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1962-64年の李維漢批判


 1962-64年の李維漢に対する批判は、文化大革命発動前に生じた幹部批判の一つである。見落とされがちだが、何が批判され、どのような可能性がつぶされたのかは、なお検証の必要がある。一つの注目点は、資産階級消滅、階級闘争消滅という考え方を出したとして批判され、たとえ社会主義段階になっても資産階級は消滅せず、階級闘争は延々と続くという考え方が対置されたことだ。李維漢  回憶與研究  中共黨史出版社 pp.682-684より

p.682 1962年後半、全党と全国人民の2年あまりの努力と、調整,強固(鞏固),充実,提高の方針をまじめに貫徹したことでわが国国民経済の重大な困難は、次第に克服され経済情勢は明らかに好転した。このときに党内の左の思想が再び台頭した。毛沢東同志は同年9月に招集された党の八届十中全会において、「社会主義社会において一定範囲で存在する階級闘争を拡大し絶対化し発展させることは、1957年の反右派闘争以後提出された無産階級と資産階級の矛盾が依然として我が国社会の主要矛盾であるという観点に根差すものである。さらに一歩進んで断言する。すべての社会主義の歴史段階において資産階級は常に存在して復権(復辟)を企てようとするものであり、党内に修正主義が生まれる根源であると。」(『建国以来党のいくばくかの歴史問題にかかわる決議』)と述べ、階級闘争は「毎年毎年、毎月毎月、毎日毎日重視される必要がある」ことを強調した。この種の「左」の思想に指導されるもとで、十中全会はいわゆる(包産到戸を指す)単干風(個人経営あるいは単独経営)そして翻案風を誤って批判し、鄧子恢同志そして習仲勛同志などを誤って批判した。また一部の同志は会議の席で中央統一戦線部を、「統一戦線部は民主党派を社会主義政党に改造し社会主義指導の核心にしようとした」と言って批判した。これは誤解である。徐冰同志が小組会で発言して説明(解釋)した。私は会議で書面発言し、歴史の中で、鄧(小平)、毛(沢東)、謝、古に反することに参加したことについて、自己批判を行った。統一戦線工作になお誤りがあるかについては、部内に戻り検討を進めたいとした(要回到部裏進行檢查)。
   1962年9月八届十中全会のあと、1964年までのあいだ、毛沢東同志の「左」の誤った思想の指導のもと、中央統一戦線部は私に対して2度にわたり批判を行い、私にさまざまな「修正主義」「投降主義」の罪名を強引に被せて、理論政策の是非を転倒させ、統一戦線工作における左の誤りはさらに拡大(発展)した。
 最初の批判は1962年10月に開始された。政策思想検査の名称(名義)で部務会議の範囲で進んだ。1956年以来、私が政策研究の過程で提出したいくつ毛の理論政策の意見、たとえば5年あるいはさらに多くの時間を使い資産階級分子を改造し階級の高低(水平)を実際上消滅させること(短くは、5年で階級を消滅させること)、民主党派を社会主義政党に根本改造して(短くは社会主義政党)と民主党派を中央から基層までの社会主義の指導の核心とし、左派を政治立場上労働階級の一部分とすること、人民民主主義統一戦線が実際上すでに社会主義統一戦線である(短くは社会主義統一戦線)そしてわが国の民族はすでに社会主義民族である、などに対して、名前を挙げずにに批判された。会議は40数回開かれ、半年以上かかった。この時の批判の結果は1963年5月27日「中央統一戦線部の数年にわたるいくつかの政策理論問題の検査総括」(特殊問題報告と略称)が中央に伝送され、一段落した。毛沢東同志はこの特殊問題報告を検閲し、この報告の第一部分である「資産階級消滅問題について」では具体的に修正を行い、資産階級を消滅する時間はさらに長くされるべきだとして、数十年でと会ったのを「数百年の時間さえ」(かかる)と変更した。こうして理論上「左」の誤りはさらに進んだ(発展了)のである。
   1964年5月中旬から6月17日まで、中央は工作会議を挙行した。毛沢東同志は会議に中国に修正主義は出現できるか、フルシチョフは出現できるか、現れたフルシチョフは何をするか、という問題を提出した。8月には中央統一線部は部務会議を招集し、中央工作会議の精神の学習を伝達し、このことにより私(李維漢)に対する2度目の批判が開始され、私の首の上に(扣上)反党反中央反毛主席の罪名が与えられたが、これは真逆に過ぎたこと(非更加顛倒)であった。1964年12月25日、中央は私の中央統一戦線部部長の職務を取り消し(撤掉)、その後三届人代と四届政治協商会議で、私の全国人代副委員長、全国政治協商会議副主席、人代常務委員兼政治協商会議常務委員の職務を取り消した。
   二度目の批判のあいだ、私は部務会議において2回自己批判(檢查)を行った。最後には反党反中央反毛主席の重大な誤りを犯したことを迫られて承認した。当時わたしはすでに70歳の(老)人であり、もし強硬に自己批判を拒めば、党籍を解除され、再び党で仕事をする機会はなくなると考えた。自ら3日思想闘争をし、このこと(綱)を決心し、合わせて主席が重要とする動機と効果統一論を用い、自らの本心とは異なる自己批判により(來爲自己的違心檢查)説明を行った。当時決心したことは一言の弁解もしないことで、中央の処理が少し寛容になることを期待した。私は党内で数十年(過ごし)、党に対して感情は深く、いつも党のそばで党のために仕事をしたいと考えてきた。
 この二度の批判は、いずれも統一戦線工作方面における「左」傾の誤りの集中表現であった。二度の批判は1956年社会主義改造が基本完成後の新たな歴史条件のもと、私が主宰して文献を起草する過程で提出した若干の新問題と新見解を、そのすべてを「階級闘争消滅論を鼓吹し」「対資産階級投降主義」だとした。批判された問題は甚だ多いが、まとめるならいわゆる「五社一短」すなわち、社会主義統一戦線、社会主義政党、社会主義合作共事関係会主義民族、いわゆる社会主義宗教と資産階級の短期消滅である。この「五社一短」がまさに当時強い批判が加えられた私のいわゆる「修正主義綱領」である。

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