徐友漁「文化大革命とは何であったか?(上)」
徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回はpp.xxxvii-xlvまで。
(解説) 文革をどう評価するか。日本社会から見ると異常な事件である文革。政治的でもある文革の評価を私自身も避けてきたが、いろいろ資料を読むほど、中国の最近の政治経済を考える上でやはり評価することを避けて通れないと考えるようになった。というのは、中国の現在の指導者は、若い時あるいは子供の時に、自身文革を経験した人たちだからだ。つまり文革を経たからこそ、今日の中国があるともいえる。
この文献は、最近の2018年のものであるので、現時点での総括の方向を考える上で参考になるのではないか。著者はかつて中国社会科学院哲学研究所研究員。現在はニューヨーク在住の文化革命研究者。この徐友漁の解説は文革の発動は、毛が死後に劉少奇により大躍進の失敗を批判されることを恐れてのことだとしている。また1966年から68年までの一見複雑な文革のプロセス。紅衛兵の登場、造反派・保守派の対立を、整理して述べている。
(訳文)p.xxxvii 文化大革命は1966年5月16日に爆発した。この日、中共中央は<中国共産党中央委員会通知>(<五一六通知>)を発出し、正式に文革を始めた。その中で、毛沢東は「党内資産階級」に向けて侵攻を号令した。
1976年9月9日、文革の発動者毛沢東が世を去った。10月6日、宮廷政変が発生した。毛の妻江青とその他毛指導の文革を補佐する高官が捕縛され、文革は実際上ここで終わった。中共が正式に文革の終了を宣言するのは10ケ月あとであるが。中国大陸での一般的な言い方は「十年文革」である。
文革とは何であったか?人によって見方は異なり、論争が絶えず続いている。かつ(論争は)相当激烈である。ある人は文革は災難であった、大災難(浩劫 ハオチエ)であった、文革中の死傷者はとても多く(众多 チョントオ )、不当に有罪とされる災難にあったもの(蒙冤受屈者)はとても多いから。(しかし) 別の一部の人たちは言う、文革は人民の盛大なお祭りだった。なぜなら文革中、人民は言論の自由と結社の自由を享受し、官僚特権分子を思うまま批判できたから。
1981年6月27日 、中共十一届六中全会は「建国以来党の若干の歴史問題に決議について」を可決、文革の性質を「指導者が誤って発動し、反革命集団により利用されたもので、党、国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と規定し、文革中の破壊は「林彪、江青の二つの反革命集団が」毛沢東の活動を装って作り出したものとした。これらの論壇が事実根拠を有するかどうか、以下の叙述分析に照らしたとき、人々は結論をだすことはむつかしくない。
p.xxxviii 一 文化大革命の指標性事件
文革が何であったかを知るためには、まず文革中どのような事情が発生したかを知るべきである。以下簡単に十四の事件を列挙し、文革中に何が生じたかを説明する。
第一、大学入学考試の廃止。1966年6月、中央政府は高考の停止、大学中学小学は授業を停止し文化革命をすることを命令した。1970年からは大学は一部開門したが、学生は考試を通過したものではなく、推薦と選抜を通過して入学する。これを「工農兵大学生」という、人々は「大学という名称だが、教材は中学、(学力)水準は小学校」だと考えた。中国において高考が回復するのは、1977年末である。
第二、大規模な批判あるいは闘争会。学生といわゆる革命群衆は、校長・教師・学者・芸術家・作家そして官僚などを、これらの人が反革命修正主義分子であるとして、隠すところなく(公開)譴責したり辱めた(羞辱)。批判闘争はしばしば殴打を伴い、ときに死者が出た。批判闘争される人は「牛鬼蛇神(訳注 奇怪な姿をした鬼神。転じて社会的に邪悪な人)」と呼ばれ、彼らを押し込む場所は「牛棚」と呼ばれた。伝統的な階級敵である、地主、富農、右派分子などが、さらにひどい迫害を受けたことは言うまでもない。
第三、個人崇拝。毛沢東は「偉大な指導者(導師)、偉大な領袖、偉大な統帥、偉大な舵手」と呼ばれ、彼の話は「一言一言が真理で、一言は一万の言葉に値し」、憲法や法律の威力に勝るとされた。政治上は「誰であれ毛主席に反対する者は、全党がともにこれを懲罰(誅)し、全国ともにこれを討つ」。法律上は、毛沢東を批評する行為は現行反革命として処理された。『毛主席語録』は五十余りの言語に翻訳出版され、五十億冊余りが印刷された。
第四、文物古跡の破壊。「破四旧」の嵐がおきた。すなわち「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」を廃棄廃止(破除)せねばならないとして、「新思想、新文化、新風俗、新習慣」が樹立されねばならないと宣言された。学生たちは、図書館を強奪し、図書を焼き、教室・寺廟・回教寺院(清真寺)を打ち壊し、墓地を破壊したなど。彼らはまたいわゆる地主分子を北京など大都市から追い出した。文化大革命が作りだした破壊は人を驚かすもので、不完全な統計によれば1966年8月、紅衛兵は北京で1700人余りを殴り殺し、3万戸あまりの家を荒らし(找家 家屋に押し入って破四旧をするなど)、没収された私人不動産は52萬部屋、10萬近い人が北京から駆逐された。
第五、「血統論」。高級幹部の子女が1966年5月末に紅衛兵を始めた。彼らの組織原則が「血統論」であり、彼らのスローガンは「英雄の子供はよい奴(好漢)で、反動の子供はクズ(混蛋)」だった。彼らは黒色家庭背景の同窓生を辱め、運動に参加する
p.xxxix 権利を奪った。北京の青年労働者遇罗克が「血統論」に反駁しようと<出身論>を書き、とても大きな反響と共感を引き起こしたが、彼は思想犯とされて死刑に処せられた。
第六、当時「大連携(大串聯)」と呼ばれた、革命旅行。中央政府の督励のもと、1966年秋から、中国のすべての中学生(訳注 日本的にいえば中高生)と大学生は思う所に行って、「革命経験を交流」することができた。彼らは飛行機を除いてどの交通手段(工具)も無料で乗車でき、無料で接遇(接待)された。無料で旅行した人は1000万余りに達した。その絶対多数は北京を経由し、毛沢東の検閲を受けた。(これは)当時の交通、生産状況に多大な負担(糟糕)だったと容易に想像がつく。
第七、革命文芸番組(节目)。文革の間、中国八億の人は8つのいわゆる「学習劇(样板戏)」だけを鑑賞できた。そのいずれもが毛の妻である江青の指導のもとに製作されたもので、革命文芸の測量(标竿 标杆の誤りか)と模倣の対象とされた。江青はこれにより「文化革命の旗手」の栄誉を受けた。学習劇は強烈かつ偏狭に毛沢東の政治路線に服務し、大衆(群衆)が聞くことを喜び見ることを楽しむ番組を排斥しただけでなく、排斥は江青が自ら定めたところにとどまらず、一般の革命宣伝番組の進行にも及んだ。
第八、「二月の反乱鎮定」。1967年2-3月、中国の大部分の省と地区で軍隊が鎮圧した造反派群衆組織事件があった。1万を超える組織が取締りを受け解散させられました。百万を超える首謀者(骨干份子)が逮捕され、地方によっては鎮圧行動は直接中央層クラスの指令によるものでした。同時に北京の高層では、何人かの元帥と副総理を頭とする老幹部が文革派を非難し、毛派はこれを「二月逆流」と呼びました。3月から4月、毛派は反撃に出ました。各地で鎮圧した軍隊は「革命群衆の方向性を鎮圧したことは、路線上の誤りを犯した」ことを承認するように迫られ、鎮圧された造反派組織は回復発展し、鎮圧を支援した保守派は速やかに瓦解した。
第九、「七二〇事件」。1967年7月20日、武漢地区駐軍は、中央が湖北に派遣した処理文革問題の代表謝富治と王力を拘留し殴打した。事件は軍の側の中央の方針と決定(武漢軍区が造反派を抑え保守派を支持したことは、方向、路線の誤りを犯したと認定したもの)への不満と不服に起因する。この期間、毛沢東は武漢に住んでいたので、大慌てで(仓皇)飛び去ることになった。この事件は一時大げさに(渲染)「武装反乱(武装兵変)」とされ、「槍を帯びた反動路線」に対する討伐との声の広がりを引き起こした。
第十、清華大学の武闘と毛沢東の「五大学領袖」との接見。1967年(訳注 1968年のはず)4月下旬から7月末、清華大学の対立する二つの派閥では約100日の大武闘が発生。
p.xl 7月27日夜遅く、毛沢東は数万の労働者と解放軍を清華大学に進駐させ武闘を制止させようとしたところ、「共産主義青年団派」(訳注 が?共産主義青年団を使い)攻撃に会い、死傷者が多数でた。毛沢東はこのため激怒し連夜北京紅衛兵造反派五大学生領袖を招集し、厳しく訓戒叱責(训斥)した。かつては「革命少将」を宣告したが、現在貴方たちは誤りを犯している!その後、毛は軍隊と動労者を全国のあらゆる大学と中学に進駐させた。全体として言えば、学生組織が主導した文革運動の局面はここに終わった。
第十一、英国代弁処が焼き討ちを受けた。1967年8月22日、造反学生は英国の駐華代弁処を打ち壊し奪い、建物や自動車に放火し、外交人員をののしり乱暴した。これは香港のある工場の労使紛争で香港左派の造反を英当局が弾圧したことによる。その後、中国外交部の誤った最後通牒は未だ執行されていない。
第十二、知識青年の下放(上山下郷)。毛沢東の号令の下、1968年末から、数百万の中学生が農村、山区そして辺遠地区に「再教育」を受けるため行かされた。10年のうちに、あわせて1700万の中学生が下放した。
第十三、一連の清査と清算運動。文革の第一目標の劉少奇が権力から降ろされた後、運動の矛先は大衆(群衆)に向かった。1968年に発動された「階級隊伍をきれいにしよう」運動、1970年に発動された「一打三反」運動と清査「五一六」運動、前の二つの運動は文革初期の「牛鬼蛇神を捕まえる」に比べて及ぶものではない、あとの一つの運動は「造反学生」に対する反抗を止めるものだった。運動は無数の誤った判断による被害(冤案)を生み出し、1100万の人が徹底した検査(清查)を受けた、押し込められた人、自殺に追い込まれた人は数えられていない。
第十四、林彪事件。1971年9月13日、林彪とその妻、息子は中国から逃亡したが、飛行機事故により蒙古で亡くなった。文革中、林彪は毛沢東の継承人として確立していた、林彪事件は極めて重い意識形態の危機を作り出した。多くの人が、文革につき懐疑反省を始め、毛沢東は「絶対正確」との信念を動揺させた。
文革最大の破壊は法治を踏みにじった(践踏)ことであり、人権を犯し人に危害をくわえたことである。以下はある官方組織が発表した不完全な統計数字である。文革中あわせて420万人が押し込められ審査を受けた。172万人が非正常に亡くなった。13万の政治犯が死刑に処せられた。罪名は現行反革命であった。武闘中23万が亡くなった、傷害が残ったものは700万をこえる。
p.xli 二 毛沢東はなぜ文化大革命を発動せねばならなかったのか
毛沢東はなぜ文革を発動せねばならなかったのか?三種の回答がある。第一種は述べる、指導者の間に政策の分岐があったと。 毛はマルクス主義を堅持し、社会公正と平等を堅持し、社会主義と共産主義を実現しようとしたが、彼の対抗者は資本主義政策を実行し、中国社会には貧富の分化が出現しはじめた。毛は資本主義が中国で復辟すること(訳注 君主にもどること)を防止するため文化大革命を発動した。第二種(の説明)は言う、毛が文革を発動したのは純粋に権力闘争による、毛は権力を失うことを感じ、その権力が挑戦を受けることを避けるために、競争相手である劉少奇(当時国家主席に着任)を引きずり下ろした。第三種は言う、毛が文革を発動した動機には政策の分岐があるとともに、権力闘争もあると。
政策の分岐が毛が文革を発動し劉少奇を打倒した唯一の原因でないことを理解すること(看出)は、むつかしくない。劉少奇はたちまち打倒された。しかし彼の主要な罪名は「反逆者、内部の悪人、労働者の敵」であり、その次に彼を指して「毛主席に反対した」と責められた。文革が開始されると、彼は直ぐに毛沢東に屈服を示し、すべての誤りを進んで改める年、すべての権力を差し出す用意があると言い、故郷の家に戻って農業を営むとしたが、毛は全く手を休めなかった。明らかに毛は劉とその追随者を徹底的に消滅(干掉) する必要があった。毛と劉には確かに路線と政策の分岐があり、劉の政策は比較実際的で経済の発展を重視するもので、毛の政策は比較激烈で、彼はとても短時間に社会主義と共産主義を実現しようとしていた。それゆえ多くの文革研究者は、毛が文革を発動したのは、劉少奇の政策との分岐とともに、彼らの間の権力闘争から出されたという、こうした観点をもっている。
人心を獲得し、政権を奪取するために、毛沢東と中国共産党は1949年の前においては、 中国人民の許諾を得るため、権力掌握後実行する政策はソ連式のものではなく、社会主義革命ははるか先のことだとした。その政治綱領は新民主主義と呼ばれ、その他の党派が中共と政権を分有(分享)することを許すもので、経済政策は市場経済を含む混合経済だとした。ところがひとたび政権を取ると、毛は直ぐに親民主主義の承諾を放棄し、社会主義革命を進めた。他方、劉少奇は新民主主義の承諾を守ること(信守)を主張し、新民主主義を強固かつ発展すべきだとした。このことで、毛は党で二番手であることと後継者の地位との取消を決意した。1953年にスターリンが亡くなったあと、毛は世界共産主義運動の一番手は彼ではなくモスクワであることを認識していた、しかし彼は巨大な困難に直面していた。ソ連は経済上中国に比べ先進で強大だとした。世界の共産主義の領袖となるために、毛は必ず中国を強大にせねばならなかった。1958年に彼は大躍進を発動したとき、短時間のうちに中国を経済上、英国とソ連、あるいは米国さえを超えさせることをp.xlii 企図した。不幸なことに、大躍進は惨敗を告げて終わった。劉少奇の指導と彼の現実的な(务实)政策のおかげで、中国は災難から抜け出ることができた。経済回復過程の中で、劉の権力はますます大きくなり、声望はますます高まった。毛にとって脅威はすでに、容認できないところまで高まっていた。毛は文革を発動し劉を除く決定をした。
1960年に、毛と劉は対面で談話をしている。毛は劉に話した。「私はただ小指の先を動かすだけで、貴方を打倒できる」と。毛の言ったことは本当だった。それでは毛はなぜ小指の先を動かすだけではなかったのか?見るところ、毛が文革を発動したのには、劉一個人の職務を解除するよりはずっと大きな目的があった。
まず毛沢東が倒さねばならなかったのは、ただ劉少奇だけではなく、彼の同盟者、支持者、追随者を含めねばならなかった。通常のやり方に従うなら、毛は一度また一度と党内闘争を発動することが必要だった。(そして)こうした人を一人ずつあるいはひと塊ずつ、引き倒す。毛は(しかし)その時間の余裕がなかった。文革を発動する前、彼はすでに70歳を超えていた。
このほか、毛が打倒せねばならないとした大多数の人について、彼は適切で十分な罪名をみつけることができなかった。中国共産党は高度に統合(統一)されている。各クラスの官僚は皆規則に従い(照章)事を行う、例え、劉少奇の意図を執行するにせよ、彼らは命令を受けて行ったに過ぎない。それに、劉の命令はいずれも中央の名義である。
事実が証明することは、文化大革命は毛沢東が大量に反対者を取り除いて、権力を完全に自己の手中とする、もっとも簡単で速い、有効な方法だった。1967年1月からすべての省に革命委員会が設立され、それがもともとの省委員会や省政府に置き換わったこと、省革命委員会の組織化は毛が統制し、その主要指導者は毛が批准したことである。以下の各クラス権力機構、すなわち市、県などの革命委員会はすべて省革命委員会設立に倣って設立された。各クラスの革命委員会は「新制の紅色政権」のためののものであり、実質的な違いは、それらが毛の権力機構であり、(これに対し)以前の省委員会あるいは省政府は「旧政権」すなわち劉少奇の権力基礎とみなされた点にあった。
単に権力を譲り下野するだけでなく、文革の方法を用いた劉少奇の完全な死によってのみ、毛沢東の憂慮は除くことが出来た。それは毛の死後、劉が秘密報告をして毛の罪行を暴露譴責することであった。ちょうどフルシチョフがソ連共産党二十回大会で秘密報告を行いスターリンを批判したように。毛沢東は<五一六通知>の中で言う。「フルシチョフのような人物は、今まさに我々のそばで眠っている。」これは実際まさに劉少奇を指している。毛沢東から見れば、劉少奇の
p.xliii 息子劉源は自身書いた『あなたが知らない劉少奇』の中で言う。1962年、毛がおこした大躍進と人民公社運動が中国に餓死3000万あまりをもたらしたあと、劉と毛は中南海で対面で談話し、劉は毛に政策の変更を求めたが毛は受け入れない、劉は言った「かくも多くの餓死者、歴史はあなたとわたしの(責任だと)書かれねばならない(要写上你我的)、人が互いに食べたた、(これは人々に)伝えられねばならない(要上书的)!」この話は毛を激怒させた。劉が歴史書で毛をいかに描くかは、明らかだと毛が固く信じた。ひとたび劉より先に毛が死ねば、劉は必ず毛を暴露批判すると。毛は歴史感があることが自慢だった人、彼が文化大革命を発動したのは彼の死後彼が譴責受けない保証を求めたからである。
三 紅衛兵、大衆組織と派閥闘争
文化大革命のもっとも重要な特徴は、大規模で前例のない大衆(群衆)運動で、億萬の人が延々と続く政治運動に巻き込まれたことである。文化大革命中、人々は各種各様の大衆組織を作った、小さいものは三五人さらには一人、大きいものは百万を超えることがありえた。これらの組織の目標、構成員(成分)そして行為方式は、決して完全に同じではなかった。まず学生組織は、各種の大衆組織の中で先鋒と指導作用をした。上海を除く全中国で省単位の運動はすべて学生が指導するか主導的だった。学生組織の中でもっとも注目されたのは紅衛兵である。
紅衛兵は1966年5月、清華大学付属中学で生まれた。その発起者は高官の子弟である。文革の初期、すなわち1966年の5月から9月。ただ紅色家庭背景の学生が運動に参加する資格があり、造反を許された。一旦始まると、紅衛兵と紅色家庭背景の学生は、毛の今回の運動の目標が党政官僚の打倒であることの理解がなく、彼らは矛先を伝統的な階級敵人と知識分子に向け、狂ったようにまた残忍に、自身の先生、校長を批判、闘争し、芸術家、作家、演技者と闘争し、さらに党内闘争に敗れたものを迫害した。彼らは1966年8月を「赤い8月(紅八月)」と呼び、北京六中の学生は被害者の鮮血で壁に標語「赤色テロ(紅色恐怖)万歳」!を書いた。
最も早く北京に出現した紅衛兵は「老兵」と称した。労働者人民家庭の紅色子弟を含んでいるが、その組織内部は「血統論」と厳格な等級制をしばしば実行した。例えば職務と父親の職位を対応させるなど。甚だしくは紅衛兵p.xliv の袖標の生地(绒:綿毛、ダウン、绸,布)と長さ(5寸8寸1尺)をすべて父親の官位の大小で決めた。彼らが始めた時は、毛沢東の全力支持と熱い賞賛を得た、江青は彼らを「小さな太陽」と呼んだ。彼らは江青を「江おばさん(江阿姨)」と呼んだ。しかし彼らのパパママ保護の政治立場と毛沢東の「走資派」を打倒せねばならない目標とは、すぐに先鋭に衝突した。彼らは最も早く文革反対のスローガンを公に唱えた(他们最早公开喊出反对文革的口号),そこで文革派権力者により捨てられた、彼らの態度は当時大衆の理解と支持を得られなかった。
全国各地では1966年夏、各クラスの党委員会が組織し操縦する大衆組織が現れた。彼らは党組織に忠実で党組織を守ろうとし、党組織を批判する人を抑えようとした。そこで彼らは「官办組織」「保守派」と呼ばれた。毛沢東支持の下、秋には造反派組織が現れた。彼らは各クラスの党委員会を攻撃、自らは毛沢東に忠実だとして、「死んでも毛主席の無産階級革命路線を守る」とした。彼らは党委員会、政府そして保守派組織から連携した鎮圧を受け、反革命されてしまう。しかし毛沢東の明白な支持のもと。保守派が負かされると勝利する。このような組織は「革命造反派」と呼ばれる。多くの情況では、各クラスの党組織は「大衆の方向性、路線性」で誤りを犯したことを認めることを迫られ、造反派支持に転じ、保守派組織は次第に瓦解した。本当に多くの地方の多くの情況に居て、保守派の失敗はいずれも武闘が標識になる。暴力衝突において造反派により打ち負かされたのである。
保守派のメムバーは半数以上はいわゆる良い家庭背景と政治身分で、本人は中共党員、青年共産主義団員、積極分子あるいは党組織、政府の忠実な支持者だった。これに対して造反派のメムバーの家庭背景は、保守派に及ばなかった。党員や青年共産主義団員は比較少なく、多くの人は平時は平和を好み指導に従う人で、社会的地位の低い人、臨時工、契約工や非国有企業職工を多く含んでいた。一般化して言えば、両派の区別は党組織と現存体制に対して批判的で力で変革を図るか、あるいは擁護支持するかにあった。その場所に対して主要な指導は「つかまえろ(揪)」というのか「そのまま(保)」というのか。しかしどの組織の指導部も「政治面が良い」あるいは家庭出身が良い人だけが担任できたので、文革中最もよく聞かれたスローガン「造反有理」であるが、もう一つのスローガンは「ただ左派が造反することが許され、右派による反乱(翻天)は許されない」。ここで実際上言われているのは、人々の政治身分と家庭出身だ。一つの大衆組織は、指導集団中の人の政治問題を言うまでもなく、一般メムバーに政治身分で質疑を受ける人がいれば、対立派には十分な攻撃の口実になる。
大衆組織の名称は通常は「××革命造反兵団」、一般には例えば「井岡山」「紅岩」のような革命名詞あるいは八一八のように記念になる日付け(1966
p.xlv 年8月18日に毛沢東の接見をえたこと。あるいはその組織が成立した日付け)により命名する。造反派組織は、保守派あるいは「血統論者」のように家庭出身を詮索しないが、家庭出身に従ってメムバーの間を小分けした。その核心は「××紅衛兵」と称すること、その他のメムバーはただ外園性の「××兵団戦士」であるのみ。その頭(かしら)は家庭出身が良くなければならなかった。最も良いのは本人が党員か復員退役軍人。革命性と等級制を示し、境界を画するために、大衆組織の指導核心は一般に職務や官階の称号を用いず、みな「勤務組」と呼んだ。第一号人物はすなわち「一号勤務員」である。
造反派が保守派を打ち破ったあと、すぐに「内戦」に陥った。一般的に言って、各省、各地区ごとに造反派はすべて比較的穏健なものと過激なものの両派がいた。彼らはもともと異なる指導者(文革中「実権派」とよばれた)と関係が密接で、異なる当地の駐留軍に頼った(ある者は省軍区ないし地方軍装部、あるものは野戦軍)、派閥闘争はいよいよ激烈になり、武闘の程度はますます高くなった。使用する武器はこん棒や鉄の棒から槍(槍:銃の意味か)、さらに大砲にエスカレートし、数えきれない死傷者を出した戦闘がいたるところで発生した。
文革中の武闘は、保守派と造反派の間ではもちろん、造反派内部でも発生した。背後には体制内の政治力量の支持と誘導があった。大衆組織の背後の最も重要な力量は軍隊である。彼らは異なる派系に属していた。軍隊は大衆組織に銃を供給した(表面上は彼らに「槍」を取りに行かせた)。毛沢東1967年に何度も「左派を武装させよ」「左派に銃を与えるべき」と指示している。
各地の運動の発展はとてもアンバランスだった。ある省、ある地区では軍隊が指導者を支持して、保守派は始終まったく崩れなかった。1968年夏の後、毛沢東もまた「二つの路線闘争を徹底して進める力はなく、保守派もまた「革命派」だと妥協(勉強)し、両派に大連合を促し、局面を安定化させた。