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澤蔵司稲荷

「たくぞうすいなり」と読む。場所は傳通院から小石川、春日方面に坂を下りてすぐ。傳通院に現れた澤蔵司稲荷が祭られている。階段を上がり右手に行くと、「おあな」に下りる入り口がある。そこはちょっとした異世界で、初めて来た人はちょっと感激する。
 祀られ始めたのは元和六年1620年とされる。しかし明らかに建物は建て替わっている。ここに一体、古いものが、残っているだろうかと、一瞬躊躇するが、しかし実はいくつかある。
 まず澤蔵司稲荷に上がる階段の両脇にあるレリーフである。これはこれまでいつのものかはっきりしなかった。ただレリーフ上段に日向延岡藩とあるので江戸期と推定されていた。日向延岡藩は九州で唯一の譜代大名。とはいえ澤蔵司稲荷との接点は不明。ただ私はいつもこのレリーフを見て、いろいろ想像が膨らむので紹介しておきたい。とても興趣を誘われる絵柄なのだ。2枚とも親狐と子狐が2匹を描いたものであろうか。上の1枚はおそらく火事で焼けたのか、黒ずんだ箇所がある。
 そしてレリーフに刻まれた寄進者名からこのレリーフの時期が推定できることがわかった。レリーフにある、酒井五左衛門と服部伝兵衛はいずれも江戸幕府の旗本であったが、延岡藩に請われて、銀山開発にあたったもの。酒井五左衛門が同藩の銀山奉行となったのは嘉永5年1852年7月と判明する。この銀山は大変繁栄し、酒井たちは各地の寺社に寄進を行ったことが知られるので、このレリーフはそうした寄進の一つと推定できる。その時期は嘉永5年からそれほど離れない江戸末期とみてよいだろう。
 <内藤家文書>の要約と参考資料 2019/08  レリーフにある酒井五左衛門、服部伝兵衛、遠山千兵衛の3人の名前がすべてこの資料に見いだせる。


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 そして階段の上にあがると境内が見える。ここでは、そこにある二つの石仏を紹介したい。境内の左手にあるのが下の写真の、異形の仏師の姿の石像。これが実は古いもので寛文九年1669年とかろうじて読める。その下の写真は境内右手に祀られているもので、供養庚申誦とあり、天和三年1683年とある。なにげなく地面に置かれた二つの石像のいずれもがこの地が、17世紀から祀られていることを立証する大事な資料である(境内の灯篭は確認した限りでは大正期のもの)。その下の2枚の写真は境内の様子で、奥に進んで右手にゆくと冒頭述べた「おあな」への下り口がある。
 アクセス 後楽園から傳通院へ。傳通院より右手、善光寺坂を下りてすぐの左手。なお傳通院の入り口に入るところの「善光寺坂の椋の木」がある。これは樹齢400年と推定されるが、昔はこのあたりも傳通院の境内であったとのこと。椋の木の左側の邸宅は「幸田露伴邸」があったところで現在も関係者が住まわれている。
      

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