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深大寺(じんだいじ)

 深大寺は久しぶりの探訪である。今回は調布から行きはバスで向かったが、山門まで意外に時間がかかった。戻りはタクシーを使ったが、土曜ということもあり、甲州街道はとても混んでいて渋滞し時間がかかった。改めてアクセスはよくないとは思った(見出しは後述する深沙大王堂)。
 深大寺では、公開されている釈迦如来倚像(飛鳥時代後期 平成29年2017年に重要文化財から国宝に指定。製作は7世紀の後半から末の白鳳期とされ、深大寺の伝承による深大寺創建の天平5年733年よりさらに古い。東日本最古の仏像とされ畿内地方で製作されて当地に伝来したと考えられている。2017年7月~2018年3月 白鳳三仏展示が当地で行われた。)との再会が楽しみだった。しかし前に来た時とは、国宝指定で状況が変わったのか、釈迦堂展示室の照明が暗くなったように感じた。以前ははっきりと像を見れたのだが、大変暗くなり今回はよく見えなかった。なお釈迦堂に、重要文化財の梵鐘(鋳造は永和2年1376年と古く、釈迦如来倚像とともに本寺の歴史の古さの物証でもある)も展示されていた。
 深大寺の良い点は、緑陰に包まれた環境だ。それは今回の訪問でも確かに感じられた。観光客から離れて少し緑陰に入ると、すぐに深い緑があり、鳥の声が聞こえた。

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 深大寺は慶応元年1865年の大火で一度ほとんどの建物を焼失した。山門が元禄8年(1695年)と唯一古いのは、山門が慶応の大火に焼け残ったことを示している。したがって境内の建物はその後の再建で、基本的に新しいのだが、そのいずれにも装飾彫刻がしっかり彫り込まれていることは、深大寺で嬉しいもう一つの点だ。

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    慶応の大火後、最初に再建されたのが元三(がんざん)大師(慈恵大師像 令和2年2020年3月に東京都有形文化財に指定 製作は鎌倉末期と推定される像高2M近い木造の巨像)を祀る元三大師堂である(慶応3年1867年再建)。そして鐘楼が明治3年1870年再建。さらにその後、本堂の再建が大正7年1918年であるので大師堂の再建は早かったものの、本堂の再建には50年を要したことになる。
    その過程で起きたのが大師堂での釈迦如来倚像の「発見」だった。明治42年1909年に大師堂を訪れた柴田常恵(東京大学助手 考古学者)により本像は発見され、大正2年1913年に白鳳仏として旧国宝に指定されている(大正4年1915年5月31日には京王線新宿―調布間が開通している。中央線の方は、甲武鉄道としてすでに明治22年1989年4月11日に新宿―立川間が開通している。甲武鉄道はその後、明治29年1906年の鉄道国有化法で国有化。また、大正8年1919年には東京駅まで延伸が完成している。明治42年1909年に柴田はどのように深大寺にたどりついたのだろうか。甲武鉄道(現中央線)の三鷹あたりから南に1時間ほど歩くと深大寺である。深大寺道を見よ)。この発見や国宝指定が当時どの程度、報道され社会的に注目された「事件」だったのかはよく調べたいところだ。
   深大寺 釈迦如来倚像発見物語 2017/05/27   発見されたときの模様と、「発見」当時、深大寺は経済的に困窮し修繕費などの捻出に困っていたことが記されている。なお、第二次大戦前の昭和7年1932年に発見されたものとして、千葉県印旛沼の龍角寺の白鳳仏のお話しがある。深大寺を含め、これらの事例が示すのは、関東圏への仏教文化の渡来は7世紀に遡ることができ、畿内と大きな時差がなかったという事実である。
 深大寺HPによれば、大正11年1922年秋、深大寺は摂政宮(昭和天皇  明治34年1901年-昭和64年1989年)の行啓を仰ぎ、その時、摂政宮が白鳳仏を台覧されている。白鳳仏の旧国宝指定に続く、摂政宮の行啓。これは深大寺の近代の歴史で大きな節目であったように思える。

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   ここでは最後に昭和43年1968年に再建された深沙(じんじゃ)大王堂を紹介したい。深大寺が天平5年733年に法相宗の寺院として創建されたときに祀っていた、水神「深沙大王」を祀っている。明治の神仏分離令(明治元年1868年3月神仏判然令)で破却されたものを、再建したもの。この大王堂の中の宮殿くうでん(寛文年間1662-1673製作)があるが、さらにその中に厨子があり、大王像が収められているのではないか。平安時代に深大寺が天台宗になって以降も、深沙大王は深大寺で祀られていた。神仏分離令からちょうど100年で、大王堂が復活され(大王堂での祭礼も復活され)たということは、とても興味深い。水神は湧水が豊富なこの地の風景と重なる。

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『与謝野晶子歌集 与謝野晶子自選』岩波文庫1985年改版(原著は昭和13年1938年刊行) より二首(281頁)。
 武蔵野の名所の図より深大寺小高くなりぬ末の世にして
 浮岳山南大門無きのちの木戸の内外(うちと)に鳴るいづみかな 

   境内には多くの文人の句碑や歌碑がならぶ。
 石田波郷の墓が深大寺にあることは有名だが、彼の句碑にある句は以下のとおりだが、これは心に響いた。
 吹起る秋風鶴を歩ましむ

 境内を外に出ると蕎麦屋が並ぶ。皆吉爽雨の句に以下がある。
 春惜しむ深大寺蕎麦ひとすすり

   なお石田波郷は第二次大戦下で深大寺蕎麦を食べられなかったことを句集「風切」(昭和18年1943年)のなかでつぎのように詠んだ。
 鵙(もず)の昼深大寺蕎麦なかりけり
   (鵙の昼というのは季語「鵙の贄(にえ)」をもじった言い方だろう)

アクセス 京王線調布駅よりバスあるいはタクシー(このほか京王線つつじが丘、中央線三鷹、吉祥寺などからバス便あり)。なお京王線の布田あるいは調布から深大寺までの直線距離は2KM程度であり、徒歩で向かうには深大寺道と言われる昔からの参詣の道がある。


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